探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

幕末の幕臣~「青天を衝け」関連人物~その2

こんにちは、勘矢です。
今回は大河ドラマ 青天を衝けに関連する幕臣黒川氏、渋沢氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 黒川氏

黒川 嘉兵衛(くろかわ かへえ)
 中間 小林藤兵衛の子。諱は雅敬。
 黒川久次郎の養子となり、1833年家督相続し、御小人に列しました。1842年に中間頭、1843年に御徒目付、1844年に小普請方となりました。
 1853年に浦賀奉行支配組頭(150俵高)、永々御目見以上となりました。翌年ペリーが再来航した際には、応接場所のも問題等について交渉に当たりました。このとき、ペリー配下の写真師によって嘉兵衛の半身像が撮影され、外国人が日本国内で日本人を撮影した現存最古の銀板写真の一枚で、2006年に重要文化財に指定されました。
 同年、下田奉行支配組頭に転じました。この頃、吉田松陰が米艦に乗り込もうとして失敗して自首した際にその訊問に当たりました。1855年に広敷番之頭となり、1858年に十二代将軍 徳川家慶の養女 精姫の用人並みとなりましたが、翌年に免職・差控を命じられました。その後、甲府勝手小普請に左遷され。1862年に小普請となりました。
 
 1863年に代官となり、さらに一橋家用人見習となりました。陸軍取立掛を命ぜられ、慶喜の上京の際に用人格(家禄百俵に加増)となり、翌年に側用人兼番頭となり、平岡円四郎の死後は筆頭用人となりました。
 1865年に加増されて三百俵となり、翌年に若年寄支配となりました。1868年に御目付となり、その後若年寄支配寄合となりました。また、慶喜の処分をめぐって、救済に尽力しました。維新後は京都に住んだ。
 
黒川 保太郎(くろかわ やすたろう)
 黒川嘉兵衛の子。1856年に芸術出精 大番入りし、1863年に御書院番に番替となりました。
 
 

2. 渋沢氏

 渋沢氏は武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の名字帯刀を許された豪農で、当主は代々市郎右衛門を名乗り、養蚕や藍玉づくりを行っていた。栄一と喜作は京都で一橋家に仕え、一橋慶喜が徳川宗家を相続するときに幕臣となりました。
 
(1)渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)【1840~1931】
 豪農 渋沢市郎右衛門美雅、母は栄。栄二郎、篤大夫。
 はじめ家業を手伝っていましたが、尊王攘夷運動に走りました。1864年(25)に京都にて平岡円四郎の推挙により一橋家に仕え、一橋家奥口番直ちに徒士・御用談所調方下役出役となりました。
 1865年(26)に一橋小十人並となり、歩兵取立御用掛として備中・摂津・播磨・和泉の一橋領内で農兵を募集し、一橋家の兵力増強につとめました。あわせて年貢米の売払方や播磨木綿の販売、硝石製造など領内における産業奨励・財政強化策に手腕を発揮し、勘定組頭並となりました。
 1866年(27)に同勘定組頭に昇進(御用談所出役兼帯)しました。また、慶喜の徳川宗家相続に伴い幕臣となりました。
 1867年(28)に慶喜の弟徳川昭武パリ万国博覧会に列席するのに従い渡欧しました。このとき、昭武の身辺雑事や日本への信書取扱、会計などをつとめました。1868年(29)に幕府瓦解により帰国しました。
 1869年(30)に新政府に登用されて大蔵省に出仕しましたが、1873年(34)に辞職して、それ以降は民間実業界において民間企業の創設・育成に関わりました。
 1900年(61)に男爵となりました。この頃から主君徳川慶喜の伝記編纂に着手し、1917年(78)に「徳川慶喜公伝」全八冊が完成しました。享年92。
 妻は従兄尾高惇忠の妹 千代。千代は1882年に没し、翌年伊藤兼子と再婚。
 

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旧渋沢家飛鳥山邸 晩香廬
晩香盧は、渋沢栄一喜寿えお祝って現在の清水建設株式会社が贈った洋風茶室。
 
 
(2)渋沢 成一郎(しぶさわ せいいちろう)【1838~1912】
 豪農 渋沢文平の長男。栄一の従兄。はじめ喜作。
 尊王攘夷運動に身を投じて、1863年(26)に横浜異人館焼打ちなどを計画したが中止して江戸に出ました。
 1864年(27)に栄一と同様に一橋に仕えました。役職は同じ。1865年(28)に一橋小十人並となり、その後、同軍制所調役組頭となりました。(現米)20石4人扶持。
 1866年(29)に一橋慶喜が徳川宗家を相続するときに幕臣となり、幕府の陸軍奉行支配調役に取り立てられました。1867年(30)に京都目付支配より奥右筆格となりました。
 1868年(31)に幕府軍鳥羽伏見の戦いで敗れると、翌月に天野八郎らと共に彰義隊を結成しその頭取に推されましたが、天野らと意見が合わず脱退し、振武隊を組織しました。また、続徳川実紀には、彰義隊頭取は小田井蔵太に仰せ付けがあり、成一郎は御使番格を仰せ付けられたとある。
 振武隊は飯能に拠って新政府軍と戦うも敗れ、その後、榎本武揚軍に加わって箱館に向かいました。箱館で榎本軍が敗れると捕らえられて投獄されました。1872年(35)に出所しました。それ以降、実業界で活躍し、1896年(59)に東京商品取引所理事長となった。享年75。
 
参考文献:
 寛政譜以降 旗本百科事典 第2巻、第3巻(東洋書林
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 明治維新人名辞典(吉川弘文館
 続徳川実紀 第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 文化庁 国指定文化財等データベース(名称:銀板写真(黒川嘉兵衛像)〈エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年〉)
 
それでは、今日はここまで。
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