こんにちは、勘矢です。
今回は幕末の徳川一族について調べたことをまとめました。
1. ペリー来航
1853年6月アメリカの東インド艦隊司令官ペリーが浦賀に来航し、日本に開国を要求するも翌年までの猶予を求められて退去しました。同月に十二代将軍徳川家慶が61歳で没しました。10月に徳川家定が十三代将軍となりました。
【1854年の徳川一族】
将軍家:徳川家定(31)
田安家当主: 田安慶頼(27)
一橋家当主:一橋慶喜(18)
清水家:当主不在
尾張藩主:徳川慶恕(31)
2. 日米修好通商条約
1856年7月にアメリカの総領事ハリスが来日し、1857年10月にハリスは江戸城に登城して将軍家定に謁見しました。12月に幕府はハリスと日米修好通商条約交渉開始し、1858年老中堀田正睦を上洛させて条約勅許をえようとしましたが失敗しました。4月彦根藩主 井伊直弼が大老に就任し、6月に無勅許のまま日米修好通商条約に調印しました。また、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも修好通商条約に調印しました。(安政五ヵ国条約)
また、同じ頃に将軍継嗣問題が発生し、越前藩主 松平慶永や薩摩藩主 島津斉彬ら家門・外様大名は英明の聞こえ高い一橋慶喜を推し(一橋派)、井伊直弼ら譜代大名は家定の従弟 紀州藩主 徳川慶福を推しました(南紀派)。井伊直弼が大老に就任したことにより、1858年6月に紀州藩主徳川慶福が将軍継嗣となり、翌7月に十三代将軍徳川家定が35歳で没しました。10月に徳川慶福は家茂と改名し、十四代将軍となりました。
【1858年の徳川一族(家茂就任後)】
将軍家:徳川家茂(13)
田安家当主:田安慶頼(31)※将軍後見職
一橋家当主:一橋慶喜(22)※翌年「隠居・慎」
清水家:当主不在
尾張藩隠居:徳川慶恕(35)※「急度慎」
1858年、無勅許調印が行われると斉昭は、尾張藩主 慶恕、水戸藩主 慶篤らとともに登城し、井伊大老に対し責任を問いました。その後、幕府は斉昭に「急度慎」、慶恕に「隠居・急度慎」を命じました。尾張藩主は慶恕の実弟で分家美濃高須藩主 松平義比が相続し、茂徳と改名しました。
3. 文久の改革
1862年1月に老中 安藤信正が水戸浪士らに襲われ(坂下門外の変)、その後老中を辞職しました。4月、薩摩藩の国父 島津久光が兵を率いて入京し、勅使 大原重徳を奉じて江戸へ東下し、幕府に改革を迫りました。
7月、徳川慶喜が将軍後見職、松平慶永が政事総裁職となりました。幕府職制の改革、京都守護職の設置、参勤交代の緩和、軍制改革で陸・海軍に分けてそれぞれに総裁・奉行を置くなど、幕府の再編強化策を行いました。
【1862年の徳川一族】
将軍家:徳川家茂(17)
田安家当主:田安慶頼(35)※翌年隠居
清水家:当主不在
尾張藩の隠居 慶恕は慶勝と改名しました。
4. 将軍家茂の上洛~長州征討
1863年3月将軍家茂は上洛して御所に参内し、孝明天皇の賀茂下上社行幸に供奉しました。翌月の石清水社行幸の供奉は病のため辞退しました。4月に5月10日を攘夷期限とする旨奉答しました。5月長州藩が下関で外国船に砲撃しました。6月家茂は海路で江戸に戻りました。
京都では6月に池田屋事件があり、翌7月に長州藩の三家老が武装上洛し、会津藩・薩摩藩らと戦いました(禁門の変)。長州藩は敗れて敗走し、朝廷からは長州征討の勅許が出ました。8月に長州藩は四国艦隊下関砲撃事件にも敗北し、その後、幕府は36藩を動員して広島に軍隊を集結させました。征長総督には元尾張藩主の徳川慶勝が任命されました。慶勝は広島に着陣し、長州藩の処分を家老3人の切腹に留め、戦闘状態を終結させました。
1865年5月に家茂は陸路で3度目の上洛を行い、9月に征長の勅許が下された。翌年7月に家茂は大坂城で21歳の若さで没しました。
【1864年の徳川一族】
将軍家:徳川家茂(19)
田安家当主:田安寿千代(5)
田安家隠居:田安慶頼(37)
清水家:当主不在
尾張藩隠居:徳川玄同(34)※翌年茂栄と改称
田安慶頼の隠居後は、実子 寿千代が相続しました。
尾張藩主 茂徳は、藩政運営をめぐって兄慶勝と対立して隠居し、玄同と号しました。尾張藩主は、茂徳の養子となった義宜(慶勝の子)が相続しました。その後、玄同は大坂滞在中の家茂の側近くにあり、家茂から「親と思ふそよ」と声を掛けられるほど信頼されました。家茂は父斉順がかつて当主をつとめていて当主不在の御三卿清水家の当主に玄同を据えようとはかりましたが、実現しませんでした。
水戸藩主 慶篤は、将軍家茂の上洛に従って上洛しましたが、その後将軍の目代として江戸に戻りました。天狗党の乱が起きると、分家の宍戸藩主 松平頼徳を目代に任じ、藩内鎮撫のために水戸へ派遣されましたが、失敗して頼徳は責任を問われて自刃しました。
5. 大政奉還
1866年7月に長州征討の最中に将軍家茂が没すると、板倉勝静・松平容保・松平定敬が慶喜を説得し、徳川宗家継嗣を承諾させました。しかし、慶喜は将軍就任は承知しませんでした。翌月慶喜は宗家を継承し、幕府は将軍家茂逝去を発表しました。12月に慶喜は将軍になりました。
1867年10月に慶喜は大政奉還し、12月に王政復古の大号令によって慶喜の政権返上・将軍職辞退を承認し、約700年続いた摂関制と江戸幕府を廃絶し、総裁・議定・参与の三職を設置し、神武創業への復古、開化政策の採用などを宣言しました。また、小御所会議で慶喜に辞官・納地を命じたため、翌1868年1月に鳥羽伏見の戦いが起こり、上野戦争、北越戦争、東北戦争、箱館戦争と約1年余りの内乱となりました(戊辰戦争)。
【1867年の徳川一族】
将軍家:徳川慶喜(31)
田安家当主:田安亀之助(3)
田安家隠居:田安慶頼(40)
一橋家当主:一橋茂栄(37)
清水家当主:徳川昭武(15)
一橋慶喜の将軍家相続により、一橋家は元尾張藩主の茂栄が相続することになりました。1868年3月、駿府城の大総督宮(有栖川宮熾仁親王)に嘆願書を呈し、さらに翌々月にも大総督宮へ嘆願書を呈しました。5月に一橋藩を立藩しましたが、翌年12月に版籍奉還となりました。
田安家では寿千代が早世し、その弟亀之助が相続しました。慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて東下し、寛永寺に蟄居謹慎すると慶頼は後事を託され、慶喜赦免のため一橋茂栄とともに尽力しました。亀之助は徳川宗家を相続すると家達と改名し、隠居の慶頼が再度田安家当主となりました。また、一橋家と同様に田安藩を立藩しましたが、同じく翌年版籍奉還となりました。
当主不在状態が続いていた清水家には慶喜の実弟昭武が入り、慶喜の名代としてパリ万博に参加しました。1868年、兄の水戸藩主 慶篤が 没すると帰国を命じられ、帰国後ただちに家督相続し、最後の水戸藩主となりました。そのため、清水家はまた当主不在となりました。祭祀の途絶えることを恐れた一族や旧家臣が新政府に嘆願を重ねた結果、約2年後に慶篤の二男篤守が清水家を相続しました。
尾張藩主 義宜は幼少のため、父慶勝が後見役として藩政を掌握しました。鳥羽伏見の戦いが起きると、藩内の佐幕派を処断し(青松葉事件)、藩内を勤王討幕に統一し、近隣の諸侯を新政府側につくように説得し、東北・北陸方面に藩兵を派遣しました。
紀州藩主 茂承は鳥羽伏見の戦いの際、新政府への恭順を決めましたが、敗走する旧幕府軍を海路江戸に送致したため、朝廷の嫌疑を蒙りました。新政府軍に軍資金を献上し、藩兵一千五百人を出兵させ、東北各地を転戦しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
徳川一族大全(廣済堂出版)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
和宮 江戸へーふれた品物 みた世界ー(徳川記念財団)
徳川家茂とその時代ー若き将軍の生涯ー(徳川記念財団)
高須四兄弟 新宿荒木町に生まれた幕末維新(新宿歴史博物館)
日本人名大辞典(講談社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。