探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

阿部豊後守家~忍藩・白河藩・棚倉藩~

こんにちは、勘矢です。
今回は忍藩・白河藩を経て棚倉藩主となった阿部豊後守家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 阿部豊後守家とは

 阿部正勝の子 忠吉は徳川家康に仕え、大坂の陣後に大番頭となって五千石を領しました。1624年に忠吉が55歳で没するとその子忠秋が相続し、1626年に一万石を加増されて諸侯に列しました。1633年に老中となり、1635年に下野壬生(栃木県壬生町)二万五千石になり、1639年に武蔵忍(埼玉県行田市)五万石となりました。1663年に八万石となりました。
 忠秋の子 正能、孫の正武、曾孫の正喬、その養子の正允と五代続けて老中となりました。また、1694年に正武のときに十万石に加増されました。その後の当主は、老中就任者がたどるコースを歩むものの、老中までに達成することなく没することが続きました。
 九代 正権は幼少で当主となり、1823年に三方領地替えで陸奥白河(福島県白河市)に移りました。その後は養子の当主が続きました。
 幕末の正外がおよそ80年ぶりに老中となり兵庫開港を進めましたが、罷免されました。1866年に跡を継いだ正静は棚倉(福島県棚倉町)に転封となりました。奥羽列藩同盟に参加したことから一旦改易されましたが、正功が棚倉六万石で再興し、棚倉藩知事をつとめて廃藩置県を迎えました。

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棚倉藩阿部氏略系図
 

2. 阿部豊後守家当主一覧

初代 阿部 忠秋(ただあき)【1602~1675】
 阿部忠吉の長男、母は松平(大須賀)康高の娘。
 1610年(9)に徳川家光の御小姓となりました。1617年(16)に御膳番となって蔵米三百俵を賜り、1619年(18)に二百俵を加えられ、1623年(22)に御小姓組の番頭になって五百石を加えられ、また蔵米を知行に改められて武蔵国内で千石を賜りました。
 1624年(23)に家督相続して父の遺領を合わせて六千石となりました。1626年(25)に上野国内で四千石を加えられて一万石となり、御近習小姓頭となりました。1629年(28)に加増されて一万五千石となりました。
 1633年(32)に松平信綱堀田正盛三浦正次太田資宗阿部重次らと六人衆(若年寄)に任ぜられ、さらに老中となりました。同年、駿河大納言忠長の件で高崎城に赴きました。翌年の将軍家光の上洛に供奉し、1635年(34)に下野壬生で二万五千石を与えられました。
 1639年(38)に武蔵忍へ移されて五万石となりました。1647年(46)に加増されて六万石となりました。1650年(49)に将軍世子家綱の傅役となり、翌年に家綱が四代将軍となると後見として幕政を輔けました。1663年(62)加増されて八万石となりました。1666年(65)に老中を辞任し、1671年に70歳で隠居しました。享年74。
 正室は伊勢田丸藩主 稲葉道通の娘(離別)、継室は信濃松本藩主 松平(戸田)康長の娘。
 
 
二代 阿部 正能(まさよし)【1627~1685】
 武蔵岩槻藩世子 阿部正澄の長男、母は加藤清正の娘。
 父正澄は正能が生まれた翌年に没したため、岩槻藩の世子には叔父の重次がなりました。1638年(12)に祖父正次から一万石を分与され、上総大多喜に居所としました。1651年(25)に叔父重次の遺領から新墾田六千石を分与されて一万六千石となりました。1652年(26)に父の従弟忠秋の養子となったため、六千石は岩槻藩主の阿部定高(重次の嫡男)に返却して一万石となりました。
 1671年に45歳で武蔵忍藩を相続し、相続前の一万石も合わせて九万石となりました。1673年(47)に老中となりましたが、1676年(50)に辞任しました。1677年に51歳で隠居しました。享年59。
 正室は下総関宿藩主 牧野信成の娘。
 
三代 阿部 正武(まさたけ)【1649~1704】
 阿部正能の長男、母は牧野信成の娘。
 1677年に29歳で武蔵忍藩を相続しました。このとき、弟正明に五千石、正房に三千石、正員に二千石を分与し、八万石となりました。1680年(32)に奏者番寺社奉行を兼任し、翌年に老中となりました。1686年(38)に一万石、1694年(46)にも一万石を加増されて十万石となりました。
 1695年(47)に貨幣改鋳政策の総奉行となり、1704年(42)には湯島の聖堂再建の総奉行もつとめました。また、1700年(52)に忍城の修築に着手しました。享年56。
 正室は近江彦根藩井伊直澄の養女 万(兄井伊直時の娘)。
 
四代 阿部 正喬(まさたか)【1672~1750】
 阿部正武の長男、母は井伊直澄の養女。
 1699年(28)に奏者番寺社奉行を兼任し、武蔵・相模国内において一万石を与えられました。
 1704年に33歳で武蔵忍藩を相続し、弟正晴に新墾田五千石を分与しました。先の一万石は収公されました。1711年(40)に老中となりましたが、徳川吉宗が八代将軍に就任した翌年の1717年(46)に職を解かれました。1748年に77歳で隠居しました。享年79。
 正室は近江彦根藩井伊直該の娘 栄。
 
阿部 正秋(まさあき)【1700~1729】
 阿部正喬の長男、母は井伊直該の娘。
 1725年(26)に病により嫡を辞し、父に先立って没しました。享年30。
 
阿部 正直(まさなお)【1702~1733】
 阿部正喬の三男、母は井伊直該の娘。
 1725年(24)に嫡子となりましたが、父に先立って没しました。享年32。
 正室は安芸広島藩主 浅野吉長の娘、継室は公家 徳大寺公全の娘。
 
五代 阿部 正允(まさちか)【1722~1780】
 旗本 阿部正晴の子、母は遠山友春の娘。
 1730年に16歳で父正晴の家督相続し、1733年(19)に伯父正喬の養子となりました。
 1748年に27歳で忍藩を相続しました。翌年、奏者番となり、1762年(41)に大坂城代、1764年(43)に京都所司代となました。1777年(56)に西ノ丸老中となり、1779年(58)に本丸老中となりましたが、翌年に没しました。享年59。
 正室は阿部正直の娘 釟(未婚早世)、継室は近江彦根藩主井伊直定の養女 和佐(先代井伊直惟の娘)
 
六代 阿部 正敏(まさとし)【1732~1787】
 阿部正喬の五男、母は側室 草本氏。
 1742年(11)に従兄で父の養子となっていた正允の養子となりました。
 1780年に49歳で武蔵忍藩を相続し、翌年に奏者番となりました。1783年(52)に浅間山噴火による被害があり、さらに3年後に大洪水に見舞われたため、藩財政は極度に窮乏しました。1784年(53)に大坂城代となり、在任中に没しました。享年56。
 正室三河岡崎藩水野忠辰の養女 類(前藩主水野忠輝の娘)。
 
阿部 正陳(まさのぶ)【1748~1781】
 阿部正允の三男。1754年(7)に義兄正敏の養子となりましたが、先に没しました。享年34。
 正室は出羽山形藩主 秋元凉朝の娘。
 
七代 阿部 正識(まさつね)【1764~1803】
 阿部正敏の二男、母は側室 河合氏。
 父正敏の養子 正陳が早世したため、嫡子となりました。1787年に24歳で武蔵忍藩を相続しました。1796年に33歳で隠居しました。享年40。
 正室は備後福山藩主 阿部正倫の娘 定(未婚離縁)
 
八代 阿部 正由(まさより)【1764~1808】
 紀州藩徳川宗将の十一男、母は側室 村上氏。初名頼朴(よりなお)。
 1793年(30)に正識の養子となり、1796年に33歳で武蔵忍藩を相続しました。1798年(35)に奏者番寺社奉行を兼任し、1804年(41)に大坂城代となり、1806年(43)に京都所司代となり、在任中に没しました。享年45。
 正室は阿部正識の養女(阿部正敏の娘)多喜。
 
九代 阿部 正権(まさのり)【1806~1823】
 阿部正由の二男。
 1808年にわずか3歳で武蔵忍藩を相続しました。幼少のため、一族の上総佐貫藩主 阿部正簡が後見役となりました。1823年(18)に陸奥白河に転封となり、白河に入封することもなく没しました。享年18。
 正室は備後福山藩主 阿部正精の娘 純(未婚離縁)
 
 
十代 阿部 正篤(まさあつ)【1807~1843】
 紀州藩徳川宗将の五男 松平頼興の子。
 従兄の正権の養子となり、1823年に17歳で陸奥白河藩を相続しました。1831年に25歳で隠居しました。享年37。
 正室薩摩藩島津斉宣の娘 聡姫。
 
十一代 阿部 正瞭(まさあきら)【1813~1838】
 三河吉田藩主 松平信明の七男。
 正篤の養子となり、1831年に19歳で陸奥白河藩を相続しました。1836年(24)に奏者番寺社奉行を兼任しました。享年26。
 正室は石見浜田藩松平康任の養女 彩(摂津高槻藩主 永井直与の娘)。
 
十二代 阿部 正備(まさかた)【1823~1874】
 肥前大村藩主 大村純昌の五男。
 正瞭の養子となり、1838年に16歳で陸奥白河藩を相続しました。1843年(21)に奏者番となり、1847年(25)に辞任しました。1848年に26歳で隠居しました。享年52。
 正室信濃高遠藩主 内藤頼寧の娘 教。
 
十三代 阿部 正定(まささだ)【1823~1848】
 旗本 阿部正蔵の長男。
 正備の養子となり、1848年に26歳で陸奥白河藩を相続しましたが、就任わずか5か月後に急死しました。享年26。
 正室は旗本 花房職恕の娘 鏞。
 
十四代 阿部 正耆(まさひさ)【1829~1863】
 阿部正粋の子(備後福山藩主 阿部正寧の甥。)
 正定の養子となり、1848年に20歳で陸奥白河藩を相続しました。翌年奏者番となりましたが、1862年(34)に奏者番が制度が廃止になったため免職となりました。翌年に江戸府警衛を命ぜられ、ついで大坂警衛に転じ、さらに京都守護職の配下の京都警衛をつとめました。1863年京都警衛中に発病し、江戸に戻る間に急死しました。享年35。※公式には翌年の3月に没したことになっているので享年36となる。
 正室は真田幸栄の娘 秀(未婚早世。幸栄は松平定信の子で信濃松代藩真田幸貫養子となった)、継室は備後福山藩主 阿部正寧の娘 豊(正耆没後離縁)。
 
十五代 阿部 正外(まさと)【1828~1887】
 旗本 阿部正蔵の二男。先々代正定の弟。
 1848年(21)に旗本阿部主殿家の家督相続しました。神奈川奉行外国奉行、江戸北町奉行などをつとめました。
 1864年(37)に正耆の急養子となり、陸奥白河藩を相続しました。同年、寺社奉行奏者番を経て老中となり、外国御用取扱となりました。1865年(38)に英米仏蘭の四ヶ国代表と会見しました。兵庫開港を主張して朝廷の怒りを買い、官位を剥奪され、さらに翌年に隠居謹慎となりました。
 戊辰戦争棚倉城が落城すると出羽国内にある飛び地へ逃れ、その後棚倉に戻り、1871年(44)に東京に移りました。享年60。
 正室は長谷川正直の娘千代(離縁)。
 
十六代 阿部 正静(まさきよ)【1849~1878】
 阿部正外の長男。
 1864年(16)に旗本阿部主殿家の家督相続しました。1866年(18)に父が隠居謹慎となったため、本家を相続し、陸奥棚倉に転封となりました。1867年(19)に京都警衛を命ぜられました
 1868年(20)の戊辰戦争でははじめ、仙台藩二本松藩などとともに空き城となっていた白河城の守備に藩兵をおくりましたが、会津藩に攻められて撤退しました。その後、仙台藩米沢藩など十二藩主とともに会津藩松平容保の赦免を嘆願しましたが、拒絶されたので奥羽越列藩同盟に参加しました。しかし、新政府軍の攻撃を受けて棚倉城は落城し、のち仙台藩などと連合して棚倉城奪還をすすめたが、三春藩が新政府軍側についたため成功しませんでした。
 同年、官位を剥奪されて謹慎を命ぜられ、領地を没収されました。享年30。
 正室は須田律次郎の娘 通、継室は阿部正備の娘 幸(離縁)。
 
十七代 阿部 正功(まさこと)【1860~1925】
 阿部正耆の子。
 父正耆が没したときはわずか4歳であったため家督は分家の正外が相続し、その養子となりました。
 1868年(9)に甥の正静が戊辰戦争の処分で領地没収となると、特旨をもって四万石を減封の上、六万石で陸奥棚倉を与えられました。1869年(10)に版籍奉還して棚倉藩知事に任ぜられ、1871年(12)に廃藩置県を迎えました。享年66。
 正室は公家 徳大寺公純の娘 照子。
 
 

3. 他家からの養子たち

(1)阿部家と紀州徳川家

 八代  正由と十代 正篤は紀州藩から養子に迎えられました。二代 正能の生母は加藤清正の娘で、その姉妹が紀州藩祖の徳川頼宣正室 八十姫です。正由は頼宣の玄孫となります。正由と正篤は伯父と甥の関係です。
 

(2)阿部家と大河内松平家と松井松平家

 十一代 正瞭は三河吉田藩主 松平(大河内)信明の七男です。信明の妻は遠江浜松藩主 井上正経の娘で、その祖父正岑の正室紀州藩の分家伊予西条藩主 松平頼純となります。頼純の玄孫が正瞭の養父正篤となります。
 また、正瞭の正室は石見浜田藩主 松平(松井)康任の娘で、先祖の康官の妻は二代 正能の娘になります。
 

(3)阿部家と大村家

 十二代 正備は肥前大村藩主 大村純昌の五男で、純昌の妻は石見津和野藩主 亀井矩賢の娘です。矩賢の養子 玆尚の妻は八代 正由の養女となります。
 

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阿部豊後守家の婚姻関係図
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 武門の縁ー忍・桑名・白河、幕末への軌跡ー(行田市桑名市白河市友好都市締結15周年記念合同企画展実行委員会)
 明治維新人名辞典(吉川弘文館
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。