探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

淀藩 稲葉家の分家1~館山藩 稲葉家~

こんにちは、勘矢です。
今回は淀藩 稲葉家の一族、館山藩 稲葉家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 館山藩 稲葉家

 稲葉正則の三男 正員は三千石を分知され、はじめ毛利を称しのちに稲葉に復しました。四代正明が1781年に安房館山藩 一万石に取り立てられて大名となりました。
 幕末の四代藩主 正巳は若年寄となって外国御用取扱勝手掛などをつとめました。隠居後に若年寄に再任され、さらに老中格となり、海軍総裁もつとめました。
 戊辰戦争時、旧幕府海軍副総裁 榎本武揚率いる軍艦が館山に来航して一時本拠とし、さらに旧幕遊撃隊と上総請西藩主 林忠崇率いる一隊が館山藩にも決起を呼び掛けたので、藩論は勤王と佐幕とで一時動揺しましたが、最終的に勤王に藩論を統一して、新政府軍に恭順の意を表しました。
 最後の藩主 正善は館山藩知事に任じられ、廃藩置県を迎えました。
 

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安房館山藩稲葉氏略系図
 
 

2. 旗本:稲葉播磨守家

初代 稲葉 正員(まさかず)【1649~1728】
 稲葉正則の三男、母は毛利秀元の娘。
 1661年(13)に召されて中奥に候し、1668年(20)に蔵米千俵を賜りました。1673年(25)に病により辞職して蔵米を返上し、父の領地居小田原に居住しました。
 1683年(35)に父の遺領のうち常陸下野国内で千石、新田二千石を分け与えられて、寄合となりました。1719年に71歳で隠居しました。享年80。
妻は旗本 青山盛長の娘。
 
稲葉 正如(まさゆき)【?~?】
 稲葉正則の十男。兄正員の養子となるも先に没しました。
 
稲葉 正相(まさすけ) 【1686~1705】
 松平乗久の十男。正員の養子となり、1701年(16)に五代将軍 徳川綱吉に拝謁しました。1705年(20)に父に先立ち没しました。享年20。
 
二代 稲葉 正方(まさかた)【1680~1728】
 長門清末藩主 毛利元知の三男。
 従兄の正員の養子となり、1706年(27)に五代将軍 徳川綱吉に初お目見えし、1719年に40歳で家督相続しました。1724年(45)に御使番となりました。享年49。
 妻は稲葉正員の娘、後妻は旗本 片桐為晴の娘(この片桐家は片桐且元の弟の子孫)。
 
稲葉 右近【?~?】
 長門清末藩主 毛利匡広の九男。叔父正方の養子となるも先に没しました。
 
三代 稲葉 正福(まさとみ)【1714~1735】
 山城淀藩主 稲葉正親の二男。
 正方の養子となり、1729年に16歳で家督相続しました。享年22。
 
四代 稲葉 正明(まさあき)【1723~1793】
 山城淀藩主 稲葉正親の三男。
 兄正福の養子となり、1735年に13歳で家督相続しました。1737年(15) に徳川家治の御小姓となり、西の丸に勤士し、1745年(23)に本丸に移りました。1755年(33)に御小姓組番頭格となり、のち側御用取次にすすみました。
 1769年(47)に上総・常陸国内で二千石を加えられました。1776年(54) に十代将軍 徳川家治の日光社参に供奉しました。翌年、安房国内で二千石を加増され、さらに1781年(59)に安房上総国内で三千石を加増されて合わせて一万石となり、諸侯に列しました。
 
 

3. 安房館山藩 稲葉家

初代 稲葉 正明(まさあき)【1723~1793】
 山城淀藩主 稲葉正親の三男。
 1781年(59)に加増されて一万石となり、さらに1785年(63)に安房上総国内で三千石を加増されて一万三千石となりましたが、翌年に将軍家治が没すると側御用取次を罷免され、昨年加増された三千石は削減されて、一時出仕を止められました。1789年に67歳で隠居しました。享年71。
 正室三河畑村藩主 戸田氏房の養女(旗本 戸田定浩の娘)。
 
稲葉 正令(まさやす)【1750~1788】
 稲葉正明の長男。
 1763年(14)に十代将軍 徳川家治に初お目見えし、将軍家世子 徳川家基が山王社に詣でるとき、騎馬にて供奉しました。1769年(20)に御小姓となり、さらに中奥の御小姓に移りました。1778年(29)に寄合に列し、1780年(31)に病により嫡を辞しました。享年39。
 
二代 稲葉 正武(まさたけ)【1769~1840】
 稲葉正明の四男。
 長兄正令が世子を辞し、次兄正賞は旗本 堀親褒の養子となり、三兄は早世したため正武が世子となりました。1786年(18)に父に連座して処罰されました。
 1789年に21歳で家督を相続しました。1791年(23)に居所を安房館山に設置し、里見氏時代の館山城跡(現 城山公園)の南麓に館山陣屋を立てました。1812年に44歳で隠居しました。享年72。
正室遠江相良藩世子 田沼意知の養女(旗本 田沼意致の娘)、継室は伊勢八田藩主 加納久周の娘。
 

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館山城(模擬天守
 
三代 稲葉 正盛(まさもり)【1791~1819】
 稲葉正武の長男、母は加納久周の娘。
 1812年に22歳で安房館山藩を相続しました。1819年(29)に大坂加番となりましたが、同年大坂で没しました。享年29。
 正室陸奥泉藩主 本多忠誠の娘。
 
四代 稲葉 正巳(まさみ)【1815~1879】
 稲葉正盛の長男、母は本多忠誠の娘。
 1820年にわずか6歳で安房館山藩を相続しました。1834年(20)と1841年(27)に大坂加番をつとめました。藩財政の窮乏のため、財政立て直しに尽力しました。1845年(31)に大番頭となり、1853年(39)には講武所建立総裁を兼任し、1861年(47)に講武所奉行、翌年に若年寄にすすみ、外国御用取扱勝手掛となりました。1863年(49)海陸備向掛、翌年に神戸海軍操練所取立方となりましたが、同年に辞職し、隠居しました。
 1865年(51)に多難な時勢であったため若年寄に再任され、役料五千俵を与えられて勝手掛・外国御用取扱となり、軍制並びに諸向改革の事務を兼任しました。翌年に海軍御用向取扱となりましたが辞職し、若年寄格となって陸軍奉行となりました。さらに同年老中格にすすみ、役料一万石を与えられ、海軍総裁となりました。1868年()に老中格を辞任しました。享年65。
 正室信濃高島藩主 諏訪忠恕の娘。
 
五代 稲葉 正善(まさよし)【1848~1902】
 武蔵岩槻藩主 大岡忠恕の二男
 1861年(14)に正巳の養子となり、1864年に17歳で安房館山藩を相続しました。
 1869年(22)に版籍奉還して館山藩知事に任じられました。1871年(24)に廃藩置県を迎えました。享年55。
 正室は豊後岡藩主 中川久昭の娘。
 
 稲葉正善の大叔母が二代藩主正武の継室。養父の正巳とは”はとこ”の関係。
 

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稲葉正善関係図
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 /  国立国会図書館デジタルコレクション)
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 館山藩 稲葉家と藩士たち(館山市立博物館)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。