探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

御側御用取次 有馬氏倫とその子孫

こんにちは、勘矢です。
今回は前回(上総一宮藩主 加納家 - 探検!日本の歴史)取り上げた加納久通と共に紀州藩士から幕臣、大名へと取り立てられた有馬氏倫とその子孫について調べたことをまとめました。
 
 

1. 下野吹上藩主有馬家とは

 筑後久留米藩 有馬家の分家になります。
 丹波福知山藩有馬豊氏の三男頼次は、駿河大納言徳川忠長に仕えましたが、忠長の失脚に連座して父豊氏に預けられました。
 頼次の跡を豊氏の外孫にあたる吉政が頼次の養子となり紀州藩徳川頼宣に仕えました。吉政の跡は同じ紀州藩士の正木家から義景を養子に迎え、義景は二代藩主光貞に仕えました。
 義景の子氏倫は徳川吉宗に仕え、吉宗が将軍になると幕臣に加えられ、伊勢国内などに千三百石と役料として廩米千俵を与えられました。また、御側御用取次となり、「人の憎がるもの、食いつき犬と有馬氏倫」と風刺をされるほど権勢をふるいました。その後七千七百石の加増があり、合わせて一万石となり伊勢西条藩を立藩しました。
 その後、五代氏恕のときに上総五井に移り、九代氏郁のときに下野吹上に移り廃藩置県を迎えました。
 本家久留米藩外様大名でありますが、この家は紀州藩士から幕臣を経て大名となったため、譜代大名として扱われます。
 
 

2. 吹上藩系 有馬家一族

初代 有馬 頼次(よりつぐ)【1611~1649】
 有馬豊氏の三男、母は徳川家康の養女蓮姫。享年39。
 
二代 有馬 吉政(よしまさ)【?~?】
 旗本 建部光重の長男、母は有馬豊氏の養女(豊氏の兄則氏の娘)。外祖父有馬豊氏の許で成長し、頼次の養子となった。
 
三代 有馬 義景(よしかげ)【?~?】
 紀州藩士 正木為長の二男。妻は旗本 建部光延の娘。
 
四代/大名 初代 有馬 氏倫(うじのり)【1668~1735】  
 紀州藩士 有馬義景の子、母は建部光延の娘。1716年(49歳)に幕臣となり、御側御用取次役となりました。1727年(60歳)に加増され諸侯に列し、伊勢西条藩を立藩しました。享年68。正室は播磨林田藩主 建部政宇の娘。
 
二代 有馬 氏久(うじひさ)【1699~1771】
 紀州藩士 渡辺泰綱の子。氏倫の養嗣子となり、1717年(19歳)に徳川吉宗に拝謁し、1723年(25歳)に小納戸となりました。1736年に38歳で伊勢西条藩を相続しました。1740年(42歳)~1758年(60歳)まで大番頭をつとめました。1759年に61歳で隠居しました。享年73。正室信濃飯田藩主 堀親賢の娘。
 
有馬 光隆(みつたか)【?~?】
 播磨林田藩主 建部政周の十一男。1745年に氏久の婿養子となりました。1749年に病のため実家に戻りました。正室は離婚ののち、上総久留里藩主 黒田直亨と再婚しました。
 
三代 有馬 氏恒(うじつね)【1739~1760】
 信濃飯田藩主 堀親蔵の四男。1749年に11歳で氏久の養嗣子となり、1759年に21歳で伊勢西条藩を相続しましたが、翌年に没しました。享年22。
 
四代 有馬 氏房(うじふさ)【1757~1773】
 有馬氏久の三男。義兄氏恒の養嗣子となり、1760年にわずか4歳で伊勢西条藩を相続しました。享年17。
 
五代 有馬 氏恕(うじよし)【1761~1783】
 信濃飯田藩主 堀親長の二男、母は石川氏。1773年に13歳で氏房の末期養子となり、伊勢西条藩を相続しました。1781年(21歳)のとき上総五井藩に移り、定府大名から参勤交代する大名となりました。享年23。
 
六代 有馬 氏保(うじやす)【1762~1790】
 越後長岡藩主 牧野忠寛の二男、母は大岡忠光の娘。1783年に22歳で氏恕の末期養子となり、上総五井藩を相続しました。享年29。正室筑後久留米藩主 有馬頼貴の娘。
 
七代 有馬 久保(ひさやす)【1779~1814】
 伊勢八田藩主 加納久周の二男、母は加納久堅の養女。1790年に12歳で氏保の末期養子となり、上総五井藩を相続しました。享年36。正室は有馬氏保の娘。
 
八代 有馬 氏貞(うじさだ)【1812~1833】
 有馬久保の子。 1814年にわずか3歳で上総五井藩を相続しました。1830年(19歳)に日光祭礼奉行を命ぜられた。享年22。正室筑後久留米藩主有馬頼徳の養女 媛(三河奥殿藩主 松平乗羨の娘)。
 
九代 有馬 氏郁(うじしげ)【1831~1862】
 有馬氏貞の嫡男、母は有馬頼徳の養女。1833年にわずか3歳で上総五井藩を相続しました。1842年(12)に下野吹上藩に移りました。享年32。正室出羽松山藩主 酒井忠礼の娘 鎮〔瑶光院〕。
 
十代 有馬 氏弘(うじひろ)【1850~?】
 一族の旗本 有馬則篤の子。1862年に13歳で下野吹上藩を相続しました。1869年(20歳)に吹上藩知事となり、1871年(22歳)に廃藩置県を迎えました。1876年(27歳)に隠居して離籍し、先代の夫人瑶光院に家督を譲りました。正室交代寄合 本堂親久の娘釟子、離縁。継室は美濃岩村藩主 松平乗喬の娘 敏、1873年離縁。
 
 

3. 吹上藩有馬家の婚姻関係

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吹上藩有馬家の婚姻関係図
※赤線が吹上藩有馬家。黄線が久留米藩有馬家を示します。
 
(1)有馬家と建部家
 有馬頼次の養子になった吉政は、建部光重と有馬豊氏の養女の子で外祖父の豊氏の許で成長しました。これは、光重が後妻として池田輝政の養女を迎えていることが関係しているのかもしれません。
 紀州藩士の正木家から吉政の養子となった義景は、吉政の姪(建部光延の娘)を妻に迎えました。
 有馬氏倫は、吉政の弟建部政長の孫政宇の娘を正室に迎えました。
 有馬氏久の婿養子に迎えられた光隆は、氏倫正室の甥にあたります。
 このように江戸初期から中期にかけて、有馬家と建部家は何重にも縁を重ねていました。
 
(2)有馬家と徳川家
 有馬吉政から義景、氏倫と紀州藩士でありました。氏倫の養子になった氏久は紀州藩士 渡辺恭綱の子です。恭綱は徳川吉宗と従兄弟にあたります。恭綱の父は伊予西条藩主 松平頼純で嫡出ではなかったため紀州藩士の渡辺家に養子に出されたようです。他に弟がいなければ藩主になれたかもしれませんが、頼純は子だくさんだったため、西条藩は恭綱の弟頼致が継ぎ、さらに頼致は吉宗の将軍家相続に伴い紀州藩主に転任しました。そして西条藩はさらに弟の頼渡が相続しました。
 渡辺家は兄が相続していたので氏久は厄介の身でした。氏久のそのような境遇を吉宗は自身の幼少期と重ねて憐れんで、たまたま跡継ぎのいなかった氏倫の養子にしたのではないでしょうか。氏倫の働きを評価していたことと、徳川家と有馬家には徳川家康の養女蓮姫が有馬豊氏に嫁いだ関係があることが理由ではないかと考えます。。
 
(3)有馬家と堀家
 二代藩主氏久は信濃飯田藩主の堀親賢の娘を正室に迎えました。三代藩主には氏久正室の甥氏恒を迎えました。五代藩主には三代氏恒の甥氏恕を迎えました。そして、他家からの養子続きのためか、氏恕の正室は有馬本家の久留米藩から迎えることになりましたが、婚約のみでした。
 江戸中期ごろの有馬家は飯田藩の堀家との関係が深い時期でしたが、いずれも短命の藩主でした。
 
(4)江戸後期の婚姻関係 
 六代以降の藩主を見ると、六代氏保と八代氏貞が有馬本家の久留米藩から正室を迎えています。藩主が他家からの養子が多いので、有馬の血筋を入れようとこの縁組をしたのではないかと思います。
 七代久保は先代氏保とは従兄弟で婿養子となりました。久保の実家加納家は藩祖氏倫と吉宗に仕えた間柄の家です。
 最後の藩主は有馬豊氏の弟豊長の子孫となります。氏郁の子が幼少のため吹上藩を相続しました。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 数字と図表で読み解く 徳川幕府の実力と統治のしくみ(新人物往来社
 
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。