探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

御三卿の正室たち

こんにちは、勘矢です。
今回は御三卿正室たちについて調べたことをまとめました。
 
 

1. 田安家

 田安家の当主七代の内、正室を迎えたのは初代宗武、三代斉匡、四代斉荘、五代慶頼の4人で、正室の出身は、閑院家から2名、五摂家筆頭の近衛家から1名、将軍家から1名、田安家の婿養子1名でした。
 初代宗武の正室森姫の大叔母は、六代将軍 家宣の正室 天英院。
 三代斉匡の正室貞子の大叔母は、十代将軍 家治の正室 五十宮倫子。貞子の姪 光子は五代慶頼の継室。慶頼ははじめ、十二代将軍 家慶の娘と婚約。
 四代斉荘は斉匡の嫡男が病弱のため、斉匡の娘 猶姫の婿養子となって田安家を相続した。
 

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近衛家と徳川家の関係図

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閑院宮家と徳川家の関係図
 
 
(1)森姫  【1721~1786】
 1735年(15)に田安家初代 宗武 【1715~1771】と婚姻。1739年(19)に通姫と改名。1771年(51)落飾し、宝蓮院と称した。享年66。
 
 子女は三男四女。
 誠 【1741~1759】:宗武長女。1752年に陸奥仙台藩世子 伊達重村と婚約。享年19。
 裕 【1743】:宗武二女。小次郎 【1745~1753】:宗武長男。英菊 【1747~1752】:宗武二男。
 仲 【1751~1779】:宗武四女。1768年(18)に因幡鳥取藩主 池田重寛の正室となった。享年29。
 治察 【1753~1774】:宗武五男。田安家二代当主。享年22。
 節 【1756~1815】:宗武五女。1771年(16)に長門萩藩世子 毛利治親の正室となった。1782年(27)に治親は藩主となった。1791年(36)に治親が没し、邦媛院と称した。享年60。
 
(2)裕宮貞子 【1782~1825】
 閑院宮美仁親王第一王女 。
 1795年(14)に田安家三代 斉匡 【1779~1848】と婚姻。享年44。
 子女は三女。近姫【1800~1830】:斉匡長女。一橋斉礼室。静 【1803】:斉匡三女。猶姫【1807~1872】:斉匡七女。徳川斉荘室。
 
(3)猶姫 【1807~1872】
 田安斉匡の七女、母は閑院宮美仁親王第一王女。
 1813年(7)に猶姫の婿になることを条件に徳川家斉の十四男 斉荘 【1810~1845】が父斉匡の養子となり、1820年(14)に斉荘と婚姻。1839年(33)に斉荘が尾張家を相続したため、田安家を離れた。1845年(39)に落飾し、貞慎院と称した。享年66。
 
(4)暉姫 【1826~1840】
 十二代将軍 徳川家慶の六女、母はお波奈の方(菅谷氏) 。
 1831年(6)家慶の正室楽宮喬子の御養となり、1839年(14)に田安家五代 慶頼 【1828~1876】と婚約。婚姻に至らず没した。享年15。
 
(5)睦宮光子 【1819~1906】
 閑院宮孝仁親王第三王女。佳宮、營宮とも称した。
 1846年(28)に田安家五代 慶頼と婚姻。享年88。
 
 

2. 一橋家

 一橋家の当主十代の内、正室を迎えた8名と治済の世子治国含めた9名の正室の出身は、五摂家二条家2名、同じく一条家2名、伏見宮家1名、京極宮家1名、将軍家1名、田安家1名、外様大名丹羽家1名です。
 初代宗尹と九代慶喜一条家から正室を迎えた。宗尹の正室顕子の姉妹は、紀州藩主 宗将の継室愛君、水戸藩主 宗翰の正室絢君。慶喜正室美賀子の妹が明治天皇の皇后となる美子(昭憲皇太后)。
 二条家からは治済の二男治国が治孝の長女 隆子、六男斉敦がその妹保子を正室に迎えた。
 二代治済の正室在子の母は閑院宮直仁親王の王女で、妹に十代将軍家治の正室 五十宮倫子。
 七代慶寿の正室直子の大叔母は清水重好の正室貞子で、姉の英子は清水斉明の正室
 四代斉礼とその正室近姫は従姉弟の関係で、近姫と五代斉位は姉弟の関係で、斉位と正室永姫は従兄妹の関係。
 十代茂栄の正室政姫の姉矩姫は、茂栄の兄尾張藩主慶勝の正室
 

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二条家と徳川家の関係図
 
(1)俊姫(顕子)【?~1749】
 1742年に一橋家初代 宗尹 【1721~1764】と婚姻。
 子女は長男 松平重昌 【1743~1758】:1747年に越前福井藩主 松平宗矩の養子となり、1749年に家督相続。享年16。
 
(2)寿賀宮在子 【1756~1770】
 京極宮公仁親王王女 。
 1767年(12)に一橋家二代 治済【1751~1827】と婚姻。享年15。
 
(3)隆子 【1776~1842】
 五摂家 二条治孝長女 。1791年(16)に一橋治済の世子 治国 【1776~1793】と婚姻。1793年(18)に落飾し、乗蓮院と称した。
 子女は長男斉朝 【1793~1850】:1798年尾張藩徳川宗睦の養子となり、1800年家督相続。1827年に隠居。享年58。
 
(4)脩姫(保子)【?~1803】
 五摂家 二条治孝の八女。
 1798年に一橋家三代 斉敦 【1780~1816】と婚姻。 1803年に長男備千代 【1803~1804】を産んだのちに没した。
 
(5)近姫 【1800~1830】
 田安斉匡の長女、母は閑院宮美仁親王第一王女 。
 1819年(20)に一橋家四代 斉礼 【1803~1830】と婚姻。享年31。
 
(6)永姫 【1819~1875】
 将軍 徳川家斉の二十六女、母はお以登の方(高木氏)。
 1835年(17)に一橋家五代 斉位 【1818~1837】と婚姻。1837年(19)に落飾し、誠順院と称した。1866年(48)に十代当主となった茂栄と対顔。享年57。
 
(7)東明宮直子 【1830~1893】
 伏見宮貞敬親王第十六王女。
 1841年(12)に一橋家七代 慶寿【1823~1847】と婚姻。1847年(18)に落飾し、徳信院と称した。1868年(39)に政姫と共に一橋邸から永代邸へ立退く。享年64。
 
(8)美賀子(延姫)【1835~1894】
 五摂家 一条忠香養女(今出川公久の娘)。
 1855年(21)に一橋家九代 慶喜【1837~1913】と婚姻。1858年(24)に子女を授かるも夭折。慶喜が上洛して京都で政局に関わったため、別居生活が続いた。
 1866年(32)に慶喜が徳川宗家を相続したため、一橋家を離籍となるも江戸城に入らず。1869年(35)に慶喜の謹慎が解除されると静岡で同居した。享年60。
 
(9)政姫 【1838~1909】
 陸奥二本松藩主 丹羽長富の娘。
 1853年(16)に美濃高須藩主松平義比 【1831~1884】と婚姻。1858年(21)に義比が尾張藩主となり茂徳と改名。1866年(29)に茂栄(前年に改名)が一橋家十代当主となった。1868年(31)に徳信院と共に一橋邸から永代邸に立退き、その後、永田町邸に居を移す。1870年(33)に小石川邸に移る。享年72。
 子女は長男 義端 【1858~1860】:茂栄が尾張藩を相続時に、尾張藩分家 美濃高須藩を相続した。享年3。
 
 

3. 清水家

 清水家の当主六代の内、正室を迎えたのは初代重好、四代斉明、五代斉彊の3人で、正室の出身は、伏見宮家から2名、五摂家筆頭の近衛家から1名でした。
 重好の正室貞子の叔母は重好の父 家重の正室 比宮培子。大叔母は重好の祖父 吉宗の正室 真宮理子。
 斉明の正室英子の大叔母は代重好の正室貞子。妹の直子は一橋慶寿の正室
 斉彊の正室充君の義妹が十三代将軍 家定の継々室天璋院
 

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伏見宮家と徳川家の関係図
 
(1)田鶴宮貞子  【1750~1820】
 1762年に清水家初代 重好 【1745~1795】と婚姻。1795年に落飾し、貞章院と称した。享年71。
 
(2)教宮英子  【1808~1857】
 伏見宮貞敬親王第四王女 。
 1823年(16)に清水家四代 斉明 【1809~1827】と婚姻。1827年(20)に落飾し、恭真院と称した。享年50。
 
(3)充君(豊子)【1820~1853】
 五摂家 近衛忠熙の養女(広幡基豊の長女)。
 1839年(20)に清水家五代 斉彊 【1820~1849】と婚姻。1846年(27)に斉彊が紀州家を相続したため、清水家を離れた。1849年(30)に落飾し、観如院と称した。享年34。
 
参考文献
 平成新修旧華族家系大成(霞会館
 徳川諸家系譜 第一、第三(続群書類従完成会
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 歴史読本 二〇〇三年七月号 特集 江戸300藩 大名家の人たち(新人物往来社
 日本人名大辞典(講談社
 企画展 徳川御三卿(徳川記念財団)
 徳川将軍家ゆかりの女性(徳川記念財団)
 高須四兄弟 新宿荒木町に生まれた幕末維新(新宿歴史博物館)
 御三卿 一橋徳川家茨城県立歴史館)
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。