こんにちは、勘矢です。
今回は足利将軍家について調べたことをまとめました。
1.足利氏とは
足利氏は清和源氏の流れをくみ、源義家の孫義康からはじまる。義康は父義国から下野国足利庄をゆずられ、足利氏を称した。その子義兼は源頼朝の挙兵に加わり、平氏追討に功を立てた。頼朝に信頼され、北条政子の妹を妻とした。その後の当主も北条氏との婚姻を重ね、北条氏の準一門的な立場となった。また、三河国と上総国の両国の守護をなった。
鎌倉時代までの当主
足利 義康(よしやす)【?~1157】
源義国の子。
足利 義兼(よしかね)【?~1199】
足利義康の子。
足利 義氏(よしうじ)【1189~1254】享年66
足利 泰氏(やすうじ)【1216~1270】享年55
足利 頼氏(よりうじ)【1240~1262】享年23
足利 家時(いえとき)【?~?】
足利 貞氏(さだうじ)【1273~1331】享年59
2.応仁の乱以前の歴代将軍
将軍となった尊氏は幕政を弟直義に主導させ、足利家の執事高師直が補佐する体制をとった。しかし、次第に直義と師直の関係が悪化し観応の擾乱が起こった。この乱の最中に師直は斬殺され、直義も死んだ。尊氏は政権基盤を強化できたが、南北朝の対立を解消できないまま亡くなった。2代義詮は足利一門の斯波氏を執事などの要職に就けて将軍権力を強化していったが、早くに亡くなった。
初代 足利 尊氏(たかうじ)
【1305~1358】享年54
父は足利貞氏、母は上杉清子(上杉頼重の娘)
在職期間:1338(34)~1358(54)
2代 足利 義詮(よしあきら)
【1330~1367】享年38
父は足利尊氏、母は赤橋登子
在職期間:1358(29)~1367(38)
正室は渋川幸子(渋川義季の娘)
3代義満はわずか10歳であったため、細川頼之が管領となって将軍権力を代行した。義満が成人したのち頼之は失脚した。義満は全国の六分の一の守護職を一族で有する山名氏を討伐しその力削いだ(明徳の乱)。さらに祖父と父が実現できなかった南北朝の合一を実現させた。義満は将軍職を義持に譲るが、北山殿として実権を握り続け公武の頂点に立った。しかし、義満が亡くなると4代義持は義満とは違う路線の政治を行った。義持は将軍職を義量に譲るが2年足らずで没してしまい、将軍不在となった。そのため義持がふたたび政務をみていたが、後継者を定めずに没した。
3代 足利 義満(よしみつ)
【1358~1408】享年51
父は足利義詮、母は紀良子(善法寺道清の娘)
在職期間:1368(11)~1394(37)
4代 足利 義持(よしもち)
【1386~1428】享年43
父は足利義満、母は藤原慶子(安芸法眼の娘)
在職期間:1394(9)~1423(38)
5代 足利 義量(よしかず)
【1407~1425】享年19
父は足利義持、母は日野栄子
在職期間:1423(17)~1425(19)
幕府は出家していた義持の弟4人のなかから籤引きで次の将軍を決めた。それが6代義教である。義教は将軍専制を敷き、万人恐怖といわれる政治を行った。また、4代義持の頃から幕府に反抗的な鎌倉公方足利持氏を討伐した。さらに持氏の遺児をかくまった結城氏も攻める(結城合戦)など、反乱の芽を次々と摘んでいった。しかし、赤松満祐の邸宅で行われた結城合戦の戦勝祝いの席で義教は暗殺された(嘉吉の乱)。義教の横死により9歳の義勝が将軍に擁立された。そして、山名持豊や細川持常などにより赤松討伐が行われた。しかし、義勝は在職わずか8か月で病死した。弟義政が後継とされるが、将軍職になるのは成年になったときであったため、しばらく将軍不在のままであった。
6代 足利 義教(よしのり)
【1394~1441】享年48
父は足利義満、母は藤原慶子(安芸法眼の娘)
在職期間:1429(36)~1441(48)
7代 足利 義勝(よしかつ)
【1434~1443】享年10
在職期間:1442(9)~1443(10)
8代将軍となった義政は、政所執事の伊勢貞親に支えられながら将軍親政を行うことを試みるが、なかなか専制体制は築けなかった。この頃、持氏の遺児成氏によって再興した鎌倉公方が関東管領上杉氏と対立すると、義政は積極的にこれに介入した。関東の諸将などに鎌倉公方の追討を命じ、成氏を古河に追いやることに成功した。兄政知を代わりの鎌倉公方として送り込むも失敗し、政知は伊豆の堀越にとどまることになった(堀越公方)。関東の混乱は収拾がつかず、いちはやく戦国時代を迎えることになった。一方、京では管領畠山家、斯波家などの有力者の後継者問題、幕府首脳の権力争い、義政自身の後継者問題などが複雑に絡んで応仁の乱が勃発した。義政はこれも収拾することができず、乱は長引いた。
3.戦国時代の歴代将軍
9代義尚は9歳で将軍職に就いたが、父義政が実権を握り続けた。その後、徐々に権力を移譲されていったが、政治路線が異なるため親子の確執が続いた。近江の六角討伐を行って将軍権威の立て直しを目論んだが、はかばかしい戦火を得られず陣中で没した。
義尚が亡くなるとかつて将軍職を争った叔父義視の嫡男義材が10代将軍となった。義尚が失敗した六角征伐を行い一定の成果をあげた。さらに余勢をかって河内の畠山基家の討伐を行うが、その間に反対派の細川政元がクーデターを起こし義材は幽閉された。政元は日野富子などの支援をとりつけ、堀越公方足利政知の子を還俗させて将軍職に就けた(明応の政変)。この背景には堀越公方の家督争い、そして伊勢盛時(北条早雲)の伊豆侵攻が連動していたとされる。幽閉されていた義材はのちに脱出して越中の神保氏を頼った。
11代将軍となった義澄であるが、就任からの数年は越中に逃れた前将軍義材が脅威であった。満を持して義材が武力上洛を行い近江まで進攻してきたが、これをなんとか撃退した。義材は周防の大内氏を頼って逃れた。その後、細川政元の後継者争いが起きた。政元は修験道に凝って妻帯せず、公家の九条家出身の澄之と阿波細川家出身の澄元の二人の養子がいた。澄之派が政元を殺害し細川家を相続するも、澄元派が巻き返し澄元が細川家を相続した。義澄は澄元を支持し、「義澄ー澄元」体制をとろうとしたが、前将軍義稙(義材が改名)が周防の大内義興に擁立されて上洛する事態になった。細川一族の有力者細川高国もこれに同調したため、義澄は近江に逃れた。義稙が将軍職に再任されたため将軍職を失い、その地で亡くなった。
将軍に復帰した義稙は、細川高国と大内義興を中心の「義稙ー高国・義興」体制を築いた。はじめは澄元派との戦いが続いていたため協力関係であったが、船岡山の合戦で勝利すると不和が表面化していった。義興が山陰の尼子経久の台頭などにより帰国すると義稙と高国の関係は悪化した。義稙はかつて敵対した澄元と手を結ぶが、澄元が高国に敗れると義稙は再び高国と協調しようとするが関係の修復は難しく、義稙は淡路に出奔した。そこで高国打倒を図るも応じる大名がいなかった。一方の高国は前将軍義澄の遺児義晴を迎えることに成功し、将軍職に就けた。よって義稙は将軍職を解任され、澄元のゆかりの阿波に移りそこで没した。
10代 足利 義稙(よしたね)
【1466~1523】享年58
父は足利義視、母は日野良子(裏松重政の娘)
初名義材、義尹
在職期間:1490(25)~1493(28)/ 1508(43)~1521(56)
12代義晴は生まれた年に父義澄が亡くなり、播磨の赤松氏の元で養育された。細川高国に擁立されて将軍になり、高国が幕政を主導した。しかし、家中の混乱で高国が失脚すると、細川澄元の子晴元が将軍義晴の兄弟で義稙の養子となった足利義維を擁立して京都に攻め込んだ。義晴は近江の六角定頼を頼り避難した。「義維ー晴元」体制(堺公方府)が樹立されたが内部分裂によって崩壊し、義維は阿波に逃れた。近江にいる間も義晴は将軍職を保持していた。義晴は晴元と和睦して「義晴ー晴元・定頼」体制が成立し、ひとまず安定政権となった。しかし、高国の養子氏綱が挙兵すると晴元の家臣三好一族の対立も絡んで事態は複雑さを増した。将軍職を義輝に譲るも京都の政情は不安定を増し、再び近江に亡命した。
13代義輝の在任期間の半分は、地方での流浪状態であった。その大きな要因は細川晴元と三好長慶の対立であった。京都近郊を実効支配していた三好長慶は細川氏綱を擁立していたが、義輝はこれを支持しなかったため京都に戻れなかった。一度長慶と和睦するも再び流浪した。流浪していた期間も各地の大名との音信は続き、義輝は積極的に大名間の調停に関わり、将軍の影響力は消滅はしていなかった。その後、三好氏と和睦が成立して京都に戻ると「義輝ー三好」体制が成立した。長慶が没すると後継者の三好義継や三好三人衆らによって義輝は襲撃され自害した(永禄の変)。
永禄の変のあと、奈良の興福寺一乗院門跡であった弟の覚慶は奈良から逃亡し、還俗して義昭と名乗った。そして、越前の朝倉氏を頼ったが、朝倉氏は積極的に動かず、美濃・尾張の織田信長が擁立する意向を示したので信長を頼った。15代将軍に義昭がなると「義昭ー信長」体制で運営されるが、両者の考える政権構想の違いから齟齬が生じた。義昭は反信長勢力と連携する道を選び、信長に対して挙兵するも失敗し、最終的に京都から追放され毛利氏を頼った。これにより室町幕府は事実上終焉するが、義昭は秀吉による天下統一の直前まで将軍職にあった。義昭の子義尋は出家するも二子を儲けたが、2人とも出家したため将軍家の血統は絶えた。
15代 足利 義昭(よしあき)
【1537~1597】享年61
父は足利義晴、母は慶寿院
在職期間:1568(32)~1588(52)
参考文献:
日本史総覧(新人物往来社)
歴史REAL 足利将軍15代(洋泉社MOOK)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。