こんにちは、勘矢です。
1. 黒川氏
黒川 嘉兵衛(くろかわ かへえ)
中間 小林藤兵衛の子。諱は雅敬。
1853年に浦賀奉行支配組頭(150俵高)、永々御目見以上となりました。翌年ペリーが再来航した際には、応接場所のも問題等について交渉に当たりました。このとき、ペリー配下の写真師によって嘉兵衛の半身像が撮影され、外国人が日本国内で日本人を撮影した現存最古の銀板写真の一枚で、2006年に重要文化財に指定されました。
同年、下田奉行支配組頭に転じました。この頃、吉田松陰が米艦に乗り込もうとして失敗して自首した際にその訊問に当たりました。1855年に広敷番之頭となり、1858年に十二代将軍 徳川家慶の養女 精姫の用人並みとなりましたが、翌年に免職・差控を命じられました。その後、甲府勝手小普請に左遷され。1862年に小普請となりました。
黒川 保太郎(くろかわ やすたろう)
2. 渋沢氏
渋沢氏は武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の名字帯刀を許された豪農で、当主は代々市郎右衛門を名乗り、養蚕や藍玉づくりを行っていた。栄一と喜作は京都で一橋家に仕え、一橋慶喜が徳川宗家を相続するときに幕臣となりました。
(1)渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)【1840~1931】
豪農 渋沢市郎右衛門美雅、母は栄。栄二郎、篤大夫。
1865年(26)に一橋小十人並となり、歩兵取立御用掛として備中・摂津・播磨・和泉の一橋領内で農兵を募集し、一橋家の兵力増強につとめました。あわせて年貢米の売払方や播磨木綿の販売、硝石製造など領内における産業奨励・財政強化策に手腕を発揮し、勘定組頭並となりました。
1867年(28)に慶喜の弟徳川昭武がパリ万国博覧会に列席するのに従い渡欧しました。このとき、昭武の身辺雑事や日本への信書取扱、会計などをつとめました。1868年(29)に幕府瓦解により帰国しました。
1869年(30)に新政府に登用されて大蔵省に出仕しましたが、1873年(34)に辞職して、それ以降は民間実業界において民間企業の創設・育成に関わりました。
妻は従兄尾高惇忠の妹 千代。千代は1882年に没し、翌年伊藤兼子と再婚。
(2)渋沢 成一郎(しぶさわ せいいちろう)【1838~1912】
豪農 渋沢文平の長男。栄一の従兄。はじめ喜作。
1864年(27)に栄一と同様に一橋に仕えました。役職は同じ。1865年(28)に一橋小十人並となり、その後、同軍制所調役組頭となりました。(現米)20石4人扶持。
1868年(31)に幕府軍が鳥羽伏見の戦いで敗れると、翌月に天野八郎らと共に彰義隊を結成しその頭取に推されましたが、天野らと意見が合わず脱退し、振武隊を組織しました。また、続徳川実紀には、彰義隊頭取は小田井蔵太に仰せ付けがあり、成一郎は御使番格を仰せ付けられたとある。
振武隊は飯能に拠って新政府軍と戦うも敗れ、その後、榎本武揚軍に加わって箱館に向かいました。箱館で榎本軍が敗れると捕らえられて投獄されました。1872年(35)に出所しました。それ以降、実業界で活躍し、1896年(59)に東京商品取引所理事長となった。享年75。
参考文献:
寛政譜以降 旗本百科事典 第2巻、第3巻(東洋書林)
日本名字家系事典(東京堂出版)
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