探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

藤井松平家~上田藩とその分家~

こんにちは、勘矢です。
今回は藤井松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 信濃上田藩松平家

(1)駿河田中から転封を重ね但馬出石へ

 土浦藩松平信吉の二男忠晴は1619年に常陸国内で二千石を与えられ、御小姓組番頭となり、1632年に御書院番頭兼奏者番、翌年三千石を加増され大番頭兼奏者番となった。1642年に二万石を加増されて駿河田中二万五千石となり諸侯に列した。1644年に遠江掛川三万石、1648年に丹波亀山三万八千石に転じた。忠晴の長男忠俊は父に先立ち、甥忠栄(兄忠国の四男)を養子するも病弱で廃嫡となり、二男の忠昭が家督相続した。
 三代忠周は兄の養子となり家督相続し、1685年に若年寄のち側用人となった。翌年武蔵岩槻四万八千石となり、1697年に但馬出石を経て1706年に信濃上田五万八千石となった。1717年京都所司代、1724年に老中に就任し、在任中に没した。
 
初代 松平 忠晴(ただはる)【1598~1669】
 松平信吉の二男、母は松平信一の娘。享年72。
 田中藩主 在職期間:1642年(45)~1644年(47)
 掛川藩主 在職期間:1644年(47)~1648年(51)
 亀山藩主 在職期間:1648年(51)~1667年(70)隠居
 正室は但馬豊岡藩主 杉原長房の娘。
 
二代 松平 忠昭(ただあき)【1644~1683】
 松平忠晴の二男、母は側室 大八木氏。享年40。
 在職期間:1667年(24)~1683年(40)
 正室は播磨明石藩主 松平(藤井)忠国の娘。
 
三代 松平 忠周(ただちか)【1661~1728】
 松平忠晴の三男、母は側室 木村氏。初名忠易、のち忠徳、忠栄。享年68。
 亀山藩主 在職期間:1683年(23)~1686年(26)
 岩槻藩主 在職期間:1686年(26)~1697年(37)
 出石藩主 在職期間:1697年(37)~1706年(46)
 上田藩主 在職期間:1706年(46)~1728年(68)
 正室は伊予今治藩主 松平定時の養女(定時の兄定経の娘)。継室は下野皆川藩主 米倉昌明の養女。
 
 

(2)信濃上田藩主

 四代忠愛は家督相続時に弟忠容に五千石を分与したので五万三千石を領した。忠愛の治世では災害が続き、復旧工事で藩財政が逼迫したが、忠愛は遊興に耽った。五代忠順は父の隠居により相続し、藩財政逼迫のため倹約令を発した。年貢増徴策への民衆の不満がつのり1760年に領内全藩で一揆が勃発した。1763年に奏者番寺社奉行、1775年に若年寄となった。
 六代忠済は十代将軍徳川家治の名代として日光社に参拝し、江戸城警衛勤番などをつとめた。七代忠学は分家からの養子で、同じく江戸城警衛勤番などをつとめた。また、藩校明倫堂を創設した。
 
 八代忠固ははじめ忠優といい、姫路藩酒井家から婿養子となって相続した。1834年奏者番となり、1838年寺社奉行を兼任し、1845年に大坂城代、1848年に老中に就任した。1853年のペリー来航と翌年の再来航の際に開国、日米和親条約締結に当たった。1855年に老中を免ぜられたが、1857年に復職し、このときに忠優から忠固と改めた。井伊直弼大老登用に尽力し一橋派を圧迫したが、日米修好通商条約の調印について勅許不要論を展開したため、1858年に再度老中を免職となり翌年に没した。
 九代忠礼はわずか10歳で家督相続した。1864年の第一次長州征伐に出兵し、1866年の第二次長州征伐のとき、将軍徳川家茂が亡くなるとその帰府の供奉をつとめた。その後の戊辰戦争では新政府に属し、北陸へ出兵した。その功により賞典禄三千石を下賜された。1869年に版籍奉還して上田藩知事に任ぜられたが、巳年騒動が起こって騒然となり、藩政空白状態のまま1871年廃藩置県を迎えた。
 
四代 松平 忠愛(ただざね)【1701~1758】
 松平忠周の長男、母は米倉昌明の養女。初名忠殷。享年58。
 在職期間:1728年(28)~1749年(49)隠居
 
五代 松平 忠順(ただより)【1726~1783】
 松平忠愛の長男、母は側室 杉浦氏。享年58。
 在職期間:1749年(24)~1783年(58)
 正室は近江彦根藩主 井伊直定の養女(直貞の養父直惟の娘)。
 
六代 松平 忠済(ただまさ)【1751~1828】
 松平忠順の長男、母は側室 山本氏。享年78。
 在職期間:1783年(33)~1812年(62)隠居
 正室は上野館林藩主 松平武元の娘。
 
七代 松平 忠学(たださと)【1788~1851】
 分家松平忠明の二男、母は松平忠常の娘。享年64。
 在職期間:1812年(25)~1830年(43)隠居
 正室は松平忠済の娘。
 
八代 松平 忠固(ただかた)【1812~1859】
 播磨姫路藩主 酒井忠実の二男、母は西尾忠移の娘。初名忠優。享年48。
 在職期間:1830年(19)~1859年(48)隠居
 正室は松平忠学の養女(分家松平忠徳の娘)三千子。
 
九代 松平 忠礼(ただなり)【1850~1895】
 松平忠固の長男、母は側室 井上氏。享年46。
 在職期間:1859年(10)~1871年(22)<1869年から上田藩知事
 正室遠江掛川藩主 太田資始の娘。継室は土佐高知新田藩主 山内豊福の娘 豊子。
 

藤井松平氏(上田藩系)略系図
 
 

2. 旗本:松平信濃守家

 信濃上田藩主松平忠周の五男忠容は、1728年に兄忠愛より父の遺領のうち信濃国内で五千石を分け与えられた。三代忠明は二代忠常の婿養子となり、1799年に蝦夷地取締御用掛となり、東蝦夷地に向かった。1802年駿府城代となった。
 七代忠厚は上田藩からの養子で、1872年に兄忠礼とともにアメリカに留学した。土木工学を学び鉄道建設に従事し、アメリカで没した。
 
初代 松平 忠容(ただやす)【1722~1781】
 松平忠周の五男、母は石井氏。御小姓組番頭、御側。1756(35)。享年60。
 
二代 松平 忠常(ただつね)【1747~1798】
 松平忠容の長男、母は小川氏。
 1756年にわずか10歳で家督相続。1785年に39歳で隠居。享年52。
 妻は旗本 大島義里の娘。
 
三代 松平 忠明(ただあきら)【1765~1805】
 豊後岡藩 中川久貞の四男。
 忠常の婿養子となり、1785年に22歳で家督相続。御小姓組番頭、御書院番頭。享年41。
 妻は松平忠常の娘。
 
四代 松平 忠徳(ただのり) 【?~1852】
 松平忠明の長男、母は松平忠常の娘。通称飛騨守。
 1805年に家督相続。御小姓組番頭、御書院番頭、西ノ丸御側御用取次。
 
五代 松平 忠質 【?~1860】
 松平忠徳の子。通称信濃守。1852年に家督相続。新番頭。
 
六代 松平 忠行 【?~?】
 松平忠質の養子。通称主計。1860年家督相続。1863年に御使番、1866年に御役御免、勤仕並寄合。
 
七代 松平 忠厚(ただあつ) 【1851~1888】
 信濃上田藩主松平忠固の子。欽次郎。享年38。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 日本人名大辞典(講談社
 続徳川実紀 第3篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林
 松平氏史料集(上田市立博物館)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。