探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

常陸麻生藩新庄家

こんにちは、勘矢です。

今回は常陸麻生藩新庄家について調べたことをまとめました。

 

 

1. 常陸麻生藩新庄家

(1)第一次麻生藩

 新庄氏は藤原秀郷の後裔で、南北朝時代頃の俊名が近江国坂田郡新庄(滋賀県米原市)に居住して新庄を称したのにはじまる。代々室町幕府に仕え、1538年に直寛、1549年に直昌の父子が相次いで戦死した。直昌の子直頼は幼少で家臣に庇護され、成長後は豊臣秀吉に仕えた。

 1595年に摂津高槻で嫡男直定とともに各一万石を与えられたが、関ヶ原の戦いで西軍に与したため領地を没収された。直頼・直定父子は会津の蒲生秀行に預けられたが、1604年に赦免されて常陸麻生で三万三百石を与えられた。晩年は嫡男直定とともに駿府に在勤を命じられた。

 二代直定は家督相続時に弟直房に三千石を分与したので二万七千三百石を領した。大坂の両陣に出陣し、1616年奏者番になった。三代直好も大坂の両陣に出陣した。駿府加番、大坂加番をたびたびつとめた。直好の嫡子は病弱のため家督相続は困難のため、分家の直時を婿養子に迎えた。

 

初代 新庄 直頼(なおより)【1538~1612】

 新庄直昌の長男、母は久我大納言某の娘。享年75。

 在職期間:1604年(67)~1612年(75)

 正室は佐久間盛重の娘。

 

二代 新庄 直定(なおさだ)【1562~1618】

 新庄直頼の長男、母は佐久間盛重の娘。享年57。

 在職期間:1613年(52)~1618年(57)

 正室は日野資友の娘。

 

三代 新庄 直好(なおよし)【1599~1662】

 新庄直定の長男、母は日野資友の娘。享年64。

 在職期間:1618年(20)~1662年(64)

 正室信濃飯山藩主 佐久間安政の娘。

 

新庄 直常(なおつね)【?~1654】

 新庄直好の長男。病により嫡子とならず、麻生に閑居。享年。

 正室は旗本 酒井忠吉の娘。

 

 

 四代直時は分家直房の二男で、1649年に父の所領から五百石を与えられ、1656年に宗家直好の婿養子となった。その後直好に実子直矩が生まれるが、直好が没したときに直矩はまだ幼稚であったため直時が家督相続した。直矩が成長すると直時は直矩に家督相続させることを幕府に願い出て許され、隠居料七千石を分与されて交代寄合となった。

 五代直矩は義兄直時から家督相続したときに七千石を分与したので二万三百石を領した。家督相続からわずか2年で没したので、直矩の叔父直之らが末期養子を決めて幕府に願い出たが、隠居の直時に相談しなかったため遺領は収公された。

 

四代 新庄 直時(なおとき)【1626~1677】

 新庄直房の二男、母は川口近次の娘。享年52。

在職期間:1662年(37)~1674年(49)隠居

 正室は一族 新庄直之の娘。継室は新庄直好の娘。

 

五代 新庄 直矩(なおのり)【1660~1676】

新庄直好の子。享年17。

在職期間:1674年(15)~1676年(17)無嗣除封

 

新庄氏略系図



 

(2)第二次麻生藩

 一時断絶となった麻生藩について幕府は、先代直時に直矩の旧領から三千石を加増し、一万石で麻生藩を再興させた。直時は再相続の翌1677年に3度目の大坂加番をつとめ、在番中に大坂で没した。

 七代直詮は1681年に沼田藩主真田信利が改易された際に沼田城破却にあたり、1702年に下館藩主増山正弥が転封されたときに下館城の城請け取りをつとめた。

 八代直祐、九代直隆の頃に農民一揆が起き、農民側の要求を認めた。十代直侯は駿府加番などをつとめた。また、厳しい倹約令を出した。十一代直規は義兄直侯の末期養子よなり家督相続し、凶作による年貢減少のため厳しい倹約令を出した。また、大番頭や大坂加番などをつとめた。十二代直計も大番頭や大坂加番などをつとめた。

 

六代 新庄 直時(なおとき)【1626~1677】

 新庄直房の二男、母は川口近次の娘。享年52。

 在職期間:1676年(51)~1677年(52)名跡取立

 

七代 新庄 直詮(なおのり)【1665~1708】

 新庄直時の長男、母は新庄直好の娘。享年44。

 在職期間:1677年(13)~1708年(44)

 正室は豊後杵築藩主 松平重栄の娘。

 

八代 新庄 直祐(なおすけ)【1692~1746】

 新庄直詮の五男。享年55。

 在職期間:1708年(17)~1735年(44)隠居

 正室は美濃苗木藩主 遠山友春の娘。継室は武蔵岩槻藩主 永井直敬の娘。

 

九代 新庄 直隆(なおたか)【1716~1792】

 新庄直祐の長男。享年77。

 在職期間:1735年(20)~1755年(40)隠居

 

十代 新庄 直侯(なおよし)【1727~1772】

 新庄直祐の二男。享年46。

 在職期間:1755年(29)~1772年(46)

 

十一代 新庄 直規(なおのり)【1751~1808】

 新庄直隆の二男。享年58。

 在職期間:1772年(22)~1803年(53)

 正室は備中足守藩主 木下利忠の娘。継室は常陸牛久藩主 山口弘長の娘。

 

十二代 新庄 直計(なおかず)【1787~1845】

 新庄直規の長男、母は木下利忠の娘。享年59。

 在職期間:1803年(17)~1845年(59)

 正室は豊後臼杵藩主 稲葉弘通の娘。

 

 

(3)幕末の麻生藩

 十三代直彪は1851年に江戸藩邸内に学問所を設立し、1853年のペリー来航時の米国国書に対して開国拒否論を述べた。1859年に大坂加番をつとめ、1864年天狗党の乱では幕命により争乱鎮圧のために出兵した。直彪が急逝すると生まれて間もない直[爻頁](なおもち)が家督相続したが、わずか3歳で早世した。幕府の法令では17歳未満の者の養子は認めていないためお家断絶の危機であったが、跡目相続の嘆願運動があり、分家新庄勝三郎家の当主直敬が相続することになった。

 1868年4月に大総督宮より領国近隣の鎮撫を命ぜられ、翌1869年に版籍奉還して麻生藩知事となった。同年に藩校精義館を創設した。1871年廃藩置県を迎えた。

 

十三代 新庄 直彪(なおとら)【1839~1865】

 新庄直計の五男、母は稲葉弘通の娘。享年27。

 在職期間:1845年(7)~1865年(27)

 正室陸奥棚倉藩主 松平康爵の養女(叔父新庄直行の娘)。

 

十四代 新庄 直[爻頁] (なおもち)【1865~1867】

 新庄直彪の長男、母は松平康爵の養女。容丸。享年3。

 在職期間:1865年(1)~1867年(3)

 

十五代 新庄 直敬(なおなり)【1821~1872】

 分家 新庄直孝の長男、母は本多飛騨守の娘。享年52。

 在職期間:1867年(47)~1871年(51)1869年より知藩事

 正室は松平信意の娘。

 

 茨城県行方市の麻生小学校の場所にかつて麻生藩陣屋があり、その近くの麻生藩家老屋敷記念館は、藩の家老を勤めた畑家の屋敷であった。表門・主屋などが残っている。

 

麻生藩家老屋敷



 

参考文献:

 江戸時代全大名家事典(東京堂出版

 日本史諸家系図人名事典(講談社

 江戸大名家血族事典(新人物往来社

 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社

 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 名門・名家大辞典(東京堂出版

 常陸国麻生藩の研究(植田敏雄 著 / 茨城新聞社

 お家相続 大名家の苦闘(大森映子 著 / 角川選書

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。