探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本 朝倉氏~朝倉宣正の弟在重の一族~

こんにちは、勘矢です。
今回は前回(駿河大納言の家老 朝倉宣正と旗本 朝倉氏 - 探検!日本の歴史)の続きで、分家の旗本 朝倉氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 旗本朝倉氏とは

 駿河大納言 徳川忠長の家老朝倉宣正の弟の在重は徳川秀忠に仕え、1626年に上総・下総国内で五百石を与えられました。その後、加増されて二千石となりました。1689年に景豊が15歳で没したため一旦知行を没収されましたが、翌年弟の景儀が先祖の功により三百石で再興しました。その子景増は駿河町奉行をつとめました。
 在重の二男 重興は二百石・廩米百俵、三男 重利は廩米三百俵で分家しました。重宣の三男 景忠は父の遺領から三百石を与えられましたが、子の代で知行を収められました。
 この系統の朝倉家は、四谷の全勝寺を菩提寺としました。
 

f:id:SGM335:20201031113301p:plain

朝倉氏略系図(在重系)

f:id:SGM335:20201031113344j:plain

四谷全勝寺
 

2. 旗本 朝倉一族

(1)旗本:朝倉小左衛門家

初代 朝倉 在重(ありしげ)【1583~1650】
 朝倉在重の二男、母は末高正長の娘。
 1615年(33)の大坂夏の陣のとき、牧野忠成に属して功を上げ、のちに二代将軍 徳川秀忠に仕えて御書院番に列し、その後、御前番となりました。
 1625年(43)に御目付に転じ、上総・下総国内で五百石の知行賜り、1630年(48)に五百石を加増され、千石となりました。1632年(50)に肥後熊本城を細川忠利が賜るとき、城引渡し役をつとめました。翌年、美濃大垣城を松平定綱が賜るとき、現地に赴いて厳命を伝えました。同年、甲斐国内で千石を加増されて二千石となりました。1635年(53)に戸田氏鉄が美濃大垣城を賜るとき、城引渡し役をつとめました。
 1636年(54)に因幡鳥取藩主の池田勝五郎(のちの光仲・池田輝政の孫)が幼少のため、御目付のことをうけたまわり、現地に赴いて政務を監督しました。1639年(57)に大和郡山城を本多政勝(徳川四天王 本多忠勝の孫)が賜るとき、現地に赴いて仰せを伝えました。同年、町奉行に進みました。享年68。
 妻は越後長岡藩 牧野家家臣 牧野五郎兵衛の娘。
 
二代 朝倉 重宣(しげのぶ)【1615~1676】
 朝倉在重の長男、母は牧野五郎兵衛の娘。
 1630年(16)に御小姓となり、御膳番をつとめました。1632年(18)に御小姓組に移り、翌年に二百石の知行を賜りました。
 1650年に36歳で相続し、これまでの知行は弟の重興に与えられました。1653年(39)に肥後熊本藩主 細川六郎(のちの綱利)が幼少により、多賀常長とともに熊本に赴き、国政を監督しました。
 1674年(60)に御留守居伴に移り、翌年辞職して小普請となりました。享年62。
 妻は八幡の善法寺幸清の娘。
 
三代 朝倉 景宣(かげのぶ)【1640~1688】
 朝倉重宣の長男、母は八幡の善法寺幸清の娘。
 1659年(20)に御書院番に列しました。1676年に37歳で相続し、三百石を弟の景忠に与えたので、千七百石となりました。1685年(46)に駿府在番中に落度があり半年ほど閉門となりました。享年49。
 妻は旗本 蒔田定則の娘。
 
四代 朝倉 景豊(かげとよ)【1675~1689】
 朝倉景宣の長男、母は蒔田定則の娘。
 1688年に14歳で相続しましたが、翌年に相続して間もなく没しました。享年15。
 17歳未満の養子は原則として認められていないため、知行は収められました。
 
五代 朝倉 景儀(かげよし)【1676~1730】
 朝倉景宣の二男、母は蒔田定則の娘。
 1690年(15)に先祖の勤功によって旧知行地の上総・下総国内で三百石を賜ってお家を再興しました。1701年(26)に御書院番となりました。1724年に49歳で隠居しました。享年55。
 妻は旗本 渡邊光の娘。
 
六代 朝倉 景増(かげます)【1703~1763】
 朝倉景儀の長男、母は渡邊光の娘。
 1724年に22歳で相続し、御書院番に列しました。1728年(26)に八代将軍 徳川吉宗の日光社参に徒歩にて供奉し、褒美を賜りました。1736年(34)に西ノ丸の御徒頭になりました。1754年(52)に御先弓頭となり、翌年に火附盗賊改加役、駿府町奉行となりました。享年61。
 妻は旗本 大木親次の娘、平岡良久の養女、陸奥守山藩松平(水戸)家家臣 三木忠位の娘。
 
七代 朝倉 光景(てるかげ)【1728~1789】
 朝倉景増の長男。
 1762年(35)に御書院番になりました。1763年に36歳で相続しました。1776年(49)に十代将軍 徳川家治の日光社参に徒歩にて供奉し、また鷹狩りにしばしば従い褒美を賜りました。享年62。
 
八代 朝倉 恒景(つねかげ)【1773~?】
 朝倉光景の二男。小左衛門。
 1789年に17歳で相続し、御小姓組に列しました。1796年(24)若君(徳川家慶)に附属となりました。のちに西ノ丸の御小姓となりました。
 
九代 朝倉 主殿
 1836年に御書院番となりました。1841年に相続しました。
 
朝倉主殿の屋敷は、都営地下鉄森下駅から徒歩5分の所にある明治座森下スタジオあたりにありました。

f:id:SGM335:20201031114122j:plain

朝倉主殿屋敷跡(明治座森下スタジオ)
 

(2)旗本:朝倉清左衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 朝倉 景忠(かげただ)【?~1701】
 朝倉重宣の四男、母は八幡の善法寺幸清の娘。
 1676年に父の遺領の内上総国内で三百石を分け与えられました。1681年に御小姓組の番士に列しました。
 
二代 朝倉 市之丞【?~?】
 朝倉景忠の子。1701年に相続し、1704年に故あって知行を収められました。
 
 

(3)旗本:朝倉新十郎家

(寛政年間までの当主)
初代 朝倉 重興(しげおき)【?~1677】
 朝倉在重の二男、母は越後長岡藩 牧野家家臣 牧野五郎兵衛の娘。
 1633年に御小姓組に列し、廩米二百俵を賜りました。1650年に西ノ丸のつとめとなりました。同年、兄重宣が賜っていた知行地を賜り、廩米は収められました。翌年、本丸のつとめになりました。1660年に百俵を加えられました。
 妻は旗本 井出正陳の娘。
 
二代 朝倉 高興(たかおき)【?~1727】
 朝倉重興の長男、母は井出正陳の娘。
 1677年に相続し、小普請となりました。1681年に御小姓組に列し、1698年に知行二百石を上野国内に移されました。1701年に故あって一時逼塞となりました。
 妻は岡田太郎右衛門の娘。
 
三代 朝倉 景富(かげとみ)【1674~1735】
 朝倉高興の長男、母は岡田太郎右衛門の娘。
 1693年(20)に御書院番に列し、1713年(40)に辞職しました。1728年に55歳で相続しました。享年62。
 妻は岡田氏の娘。
 
四代 朝倉 信嗣(のぶつぐ)【1712~1772】
 旗本 永田重信の三男、母は永田久重の娘。
 景富の婿養子となり、1735年に24歳で相続しました。1738年(27)に西ノ丸の御小姓組の番士となり、1761年(50)に本丸に移りました。享年61。
 妻は朝倉景富の娘。
 
五代 朝倉 信正(のぶまさ)【1755~1781】
 朝倉信嗣の長男。
 1772年に18歳で相続しました。1774年(20)に西ノ丸の御書院番に列しました。享年27。
 妻は御家人 大貫光政の娘。
 
六代 朝倉 信清(のぶきよ)【1763~?】
 朝倉信嗣の二男。
 1781年に19歳で相続しました。翌年に西ノ丸の御小姓組に列し、1786年(24)に本丸に移りました。1796年(34)若君(徳川家慶)に附属となりました。
 妻は代官 小笠原則普の娘。
 
 
(4)旗本:朝倉勇次郎家
(寛政年間までの当主)
初代 朝倉 重利(しげとし)【1634~1659】
 朝倉在重の三男、母は越後長岡藩 牧野家家臣 牧野五郎兵衛の娘。
 1641年(8)に将軍世子 徳川家綱の附属となり、御小姓となりました。1650年(17)に御書院番にうつり、廩米三百俵を賜りました。享年26。
 
二代 朝倉 重勝(しげかつ)【1654~1707】
 朝倉重利の長男。
 1659年にわずか6歳で相続しました。1672年(19)に御書院番の番士となりました。1685年(32)に駿府城守衛のときに故あって一時閉門となりました。享年54。
 
三代 朝倉 教周(のりちか)【1700~1772】
 朝倉重勝の長男。
 1707年にわずか8歳で相続しました。1724年(25)に御小姓組に列し、1772年(73)に老年のため辞職しました。享年73。
 妻は奥山直方の娘、後妻は清水昌春の娘。後妻の清水氏について、寛政譜の朝倉家の項には清水昌春の娘となっているが、清水氏項では昌春の義妹で、昌春の兄昌方の娘となっている。
 
四代 朝倉 勝寿(かつとし)【1728~1783】
 朝倉教周の長男、母は奥山直方の娘。
 1772年に45歳で相続しました。1776年(49)に御書院番の番士となり、翌年辞職しました。1780年に53歳で隠居しました。享年56。
 妻は紀州家の家臣 山本昌孝の娘。
 
五代 朝倉 景栄(かげひさ)【1761~?】
 旗本 松崎孝章の二男、母は松崎忠延の娘。
 勝寿の婿養子となり、1780年に20歳で相続しました。翌年に御書院番に列しました。1796年(36)若君(徳川家慶)に附属となりました。
 妻は朝倉勝寿の娘。
 
※旗本各家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 お家相続 大名家の苦闘 大森映子著(角川選書
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション
 千葉いまむかし No.7(千葉市編集委員会
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。