探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

徳川御三卿~田安家・ 一橋家・ 清水家~

こんにちは、勘矢です。

今日は御三卿について調べたことをまとめました。

 

 

1. 御三卿とは

 御三卿とは、八代将軍徳川吉宗の二男宗武を祖とする田安家、吉宗の四男宗尹を祖とする一橋家、九代将軍家重を祖とする清水家の三家をいいます。成立の時期はそれぞれ異なり、田安家の成立と清水家の成立までには四半世紀近く差があり、清水家成立以前は田安家と一橋家を御両卿と称しました。

 御三家(尾張家・紀州家・水戸家)は将軍から領地を与えられ、城を持ち、家臣団があり、尾張家と紀州家は参勤交代を行い、他の大名などと同様に独立した藩であったのに対し、御三卿は将軍の家族という位置づけで、知行ではなく賄料、家老をはじめとする主な家臣は幕府からの出向者で、江戸城内の屋敷を与えられました。

 

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御三卿の略系図

2. 御三卿の歴代当主

(1) 田安家

初代:田安 宗武(むねたけ)【1715~1771】
 徳川吉宗の二男、母は側室 竹本氏 お古牟の方。
 1729年(15歳)に賄料三万俵を与えられた。2年後に江戸城田安門内に屋敷を与えられ、田安を称しました。1745年(31歳)に賄料を改め、十万石の領知を与えられました。享年57。
 正室は公家 近衛家久娘 森姫(宝蓮院)。
 
二代:田安 治察(はるあき)【1753~1774】
 田安宗武の五男、母は正室の森姫。
 1771年に19歳で田安家を相続しました。享年22。
 嗣子なく死去したため、当主不在の明屋形となりました。
 
当主不在(1774~1787)
 治察亡きあと、宗武の正室宝蓮院(森姫)が養子縁組の整った定信の復帰を幕府に希望するも許されませんでした。宝蓮院(森姫)は1786年に66歳で死去。
 
三代:田安 斉匡(なりまさ)【1779~1848】
 一橋治済の五男、母は側室 丸山氏。
 1787年に9歳で当主不在の田安家を相続しました。兄家斉に劣らず子だくさんでしたが、嫡子匡時が虚弱のため、七女猶姫と婚姻を前提に甥の斉荘を養子に迎えました。1836年に58歳で隠居しました。
 1839年に斉荘が尾張藩主に転向すると、九男慶頼が相続するが幼少のため家政を導きました。享年70。
 正室閑院宮美仁親王第一王女 裕宮貞子。
 
四代:田安 斉荘(なりたか)【1810~1845】
 徳川家斉の十四男、母は側室 曾根氏 お蝶の方。
 1813年(4歳)に田安家の養子となり、1836年に27歳で田安家を相続しました。1839年(30歳)、弟で尾張藩主の徳川斉温が死去すると尾張藩付家老成瀬氏に推され、尾張藩を相続。享年36。
 正室は田安斉匡七女 猶姫。
 
五代 / 八代:田安 慶頼(よしより)【1828~1876】
 田安斉匡の九男、母は側室 篠崎氏。
 1839年に12歳で田安家を相続しました。1858年(31歳)に14代将軍家茂の後見職となり、1862年に勅使大原重徳が下向して幕政改革の勅命を伝達すると、一橋慶喜将軍後見職に指名されたため、慶頼は後見職を解かれた。翌年36歳で隠居しました。
 1868年、鳥羽伏見の戦い後に慶喜寛永寺に蟄居謹慎すると、後事を託されました。子の亀之助が宗家を相続すると、田安家を41歳で再相続しました。
 一橋家とともに立藩し田安藩となるも、翌年に領地を返還することになりました。享年49。
 正室徳川家慶六女 暉姫、継室は閑院宮孝仁親王第三王女 睦宮光子。
 
六代:田安 寿千代(としちよ)【1860~1865】
 田安慶頼の長男、母は側室 高井氏。
 1863年にわずか4歳で田安家を相続しました。享年6。
 
七代:田安 亀之助(かめのすけ)【1863~1940】
 田安慶頼の三男、母は側室 高井氏。
 1865年にわずか3歳で田安家を相続しました。
 1868年に6歳で徳川宗家を相続し、駿河静岡藩主となりました。家達(いえさと)と改名。享年78。

 

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田安門の案内板

 

(2) 一橋家

初代:一橋 宗尹(むねただ)【1721~1764】
 徳川吉宗の四男、母は側室 谷口氏 お梅の方。
 1737年(17歳)に賄料二万俵、のちに一万俵を加増され三万俵。1745年(25歳)に賄料を改め、十万石の領知を与えられました。享年44。
 正室は公家 一条兼香娘 顕子。
 
二代:一橋 治済(はるさだ)【1751~1827】
 一橋宗尹の四男、母は側室 細田氏。
 1764年に14歳で一橋家を相続しました。
 嫡男豊千代(のち家斉)を将軍家に養子に出すことに成功し、明屋形の田安家に五男斉匡を送りこみ、また、家斉の子たちが清水家を相次いで相続、一橋家は六男斉敦がのちに相続したため、この時期の将軍の継嗣候補はすべて一橋系で固められました。
 また、これまで養子に入って将軍なった綱吉、家宣、吉宗の実父は将軍任官時にはすでに亡くなっていましたが、治済は唯一将軍以外の実父として存在し、幕政に影響力を及ぼしました。
 1799年(49歳)に御三卿の当主としてははじめて隠居しました。享年77。
正室は京極宮公仁親王王女 在子。
 
三代:一橋 斉敦(なりあつ)【1780~1816】
 一橋治済の六男、母は側室 岩本氏。
 1799年に20歳で一橋家を相続しました。享年37。
 正室は公家 二条治孝娘 保子。兄治国の正室の妹にあたる。
 
四代:一橋 斉礼(なりのり)【1803~1830】
 一橋斉敦の二男、母は側室 野尻氏。
 1816年に14歳で一橋家を相続しました。享年28。
 正室は田安斉匡長女 近姫。
 
五代:一橋 斉位(なりくら)【1818~1837】
 田安斉匡の四男、母は側室 高月氏
 1830年に13歳で一橋家を相続しました。享年20。
 正室徳川家斉二十六女 永姫。永姫は明治維新後の1875年に死去。
 
六代:一橋 慶昌(よしまさ)【1825~1838】
 徳川家慶の五男、母はおひさの方。
 1837年に13歳で一橋家を相続しました。享年14。
 
七代:一橋 慶寿(よしとし)【1823~1847】
 田安斉匡の五男、母は側室 八木氏。
 1838年に16歳で一橋家を相続しました。享年25。
 正室伏見宮貞敬親王第十六王女 直子(徳信院)。清水斉明正室の妹にあたる。
 
八代:一橋 昌丸(まさまる)【1846~1847】
 尾張藩徳川斉荘(元田安家当主)の二男、母は側室 宮田氏。
 1847年にわずか2歳で一橋家を相続しました。しかし、幼少のため尾張藩邸にいました。なお、出生時に父斉荘は死去していました。その年に早世。享年2。
 初代宗尹の血筋の当主は昌丸までで、これ以降は水戸家の血筋となりました。
 
九代:一橋 慶喜(よしのぶ)【1837~1913】
 水戸藩徳川斉昭の七男、母は有栖川宮織仁親王王女 登美宮吉子。
 1847年に11歳で一橋家を相続しました。1859年(23歳)に前年の不時登城について咎められて隠居しました。一橋家は御三卿で唯一将軍を出した家であったので、これまで当主不在のことはなかったが、約3年にわたり当主不在になり、この間の御三卿は田安家のみとなった。
 謹慎を解かれて一橋家を再相続すると将軍後見職になり、その後、禁裏御守衛総督などに任ぜられて京都で活躍しました。1866年に将軍家を相続しました。享年77。
 正室は公家 一条忠香養女 (今出川公久娘) 美賀子。
 
十代:一橋 茂栄(もちはる)【1831~1884】
 美濃高須藩松平義建の五男、母は側室 尾崎氏 美佐尾。
 茂栄は、美濃高須藩主(このときの名は松平義比)、尾張藩主(このときの名は徳川茂徳)をつとめたのちに隠居しました。清水家の当主候補にされていましたが、1866年(36歳)に慶喜が将軍家を相続すると、茂徳に一橋家の相続の命令が出されました。
 1868年(38歳)に江戸城開城により13代将軍家定正室天璋院と家定の生母本寿院が一橋邸に入るため、七代慶寿正室の徳信院と茂栄正室の政姫が一橋邸から永代邸に立退きました。
 慶喜に対する寛大な措置を嘆願したり、領地削減により徳川宗家が抱えきれない幕臣を家来として抱えたいと嘆願を出したりしました。そして、田安家とともに立藩し一橋藩となるも、翌年に領地を返還することになりました。享年54。
 正室陸奥二本松藩主 丹羽長富の娘 政姫。

  

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一ツ橋門の石垣跡(奥)

(3) 清水家

初代:清水 重好(しげよし)【1745~1795】
 徳川家重の二男、母は側室 三浦氏 お逸の方。
 1753年(9歳)に賄料三万俵を拝領しました。1758年(14歳)に清水門内に屋敷を与えられ、清水家の当主となりました。1779年(35歳)に家治の嫡子家基が急死すると重好は家治の弟という近親であったが、年齢や子供がいないことなどから後継者にはなれませんでした。享年51。
 正室伏見宮貞建親王王女 田鶴宮貞子(貞章院)。貞章院は1820年に死去。
 
当主不在(1回目:1795~1798)
 1795年、重好が死去すると清水殿家老は清水勤番支配と改められる。1810年に斉順が清水屋形に入ると清水殿家老に戻りました。
 
二代:清水 敦之助(あつのすけ)【1796~1799】
 徳川家斉の五男、母は島津重豪娘(近衛家養女)茂姫。
 1798年にわずか3歳で清水家の名跡を相続しました。享年4。
 正室の子であるが、既に兄家慶が嫡子となっていたため清水家を相続したと考えられる。また、清水屋形に入る前に死去したため、清水勤番支配のままでした。
 
当主不在(2回目:1799~1801)
 清水勤番支配。
 
三代:清水 斉順(なりゆき)【1801~1846】
 徳川家斉の七男、母は側室 梶氏 お登勢
 1805年にわずか5歳で清水家の名跡を相続しました。1816年(16歳)に紀州藩徳川治宝の婿養子となったため清水家から離れました。のちに紀州藩主となりました。享年46。
 
四代:清水 斉明(なりあき)【1809~1827】
 徳川家斉の十三男、母は側室 お八重の方。
 1816年にわずか8歳で清水家を相続しました。享年19。
 正室伏見宮貞敬親王第四王女 教宮英子(恭真院)。一橋慶寿正室の姉にあたる。
 
五代:清水 斉彊(なりかつ)【1820~1849】
 徳川家斉の二十一男、母は側室 吉江氏。
 1827年にわずか8歳で清水家を相続しました。1846年(27歳)に実兄で紀州藩徳川斉順の養子となり、紀州藩を相続しました。享年30。
 正室近衛忠熙養女 (広幡基豊長女) 豊子。
 
当主不在(3回目:1846~1866)
 斉彊が紀州藩主に転向した後は、四代斉明の正室英子が残っていました。しかし、1857年に英子が50歳で死去すると所縁の人物がいなくなり、家老は元清水附支配と改められました。
 家茂が14代将軍になると、元美作津山藩主の松平斉民( 11代将軍 徳川家斉の十四男 )が、 井伊直弼から14代将軍家茂の後見にあたらせるため、清水家相続の話が持ち上がるも実現しませんでした。また、元尾張藩主の徳川茂徳は、14代将軍家茂の信任が厚く、清水家当主の候補になるもこちらも実現しませんでした。
 1861年、14代将軍家茂との婚姻のために江戸に下向した和宮が、江戸城に入るまでの間、清水屋形に入りました。
 1865年に田安屋形が焼失するとその代替先に清水屋形が宛がわれました。そして、元清水附支配の役職がなくなりました。
 
六代:徳川 昭武(あきたけ)【1853~1910】
 水戸藩徳川斉昭の十八男、母は側室 万里小路氏。
 1866年(14歳)に、将軍慶喜(実兄)の名代としてパリ万博に参加することになり、明屋形の清水家当主となりました。慶喜は自身の後継者として昭武にする考えがあったとされます。
 万博後もヨーロッパ諸国に留学していましたが、1868年(16歳)に新政府の命令により帰国し、当主がなくなった実家の水戸家を相続しました。これにより、清水家はまたも当主不在となりました。享年58。
 
当主不在(4回目:1868~1870)
 江戸城開城に際して、和宮と実成院(家茂生母)が田安家の仮屋形となっていた清水屋形に移りました。
 清水家は当主不在状態でしたので、田安家や一橋家のように藩になることはできませんでした。
 徳川一族から新政府に対し清水家の家名存続について嘆願があり、新政府は徳川宗家より血脈者を選ぶように達しがあり、宗家を後見している松平確堂(斉民)、松平篤守(昭武義弟)、松平康民(確堂の子)らが候補にあがりました。
 
七代:徳川 篤守(あつもり)【1856~1924】
 水戸藩徳川慶篤の二男。
 叔父の昭武が水戸家を相続したため、当主不在になった清水家を1870年に15歳で相続しました。享年69。

 

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清水門

3. 御三卿の息子たち

 御三卿の当主以外の息子たちについてまとめました。

(1) 田安家

初代宗武の子。
 定国は久松松平家の定勝系本家を相続し、定信は定勝系分家を相続しました。久松松平家は、家康の生母お大の方が再婚した相手の久松俊勝との子供を祖とし、康元系(大名から交代寄合に降格)、康俊系(旗本から大名に昇格、下総多古藩)、定勝系の3つあります。定勝系が最も栄え、伊予松山藩陸奥白河藩→伊勢桑名藩、伊予今治藩の三家が幕末まで大名として存続しました。田安家から養子を迎えたことによって、その家格は高くなりました。
 
松平 定国(さだくに)【1757~1804】
 田安宗武の六男。伊予松山藩主 松平定静の婿養子となり、1779年に23歳で相続。享年48。
 
松平 定信(さだのぶ)【1758~1829】
 田安宗武の七男。陸奥白河藩主 松平定邦の婿養子となり、1783年に26歳で相続。1787年に30歳で老中首座となり寛政の改革を行った。享年72。
 
三代斉匡の子。
 斉匡は子だくさんでしたが、成人した男子は匡時、一橋斉位、一橋慶寿、松平慶永、田安慶頼、徳川慶藏です。匡時が廃嫡されたのは、兄家斉の子供の処遇のほうが優先度が高いために起きたのかもしれません。斉位と慶寿は実家の一橋家、慶永は越前福井藩、慶藏は尾張徳川家を相続しました。
 
田安 匡時【1805~1839】
 田安斉匡の二男。1813年(9歳)に虚弱という理由で廃嫡。享年35。
 
松平 慶永(よしなが)【1828~1890】
 田安斉匡の八男。号の春嶽(しゅんがく)という呼び方のほうが有名。越前福井藩主松平斉善の養子となり、1838年に11歳で相続。1858年(31歳)に井伊大老と対立し隠居謹慎。1862年(35歳)に政事総裁職となった。享年63。
 
徳川 慶藏(よしつぐ)【1836~1849】
 田安斉匡の十男。義兄で尾張藩徳川斉荘の養子となり、1845年に10歳で相続。享年14。

(2) 一橋家

初代宗尹の子。
 宗尹の長男重昌は越前福井藩主の要望により、その養子となりました。この頃の福井藩は相次ぐ不祥事により石高が半分近くに減り、将軍の縁者を養子に入れることによって、越前松平家の家格を復活させる意図があったとされます。
 重昌が病死すると、弟の重富が継ぐことになりました。
 五男治之は外様の黒田家に養子に入りました。徳川家と黒田家には初代長政が家康の養女、2代忠之が秀忠の養女を迎える婚姻関係がありました。
 
松平 重昌(しげまさ)【1743~1758】
 一橋宗尹の長男。越前福井藩主 松平宗矩の養子となり、1749年に7歳で相続。享年16。
 
松平 重富(しげとみ)【1748~1809】
 一橋宗尹の三男。1758年に兄重昌のあとを11歳で相続。享年62。
 
黒田 治之(はるゆき)【1752~1781】
 一橋宗尹の五男。筑前福岡藩主 黒田継高の養子となり、1769年に18歳で相続。享年30。
 
二代治済の子と孫。
 家斉が将軍家を相続し、家茂までの将軍が治済の血筋を受け継ぎます。
 治国は早世し、その年に生まれた斉朝は叔父斉敦の養子とされ、のちに尾張家を相続しました。
 斉隆は叔父が相続した黒田家に養子に入りました。黒田家で見ると治之と斉隆は祖父と孫の関係です。
 義居は尾張藩の分家の美濃高須藩松平家に養子に入りました。尾張藩は本家、分家の当主が一橋に乗っ取られた形になりました。義居には子がなく水戸藩から養子を迎えています。
 
徳川 家斉(いえなり)【1773~1841】
 一橋治済の長男。将軍徳川家治の養子となり、1787年に15歳で相続。享年69。家斉の子孫で一橋家を相続したのは、孫の慶昌(二男家慶の五男)が一橋家6代、同じく孫の昌丸(十四男斉荘の二男)が一橋家8代を相続した。
 
一橋 治国(はるくに)【1776~1793】
 一橋治済の二男。兄家斉が将軍家に養子になったため、一橋家の世継ぎとなるも早世。享年18。正室二条治孝娘 隆子。
 
黒田 斉隆(なりたか)【1777~1795】
 一橋治済の子。筑前福岡藩黒田治高の養子となり、1782年に6歳で相続。享年19。
 
松平 義居(よしすえ)【1785~1804】
 一橋治済の六男。美濃高須藩主 松平勝当の婿養子となり、1801年に17歳で相続。享年20。
 
徳川 斉朝(なりとも)【1793~1850】
 一橋治国の長男。尾張藩徳川宗睦の養子となり、1800年に相続。享年58。

 

 

参考文献:

 企画展 徳川御三卿(徳川記念財団)

 御三卿 一橋徳川家茨城県立歴史館)

 江戸時代全大名家事典(東京堂出版

 日本史諸家系図人名事典(講談社

 江戸大名家血族事典(新人物往来社

 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社

 徳川実紀 続 第2編/第3編(国立国会図書館デジタルコレクション)

 平成新修旧華族家系大成

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。