こんにちは、勘矢です。
1. 宇土藩と熊本新田藩の細川家
三代熊本藩主 光尚の二男 利重は1666年に兄綱利より新田蔵米 三万五千石を分与され、熊本新田藩を立藩しました。江戸屋敷が鉄砲洲にあったことから鉄砲洲細川家ともいわれました。のちに高瀬藩と改称しました。
宇土藩主と熊本新田藩主の多くが勅使馳走役などをつとめました。
2. 肥後宇土藩主
初代 細川 行孝(ゆきたか)【1637~1690】
細川立孝の長男、母は側室 布施野氏。
正室は加来某の娘。
二代 細川 有孝(ありたか)【1676~1733】
細川行孝の三男、母は加来氏。
正室は肥後熊本新田藩主 細川利重の娘。
三代 細川 興生(おきなり)【1699~1737】
細川有孝の長男、母は側室 坂口氏。
1703年にわずか5歳で肥後宇土藩を相続しました。1718年(20)に勅使馳走役をつとめました。1735年に37歳で隠居しました。享年39。
四代 細川 興里(おきさと)【1722~1745】
細川興生の長男、母は側室 児玉氏。
1735年に14歳で肥後宇土藩を相続しました。1744年(23)に勅使馳走役をつとめました。享年24。
五代 細川 興文(おきのり)【1723~1785】
細川興生の三男、母は側室 竹間氏。
兄の養嗣子となり、1745年に23歳で肥後宇土藩を相続しました。1752年(30)に公儀馳走役をつとめました。藩政改革を実施し、藩財政の建て直しにつとめました。1763年(41)に藩校温知館を創設しました。1772年に50歳で隠居しました。享年63。
正室は公家 八条隆英の娘。
六代 細川 立礼(たつひろ)【1755~1835】
細川興文の三男。
七代 細川 立之(たつゆき)【1784~1818】
細川立礼の長男、母は岩城隆恭の娘。
正室は下総古河藩主 土井利厚の娘。
八代 細川 立政(たつまさ)【1804~1860】
細川立之の長男。
九代 細川 行芬(ゆきか)【1810~1876】
細川立之の二男、母は土井利厚娘。
正室は豊後佐伯藩主 毛利高翰の娘。
十代 細川 立則(たつのり)【1832~1888】
細川行芬の二男、母は毛利高翰の娘。
1851年に20歳で肥後宇土藩を相続しました。1853年(22)にペリーが浦賀に来航すると、浦賀警備を命ぜられ、翌年から1863年(32)まで、相模国走水の台場の警備を宗家の熊本藩から任されました。1862年に31歳で隠居しました。享年57。
十一代 細川 行真(ゆきざね)【1842~1902】
細川行芬の五男、母は側室 若林氏。
兄の養嗣子となり、1862年に21歳で肥後宇土藩を相続しました。1863年(22)に宗家の熊本藩が江戸湾警備を命ぜられると、佃島砲台の警備にあたりました。1865年(24)に藩校樹徳館を創設しました。1869年(28)に版籍奉還し、宇土藩知事に任ぜられましたが、翌年に熊本藩に吸収されました。享年61。
3. 肥後熊本新田藩主
初代 細川 利重(とししげ)【1646~1687】
肥後熊本藩主 細川光尚の二男、母は側室 内海氏。
1662年(17)に熊本藩主の兄 細川綱利より五千石の賂料を与えられ、1666年(21)に改めて新田蔵米 三万五千石を分与され、熊本新田藩を立藩しました。享年42。
二代 細川 利昌(としまさ)【1672~1715】
細川利重の長男、母は側室 築山氏。
1687年に16歳で熊本新田藩を相続しました。1692年(21)に仙洞使馳走役をつとめました。享年44。
細川 利方(としみち)
細川利昌の長男、母は側室 林氏。
1715年に眼疾により廃嫡となりました。
三代 細川 利恭(としやす)【1702~1749】
細川利昌の二男、母は側室 林氏。
1715年に14歳で熊本新田藩を相続しました。1736年(35)に所領を地方知行とされましたが、翌年に蔵米に戻されました。また、1720年(19)と1726年(25)に公儀馳走役をつとめました。享年48。
四代 細川 利寛(としひろ)【1714~1767】
細川利方の子、母は側室 小林氏。
叔父利恭の養子となり、1742年に29歳で熊本新田藩を相続しました。1759年(46)と1765年(52)と1767年(54)に公儀馳走役をつとめました。享年54。
正室は細川利恭の娘 房姫。
細川 利業(としなり)
細川利寛の長男、母は細川利恭の娘。
1763年に病弱により廃嫡となりました。
五代 細川 利致(としゆき)【1750~1781】
細川利寛の三男、母は細川利恭の娘。
1767年に18歳で熊本新田藩を相続しました。1771年(22)と1775年(26)に公儀馳走役をつとめました。享年32。
正室は公家 久我信通の娘。
六代 細川 利庸(としつね)【1754~1805】
細川利寛の四男、母は細川利恭の娘。
兄の養嗣子となり、1781年に28歳で熊本新田藩を相続しました。1785年(32)に公儀馳走役をつとめました。享年52。
七代 細川 利国(としくに)【1784~1810】
細川利庸の二男、母は側室 村松氏。
1806年に23歳で熊本新田藩を相続しました。使節饗応役などをつとめました。享年27。
八代 細川 利愛(としちか)【1788~1841】
細川利庸の三男、母は側室 白鳥氏。
九代 細川 利用(としもち)【1808~1864】
細川利国の子、母は側室 森田氏。
叔父の養嗣子となり、1833年に26歳で熊本新田藩を相続しました。1837年(30)に勅使馳走役をつとめました。1853年(46)に宗家の熊本藩が相模国沿岸警備を命ぜられると、宇土藩と共にその指揮下に入りました。1856年に49歳で隠居しました。享年57。
十代 細川 利永(としなが)【1829~1901】
細川利愛の子、母は側室 山川氏。
義兄の養嗣子となり、1856年に28歳で熊本新田藩を相続しました。1865年(37)に江戸佃島砲台警備をつとめました。翌年、江戸から熊本へ家族と藩士を引き連れて熊本に移り、玉名郡高瀬に居所を定めて高瀬藩と改称しました。1869年(41)に版籍奉還し、高瀬藩知事に任ぜられたが、翌年に熊本藩に吸収されました。享年73。
正室は宇津忠誠の娘。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
近世中期における公儀馳走役ー幕府諸政策との関連をめぐってー(望田朋史 著 / 学習院史学 第56号)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。