探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

駿河大納言の家老 朝倉宣正と旗本 朝倉氏

こんにちは、勘矢です。
今回は前々回(戦国 朝倉一族 - 探検!日本の歴史)に書いた越前朝倉氏の一族とされる朝倉宣正とその子孫について調べたことをまとめました。
 
 

1. 朝倉宣正系の朝倉氏

 越前朝倉氏の一族とされる朝倉在重(寛政重修諸家譜によると朝倉景鏡の弟とされる)は越前国から駿河国安部郡柿島に移り住み、その子在重(在宣)のときに徳川家康に仕えました。1590年に徳川家は関東に移りましたが、在重はそのまま駿河に残り、新たな領主の中村一氏に仕えました。
 その子の宣正は徳川秀忠に仕えて旗本となり、1621年に加増されて一万石となり、その後駿河大納言 徳川忠長の家老となって加増されて二万六千石となって遠江掛川城主となりました。しかし、忠長が改易されたときに連座しました。
 宣正の子孫は旗本として存続しました。二男 正世の子孫は千石、三男 宣季の子孫は廩米三百俵。
 
 

2. 駿河大納言の家老

初代 朝倉 宣正(のぶまさ)【1573~1637】
 朝倉在重(在宣)の長男、母は末永正長の娘。
 1590年(18)の小田原攻めのときに徳川家康に属し、徳川秀忠に附属されて二百石を与えられて大番となりました。1600年(28)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従って上田攻めで奮戦しました。1604年(32)に大番組頭となり、その後度々の加増があり、1622年(50)には一万六千石となりました。
 1624年(52)に三代将軍 徳川家光の弟 駿河大納言徳川忠長が駿府五十五万石となるとその家老となりました。翌年、一万石を加増されて二万五千石となり、遠江掛川城主となりました。1631年(59)に忠長が甲斐国に蟄居を命ぜられると、家老として主君を諌止できなかった責任を負わされて改易となり、大和郡山の松平(奥平)忠明に預けられました。享年65。
 正室は土井利昌の娘で、土井利勝の妹。
 
朝倉 宣親(のぶちか)【1604~1629】
 朝倉宣正の長男、母は土井利昌の娘。
 徳川忠長に仕えて小姓をつとめました。父に先立ちました。享年26。
 正室酒井忠勝(讃岐守)の娘(離婚)。
 
朝倉 宣成(のぶなり)【1625~1693】
 朝倉宣親の長男。母は酒井忠勝(讃岐守)娘。
 1631年(7)に祖父 宣正が改易となると、外祖父の酒井忠勝の元で養われました。
 1640年(16)に召されて徳川家光に仕えて御書院番に列し、1642年(18)に廩米三百俵を賜りました。その後、摂津麻田藩主 青木重兼の婿養子となって青木重成と名乗り、廩米は収められました。享年69。
 

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朝倉氏略系図(宣正系)
 
 

3. 旗本 朝倉一族

(1)旗本:朝倉祐太郎家

(寛政年間までの当主)
初代 朝倉 正世(まさよ)【1613~1663】
 朝倉宣正の二男、母は土井利昌の娘。
 1627年(15)に召されて御小姓となり、廩米五百俵を賜りました。1629年(17)に駿河大納言 徳川忠長への御使を受けて駿府に赴きました。翌年、故あって閉門となり、1632年(20)にこれを許され、御書院の番士となりました。
 1633年(21)に二百石を加えられ、廩米をあらためて武蔵・上野国内において七百石の知行を賜りました。
 1645年(33)に三河吉田城を小笠原忠知が賜るときに堀直景とともに仰せを受けて城引渡し役をつとめました。その後、日光東照宮の修繕などをつとめました。
 1656年(44)に組頭に転じ、廩米三百俵を加えられました。享年51。
 妻は旗本 多賀常長の娘。
 
二代 朝倉 景行(かげゆき)【?~1705】
 朝倉正世の長男、母は多賀常長の娘。
 1663年に相続し、小普請となりました。1667年に御書院番に列し、1685年に駿府城守衛にあるとき、落度により閉門とされました。その後ゆるされ、1688年に小十人頭にすすみました。1697年に廩米をあらためて下総国内で三百石を賜り、合わせて千石を知行しました。
 妻は下総古河藩 土井家家臣 土井之政の娘。
 
三代 朝倉 景孝(かげたか)【1668~1731】
 摂津麻田藩主 青木重成の三男。
 1691年(24)に御書院番に列し、翌年に桐間番、さらに翌年に御小納戸になりました。
 1705年に38歳で相続し、翌年に寄合に列しました。1717年(50)に御使番となり、翌年に御目付となって大坂にあるときに山城淀城を松平乗邑が賜り、城引渡し役をつとめました。
 1721年(54)に御先弓頭に転じ、1728年(61)に八代将軍 徳川吉宗の日光社参でに供奉しました。享年64。
 妻は朝倉景行の養女(旗本 多賀常良の娘、朝倉正世の妻の姪)、後妻は医家 吉田宗恬の娘。
 
四代 朝倉 孝知(たかとも)【1699~1742】
 旗本 藤懸永次の二男 永英の子。
 1727年(29)に御書院番となり、1731年に33歳で相続しました。享年44。
 妻は朝倉景孝の養女(医家 吉田宗怡の娘、先代後妻の姪)。
 
五代 朝倉 景保(かげやす)【1724~1787】
 朝倉孝知の長男、母は朝倉景孝の養女。
 1742年に19歳で相続し、御書院番に列しました。1754年(31)に西ノ丸の御書院番になりました。享年64。
 
朝倉 景房(かげふさ)
 朝倉景保の二男。父に先立ちました。
 妻は旗本 須藤盛春の娘、後妻は旗本 清水義永の娘、後々妻は旗本 本多昌忠の娘。昌忠の娘は、景房没後に景保に養われて一橋家に仕えました。
 
六代 朝倉 景岡(かげおか)【1754~?】
 朝倉景保の四男。
 1788年に35歳で相続し、御書院番に列しました。
 妻は旗本 水野忠通の養女。
 

(2)旗本:朝倉要人家

(寛政年間までの当主)
初代 朝倉 宣季(のぶすえ)【1617~1691】
 朝倉宣正の三男、母は土井利昌の娘。
 三代将軍 徳川家光に仕え、御小姓組に列し、廩米三百俵を賜りました。その後、小普請となり、1673年に57歳で隠居しました。享年75。
 
二代 朝倉 正至(まさゆき)【1651~1709】
 朝倉宣季の二男。
 1673年に23歳で相続しました。1676年(26)に御小姓組の番士に列しました。享年59。
 妻は上野高崎藩 安藤家家臣 土屋直有の娘。
 
三代 朝倉 景澄(かげずみ)【1705~1764】
 朝倉正至の長男、母は土屋直有の娘。
 1709年にわずか5歳で相続しました。1719年(15)に御小姓組の番士となり、1728年(24)に八代将軍 徳川吉宗の日光社参に供奉しました。1737年(33)に西ノ丸のつとめとなりました。享年60。
 妻は旗本 辻守輝の娘。
 
四代 朝倉 景美(かげよし)【1721~1798】
 朝倉景澄の長男、母は辻守輝の娘。
 1750年(30)に西ノ丸御書院番の番士となりました。1764年に44歳で相続し、1788年に68歳で隠居しました。享年78。
 妻は旗本 本多久時の娘。
 
五代 朝倉 景棟(かげかど)【1740~?】
 朝倉景美の長男、母は本多久時の娘。
 1788年に49歳で相続し、御書院番に列しました。1796年(57)若君(徳川家慶)に附属となりました。また、末弟の景茂を養子としました。
 妻は旗本 朝比奈元敦の娘。
 
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。