探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

京極高知の子孫・その3~峰山藩とその分家~

こんにちは、勘矢です。
今回は峰山京極家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 峰山藩京極氏

 1622年に高通が丹後峰山(京都府京丹後市)に一万石で分知され、旧領と合わせて一万三千石で諸侯に列し峰山藩を立藩した。
 二代高供が相続するときに弟高昌に一千石、弟高成に五百石を分与したため一万千五百石となった。三代高明が隠居したときに二男 高重に五百石を分与したため一万千石となった。高重の家は孫の高伴のときに改易となった。高伴の弟高好は清水家に仕えた。
 歴代藩主のうち、高久・高備・高富は若年寄となった。高陳のときに廃藩置県を迎えた。
 

峰山藩京極氏略系図
 
 

2. 峰山藩主京極家

初代 京極 高通(たかみち)【1603~1665】
 朽木宣綱の二男、母は京極高吉の娘。
 京極高知の婿養子となり、1616年(14)に武蔵・下総・近江国内で三千石を与えられました。1622年(20)に養父高知が没したときに丹後国内で一万石を分与されて一万三千五石となり、峰山に陣屋を構えました。1665年(63)に近江水口城在番となりこの地で没しました。享年63。
 正室は丹後宮津藩主 京極高知の娘。
 
二代 京極 高供(たかとも)【1623~1674】
 京極高通の子、母は京極高知の娘。
 1665年(43)に父が水口城在番中に病気になったため、父に代わって在番をつとめました。1666年に44歳で丹後峰山藩を相続し、弟高昌に千石、高成に五百石を分与し、一万千五百石となりました。享年52。
 正室は播磨姫路藩主 松平(奥平)忠明の娘。
 
三代 京極 高明(たかあき)【1660~1726】
 京極高供の子、母は松平(奥平)忠明の娘。
 1674年に15歳で丹後峰山藩を相続しました。1680年(21)と1686年(27)に領内の検地をおこないました。1699年に40歳で隠居しました。享年67
 正室は熊谷依貞の娘。
 
四代 京極 高之(たかゆき)【1678~1723】
 京極高明の子、母は熊谷依貞の娘。
 1699年に22歳で丹後峰山藩を相続し、弟高重に五百石を分与し、一万千石となりました。1700年(23)、1704年(27)、1709年(32)、1713年(36)、1717年(40)、1719年(42)の6回大坂加番をつとめました。享年46。
 正室は播磨龍野藩主 脇坂安照の養女(安照の兄安村の娘)。
 
五代 京極 高長(たかなが)【1695~1769】
 陸奥棚倉藩主 内藤弌信の四男。
 高之の婿養子となり、1723年に29歳で丹後峰山藩を相続しました。1724年(40)と1728年(44)に大坂加番をつとめました。1765年に71歳で隠居しました。享年75。 
 正室は京極高之の娘。
 
六代 京極 高久(たかひさ)【1729~1808】
 一族京極高庭の四男、母は京極高方の娘。
 1765年に37歳で丹後峰山藩を相続しました。1770年(42)と1780年(52)に大坂加番をつとめました。1787年(59)に大番頭、翌年に若年寄となりました。享年80。
 正室は備中足守藩主 木下利潔の娘。
 
七代 京極 高備(たかまさ)【1757~1835】
 京極高久の子、母は木下利潔の娘。
 先代高久が若年寄に就任していたため、藩政は高備が執行しました。1808年に52歳で丹後峰山藩を相続しました。翌年に大番頭、1812年(56)に若年寄となりました。1832年に76歳で隠居しました。享年79。
 正室は伊勢菰野藩主 土方雄端の娘、継室は近江膳所藩主 本多康桓の娘。
 
八代 京極 高倍(たかます)【1808~1833】
 京極高備の五男。
 1832年に25歳で丹後峰山藩を相続しましたが、翌年没しました。享年26。
 
九代 京極 高鎮(たかつね)【1810~1834】
 京極高備の子。
 兄の養子となり、1834年に25歳で丹後峰山藩を相続しましたが、半年後に没しました。享年25。
 
十代 京極 高景(たかかげ)【1811~1863】
 肥前島原藩主 松平(深溝)忠馮の六男。
 高鎮の養子となり、1834年に24歳で丹後峰山藩を相続しました。1849年に39歳で隠居しました。享年53。
 正室常陸牛久藩主 山口弘致の娘。
 
 高景が高鎮の末期養子となったのは、高景の実家深溝松平家が六代高久の正室の実家木下家を介して京極家とつながりがあったことと、年令が高鎮より年下であったことから選ばれたのではないかと考える。
 

京極・木下・深溝松平関係図
 
十一代 京極 高富(たかとみ)【1835~1889】
 京極高景の子。
 1849年に15歳で丹後峰山藩を相続しました。1854年(20)に大坂加番、1857年(23)に大番頭、1861年(27)に大坂定番となりました。1863年(29)生野の変のとき、久美浜代官所警護のために藩兵を派兵しました。1866年(32)に若年寄となりました。1868(34)に山陰鎮撫総督が峰山に入部したとき、謹慎を命じられました。その後、謹慎を解かれましたが病のため隠居しました。享年55。
 正室は志摩鳥羽藩主 稲垣長剛の娘。
 
十二代 京極 高陳(たかのぶ)【1839~1893】
 分家京極靱負の二男。
 高富の養子となり、1868年に31歳で丹後峰山藩を相続しました。1869年(32)に版籍奉還して峰山知藩事に任じられ、1871年(34)に廃藩置県を迎えました。享年55。
 正室は笹田久兵衛の娘。
 

峰山陣屋跡
 
 

3. 旗本京極家(高通系)

(1)京極左京家

(寛政年間までの当主)
初代 京極 高重(たかしげ)【1680~1712】
 京極高明の二男、母は熊谷氏。
 1699年(20)に父の遺領から近江国内で五百石を分け与えられて寄合に列しました。享年33。
 
二代 京極 高富(たかとよ)【1693~1757】
 京極主膳正家臣宇田伊左衛門安貞の子、母は松平越後守家臣阿部庄左衛門の娘。
 高重の養子となり、1712年に20歳で家督相続して寄合に列しました。1745年()に西ノ丸御小姓組の番士となりました。享年65。
 妻は旗本 安部正広の娘。
 
三代 京極 高伴(たかとも)【?~?】
 京極高富の長男、母は安部正広の娘。
 1757年に家督相続して小普請となり、翌年御書院番となりました。1764年に故あって改易となりました。
 妻は旗本 土屋亮直の娘。
 

旗本京極氏略系図(高通系)
 

(2)京極織部

(寛政年間までの当主)
初代 京極 高昌(たかまさ)【1633~1680】
 京極高通の二男、母は京極高知の娘。
 1650年(18)に西ノ丸御小姓組の番士に列し、翌年に本丸勤めになりました。1652年(20)に蔵米三百俵を賜りました。1666年(34)に父の遺領より近江・武蔵国内で千石を分け与えられ、先の蔵米は収められました。享年48。
 妻は旗本 小倉正守の娘。
 
二代 京極 高沖(たかおき)【1672~1748】
 京極高成の長男、母は織田貞置の娘。
 高昌の養子となり、1680年にわずか9歳で家督相続し、小普請となりました。1698年(27)に御書院番となり、1708年(37)に辞職しました。1728年に57歳で隠居しました。享年77。
 妻は旗本 石谷武清の養女。
 
三代 京極 高庭(たかなお)【1691~1779】
 京極高沖の長男。
 1728年に38歳で家督相続しました。1731年(41)に御書院番の番士となりました。1761年(71)に高齢のため辞職し、1762年に72歳で隠居しました。享年89。
 妻は一族 京極高方の長女、後妻は高方の二女。
 
京極 高昆(たかやす)【1718~1738】
 京極高昆の長男。父に先立ち没しました。享年21。
 
四代 京極 高昂(たかあき)【1722~1766】
 京極高庭の三男。
 1762年に41歳で家督相続しました。翌年に御書院番に列しました。享年45。
 妻は旗本 岩瀬氏英の娘、後妻は出羽庄内藩酒井家家臣 秋保与右衛門の養女。
 
五代 京極 高閭(たかさど)【1733~1771】
 京極高昂の長男、母は秋保与右衛門の養女。
 1767年に35歳で家督相続しました。1782年(50)に西ノ丸御小姓組に列し、1786年(54)に本丸に移りました。享年39。
 妻は旗本 大岡忠主の娘(離婚)。
 
六代 京極 高宗(たかむね)【1758~1791】
 京極高昂の二男、母は秋保与右衛門の養女。
 兄高閭の養子となり、1771年に14歳で家督相続しました。享年34。
 
七代 京極 高衷(たかよし)【1775~?】
 旗本 藤沢輔長の二男、母は京極高庭の娘。
 従兄高宗の養子となり、1791年に17歳で家督相続しました。
 妻は京極高宗の養女(高宗の兄高閭の娘)。
 
 

(3)京極船助家

(寛政年間までの当主)
初代 京極 高成(たかなり)【1644~1680】
 京極高通の三男。
 1666年(23)父の遺領より近江・武蔵国内で五百石を分け与えられ、小普請となりました。その後、御書院の番士に列しました。享年37。
 妻は高家 織田貞置の娘。
 
二代 京極 高方(たかのり)【1676~1731】
 京極高成の二男、母は織田貞置の娘。
 1680年にわずか5歳で家督相続しました。1724年に49歳で隠居しました。享年56。
 
三代 京極 高完(たかさだ)【1684~1739】
 但馬豊岡藩主 京極高直の六男 高里の子。
 高方の養子となり、1724年に41歳で家督相続しました。1728年(45)に西ノ丸御書院番となり、1736年(53)に辞職し、翌年に隠居しました。享年56。
 
四代 京極 高虎(たかとら)【1714~1784】
 京極高方の二男、母は赤坂氏。
 高完の養子となり、1737年に24歳で家督相続しました。1739年(26)に御書院番の番士となり、1741年(28)より進物役をつとめました。1758年(45)に御徒頭にすすみました。1765年(52)に増上寺において法会の警固をうけたまわったときに遅参したため出仕を一時止められました。1776年(63)の十代将軍徳川家治の日光社参に供奉し、その後御先弓頭に転じました。享年71。
 妻は旗本 榊原久敬の娘。
 
京極 高朝(たかとも)【1750~1773】
 京極高虎の長男。父に先立ち没しました。享年24。妻は旗本 野村勝供の娘。
 
京極 高珍(たかよし)【1752~1777】
 京極高虎の二男。父に先立ち没しました。享年26。
 
五代 京極 高典(たかのり)【1758~?】
 京極高虎の三男。
 1784年に27歳で家督相続しました。1786年(29)に御小姓組の番士となりました。
 妻は旗本 小出英通の娘(離婚)。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 /  国立国会図書館デジタルコレクション)
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 寛政譜以降 旗本百科事典 第2巻(東洋書林
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。