1. 三島大社
2. 韮山城
次に訪れたのが韮山です。伊豆箱根鉄道の韮山駅を降りて東へ歩いて15分ぐらいのところに、源頼朝 配流の地があり、源頼朝と北条政子夫婦の像がありました。
そこからさらに東へ10分ぐらいのところに韮山城があります。明応2年(1493)に北条早雲が築城し、早雲は亡くなるまでここを居城としました。小高い山の細長い尾根に5つの曲輪が配置されています。ちなみに早雲自身は北条を名乗ったことがなく、終生伊勢が苗字でした。子の氏綱から北条を称しました。北条氏が小田原城に移った後も領国支配の重要拠点でした。
天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原攻めのあと、徳川家康の家臣内藤信成に与えられました。この内藤信成、実は家康の異母弟にあたります。家康の父、松平広忠が内藤清長の娘に産ませた子で祖父の養子となりました。関ヶ原の戦いの翌年駿府へ移ったため、韮山城は廃城となりました。その後、内藤家は数回転封を繰り返したあと越後村上藩主(新潟県村上市)として明治維新を迎えました。
源頼朝はここで旗揚げしたあと房総半島を経て鎌倉に移ります。北条早雲は韮山城を拠点に相模国に進出して勢力を広げます。2人とも韮山の地をふりだしに関東に進出しています。ここに歴史の不思議を感じます。
伊豆の国市のウェブサイトに「韮山城跡概要パンフレット」があります!
https://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/manabi/bunkazai/20140925.html
3. 江川邸と韮山反射炉
韮山城のすぐそばに「江川邸」というのがあります。ここは江戸時代の代官役所であり、代々代官を務めた江川氏の住宅です。主屋は室町時代に建てられた部分と江戸時代初期に修築された部分が含まれています。江川氏は保元の乱の頃に伊豆にやってきました。以来子孫は韮山の地で豪族としての地盤を固めました。北条早雲が伊豆に進出した際に土地を提供し韮山城を築城させ、北条五代に仕えました。小田原攻めのあと、徳川家康に仕えました。また、江川氏の養女(房総正木一族の娘)は家康の側室になりました。それがお万の方で頼宣(紀州藩)、頼房(水戸藩)を産みました。この縁からか江川氏は世襲代官として重用され幕末まで勤めました。
幕末の当主江川太郎左衛門英龍は代官職だけではなく、多彩な人物との交流を通じて国際情勢を知り、幕府に対して様々な建議を行いました。その一つが大砲を鋳造するための反射炉です。はじめは下田付近に建造する予定が、日米和親条約で下田が開港された影響で、外国人が自由に行動できる範囲に含まれたため、大砲製造が諸外国に漏れることを懸念して場所を改めて探すことになりました。それで選ばれた場所が現在韮山反射炉がある場所です。建設に必要な広さが確保でき、立地上秘密が漏れにくく、水量のある川があることなどが理由です。
その反射炉は江川邸から南へ約3kmのところにあります。平成27年(2015)7月に世界文化遺産に登録されました。ガイダンスセンターで反射炉に関する映像が見られます。そのあと、ボランティア説明員による解説も行われていて、説明は約20~30分くらいでした。丁寧な説明でわかりやすかったです。
また、茶畑にある展望台からは富士山と反射炉の2つの世界遺産をみることができます。ぜひ、一度足を運んでみてください。
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。