こんにちは、勘矢です。
今回は峰山京極家について調べたことをまとめました。
1. 峰山藩京極氏
二代高供が相続するときに弟高昌に一千石、弟高成に五百石を分与したため一万千五百石となった。三代高明が隠居したときに二男 高重に五百石を分与したため一万千石となった。高重の家は孫の高伴のときに改易となった。高伴の弟高好は清水家に仕えた。
2. 峰山藩主京極家
初代 京極 高通(たかみち)【1603~1665】
朽木宣綱の二男、母は京極高吉の娘。
京極高知の婿養子となり、1616年(14)に武蔵・下総・近江国内で三千石を与えられました。1622年(20)に養父高知が没したときに丹後国内で一万石を分与されて一万三千五石となり、峰山に陣屋を構えました。1665年(63)に近江水口城在番となりこの地で没しました。享年63。
二代 京極 高供(たかとも)【1623~1674】
京極高通の子、母は京極高知の娘。
1665年(43)に父が水口城在番中に病気になったため、父に代わって在番をつとめました。1666年に44歳で丹後峰山藩を相続し、弟高昌に千石、高成に五百石を分与し、一万千五百石となりました。享年52。
三代 京極 高明(たかあき)【1660~1726】
京極高供の子、母は松平(奥平)忠明の娘。
1674年に15歳で丹後峰山藩を相続しました。1680年(21)と1686年(27)に領内の検地をおこないました。1699年に40歳で隠居しました。享年67
正室は熊谷依貞の娘。
四代 京極 高之(たかゆき)【1678~1723】
京極高明の子、母は熊谷依貞の娘。
1699年に22歳で丹後峰山藩を相続し、弟高重に五百石を分与し、一万千石となりました。1700年(23)、1704年(27)、1709年(32)、1713年(36)、1717年(40)、1719年(42)の6回大坂加番をつとめました。享年46。
五代 京極 高長(たかなが)【1695~1769】
陸奥棚倉藩主 内藤弌信の四男。
高之の婿養子となり、1723年に29歳で丹後峰山藩を相続しました。1724年(40)と1728年(44)に大坂加番をつとめました。1765年に71歳で隠居しました。享年75。
正室は京極高之の娘。
六代 京極 高久(たかひさ)【1729~1808】
一族京極高庭の四男、母は京極高方の娘。
七代 京極 高備(たかまさ)【1757~1835】
京極高久の子、母は木下利潔の娘。
先代高久が若年寄に就任していたため、藩政は高備が執行しました。1808年に52歳で丹後峰山藩を相続しました。翌年に大番頭、1812年(56)に若年寄となりました。1832年に76歳で隠居しました。享年79。
八代 京極 高倍(たかます)【1808~1833】
京極高備の五男。
1832年に25歳で丹後峰山藩を相続しましたが、翌年没しました。享年26。
九代 京極 高鎮(たかつね)【1810~1834】
京極高備の子。
兄の養子となり、1834年に25歳で丹後峰山藩を相続しましたが、半年後に没しました。享年25。
十代 京極 高景(たかかげ)【1811~1863】
高鎮の養子となり、1834年に24歳で丹後峰山藩を相続しました。1849年に39歳で隠居しました。享年53。
十一代 京極 高富(たかとみ)【1835~1889】
京極高景の子。
1849年に15歳で丹後峰山藩を相続しました。1854年(20)に大坂加番、1857年(23)に大番頭、1861年(27)に大坂定番となりました。1863年(29)生野の変のとき、久美浜代官所警護のために藩兵を派兵しました。1866年(32)に若年寄となりました。1868(34)に山陰鎮撫総督が峰山に入部したとき、謹慎を命じられました。その後、謹慎を解かれましたが病のため隠居しました。享年55。
正室は志摩鳥羽藩主 稲垣長剛の娘。
十二代 京極 高陳(たかのぶ)【1839~1893】
分家京極靱負の二男。
3. 旗本京極家(高通系)
(1)京極左京家
(寛政年間までの当主)
初代 京極 高重(たかしげ)【1680~1712】
京極高明の二男、母は熊谷氏。
1699年(20)に父の遺領から近江国内で五百石を分け与えられて寄合に列しました。享年33。
二代 京極 高富(たかとよ)【1693~1757】
京極主膳正家臣宇田伊左衛門安貞の子、母は松平越後守家臣阿部庄左衛門の娘。
妻は旗本 安部正広の娘。
三代 京極 高伴(たかとも)【?~?】
京極高富の長男、母は安部正広の娘。
妻は旗本 土屋亮直の娘。
(2)京極織部家
(寛政年間までの当主)
初代 京極 高昌(たかまさ)【1633~1680】
京極高通の二男、母は京極高知の娘。
1650年(18)に西ノ丸御小姓組の番士に列し、翌年に本丸勤めになりました。1652年(20)に蔵米三百俵を賜りました。1666年(34)に父の遺領より近江・武蔵国内で千石を分け与えられ、先の蔵米は収められました。享年48。
妻は旗本 小倉正守の娘。
二代 京極 高沖(たかおき)【1672~1748】
京極高成の長男、母は織田貞置の娘。
妻は旗本 石谷武清の養女。
三代 京極 高庭(たかなお)【1691~1779】
京極高沖の長男。
妻は一族 京極高方の長女、後妻は高方の二女。
京極 高昆(たかやす)【1718~1738】
京極高昆の長男。父に先立ち没しました。享年21。
四代 京極 高昂(たかあき)【1722~1766】
京極高庭の三男。
妻は旗本 岩瀬氏英の娘、後妻は出羽庄内藩酒井家家臣 秋保与右衛門の養女。
五代 京極 高閭(たかさど)【1733~1771】
京極高昂の長男、母は秋保与右衛門の養女。
妻は旗本 大岡忠主の娘(離婚)。
六代 京極 高宗(たかむね)【1758~1791】
京極高昂の二男、母は秋保与右衛門の養女。
兄高閭の養子となり、1771年に14歳で家督相続しました。享年34。
七代 京極 高衷(たかよし)【1775~?】
旗本 藤沢輔長の二男、母は京極高庭の娘。
従兄高宗の養子となり、1791年に17歳で家督相続しました。
妻は京極高宗の養女(高宗の兄高閭の娘)。
(3)京極船助家
(寛政年間までの当主)
初代 京極 高成(たかなり)【1644~1680】
京極高通の三男。
1666年(23)父の遺領より近江・武蔵国内で五百石を分け与えられ、小普請となりました。その後、御書院の番士に列しました。享年37。
妻は高家 織田貞置の娘。
二代 京極 高方(たかのり)【1676~1731】
京極高成の二男、母は織田貞置の娘。
1680年にわずか5歳で家督相続しました。1724年に49歳で隠居しました。享年56。
三代 京極 高完(たかさだ)【1684~1739】
但馬豊岡藩主 京極高直の六男 高里の子。
四代 京極 高虎(たかとら)【1714~1784】
京極高方の二男、母は赤坂氏。
高完の養子となり、1737年に24歳で家督相続しました。1739年(26)に御書院番の番士となり、1741年(28)より進物役をつとめました。1758年(45)に御徒頭にすすみました。1765年(52)に増上寺において法会の警固をうけたまわったときに遅参したため出仕を一時止められました。1776年(63)の十代将軍徳川家治の日光社参に供奉し、その後御先弓頭に転じました。享年71。
妻は旗本 榊原久敬の娘。
京極 高朝(たかとも)【1750~1773】
京極高虎の長男。父に先立ち没しました。享年24。妻は旗本 野村勝供の娘。
京極 高珍(たかよし)【1752~1777】
京極高虎の二男。父に先立ち没しました。享年26。
五代 京極 高典(たかのり)【1758~?】
京極高虎の三男。
妻は旗本 小出英通の娘(離婚)。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
寛政譜以降 旗本百科事典 第2巻(東洋書林)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。