探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

阿波の殿様 蜂須賀氏

こんばんは、勘矢です。

今日は、蜂須賀氏ついて調べたのでまとめました。

 

 

1. 正勝と家政~徳島藩成立まで~

 蜂須賀氏は尾張国海東郡蜂須賀(愛知県あま市)を発祥とし、小六正勝が豊臣秀吉の墨俣築城に協力して以来重用され、小土豪から大名まで昇りつめました。
 
蜂須賀 正勝(まさかつ)【1526~1586】
 通称小六のち彦右衛門尉。木曽川筋川並衆の蜂須賀党を率いて川筋を押え、のち美濃の斎藤道三に従ったが、道三が敗死すると尾張織田信賢、織田信清に属しました。その後、織田信長の家臣木下藤吉郎の麾下となり、数々の戦に従いました。播磨の別所長治を攻めたときの功により播磨龍野城主となりました。備中高松城水攻めでは築堤惣奉行をつとめ、本能寺の変のあと城将清水宗治と交渉して開城に成功しました。その後、秀吉による天下統一の戦いにも功をたて、四国攻めのあと阿波一国を与えられたが、病のため嫡男家政に譲りました。享年61。
 
蜂須賀 家政(いえまさ)【1558~1638】
 正勝の嫡男で、母は益田氏。姉川の戦いで初陣を飾り、その後秀吉の黄母衣衆となり、長篠の戦いをはじめ数々の戦に従い戦功をたてました。父正勝より阿波一国十七万六千石を譲られて入封し、渭山丘陵に徳島城を築城して居城としました。兵農分離によって支配体制を強化することを強行し、山間土豪の抵抗を招き鎮圧に6年を費やしました。九州征伐、小田原の陣、文禄・慶長の役に従軍しました。関ヶ原の戦いでは、阿波を豊臣秀頼に返上し、隠居・剃髪して蓬庵と号し高野山に登り、中立の立場をとりました。嫡男至鎮を徳川方に参陣させ、戦いの後、阿波は至鎮に与えられました。その後、至鎮、忠英の後見をつとめました。享年81。正室は生駒家長の娘。
 

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蜂須賀氏 略系図
 

2. 徳島藩

 関ヶ原の戦いに東軍として参加した至鎮は、戦後阿波一国を安堵されました。
その後、大坂の陣で戦功をあげて淡路一国を加えられ、合わせて二十五万七千石となり、幕末まで至りました。
 
初代 蜂須賀 至鎮(よししげ)【1586~1620】
 蜂須賀家政の嫡男、母は生駒家長の娘。
 大坂の冬の陣後、松平の称号を下賜されました。享年35。
 正室徳川家康の養女(小笠原秀政の娘)万姫。
 
二代 蜂須賀 忠英(ただてる)【1611~1652】
 蜂須賀至鎮の嫡男、母は徳川家康の養女(小笠原秀政娘)。
 1620年に10歳で阿波徳島藩を相続し、祖父家政が後見しました。享年42。
 正室は播磨明石藩小笠原忠真の養女(忠真の兄 小笠原忠脩の娘)繁姫。
 
三代 蜂須賀 光隆(みつたか)【1630~1666】
 蜂須賀忠英の嫡男、母は小笠原忠真の養女(小笠原忠脩の娘)。
 1652年に23歳で阿波徳島藩を相続しました。享年37。
 正室豊前中津藩主 小笠原長次の娘 金姫。
 
四代 蜂須賀 綱通(つなみち)【1656~1678】
 蜂須賀光隆の嫡男、母は小笠原長次の娘。
 1666年に11歳で阿波徳島藩を相続しました。叔父隆重が後見しました。下総佐倉藩主の堀田正信が徳島に配流となったため預かりました。享年23。
 正室は播磨姫路藩主 榊原政房の娘 松姫。
 
五代 蜂須賀 綱矩(つなのり)【1661~1730】
 蜂須賀忠英の三男隆矩の長男、母は紀州藩臣松平宣助の娘。
 1678年に18歳で阿波徳島藩を相続しました。後見の叔父隆重に五万石を分与しました。預かっていた堀田正信が自害したため、閉門4か月の処罰を受けました。1728年に68歳で隠居しました。享年70。
 正室は奥津当五郎の娘 園。継室は安西某の娘。
 
六代 蜂須賀 宗員(むねかず)【1709~1735】
 蜂須賀綱矩の六男、母は安西氏。
 元阿波富田藩主。1725年(17)に綱矩の養子となり、1728年に20歳で阿波徳島藩を相続しました。享年27。
 正室は美作津山藩主 松平宣富の娘。継室は陸奥守山藩主 松平頼貞の娘満佐、のちに離縁。
 
七代 蜂須賀 宗英(むねてる)【1684~1743】
 蜂須賀忠英の四男隆喜の三男、母は加藤氏。
 はじめ分家富田藩の家老職をつとめ、1707年(24)に辞職しました。
 1735年に52歳で阿波徳島藩を相続しました。1739年に56歳で隠居しました。子がなかったため、藩主としての蜂須賀氏の血統は宗英の代で絶えました。享年60。
 
8代 蜂須賀 宗鎮(むねしげ)【1721~1780】
 讃岐高松藩一門 松平頼熙の二男、母は佐野氏。
 讃岐高松藩主松平頼桓の弟にあたる。初名松平頼珍で、讃岐高松藩一門の松平大膳家当主。
 1739年(19)に婿養子となり阿波徳島藩を相続しました。1754年の病気のため34歳で隠居しました。享年60。
 正室は蜂須賀宗英の養女(蜂須賀吉武の娘)元姫。
 
9代 蜂須賀 至央(よしひさ)【1736~1754】
 讃岐高松藩一門 松平頼熙の三男、母は渡辺氏。
 先代の異母弟。初名松平頼央、讃岐高松藩一門の松平大膳家当主。
 1754年(19)に養子となり阿波徳島藩を相続するも2か月ほどで没しました。享年19。
 
10代 蜂須賀 重喜(しげよし)【1738~1801】
 出羽久保田新田藩主 佐竹義道の四男、母は内藤氏。
 1754年に17歳で阿波徳島藩を相続しました。藩政改革に着手するも重臣たちの反撃を受け、これが幕府に知られて、1769年に32歳で隠居させられました。享年64。
 正室筑後柳川藩主 立花貞俶の娘 傅姫。
 
11代 蜂須賀 治昭(はるあき)【1757~1814】
 蜂須賀重喜の嫡男、母は立花貞俶の娘。
 1769年に13歳で阿波徳島藩を相続しました。1813年に57歳で隠居しました。享年58。
 正室は近江彦根藩井伊直幸の娘 俊姫。
 
12代 蜂須賀 斉昌(なりまさ)【1795~1859】
 蜂須賀治昭の二男、母は辻氏。
 1813年に19歳で阿波徳島藩を相続しました。1843年に49歳で隠居しました。享年65。
 正室は近江彦根藩井伊直中の娘 ふさ。継室は鷹司政熈の娘 季姫。
 
13代 蜂須賀 斉裕(なりひろ)【1821~1868】
 徳川家斉の二十二男、母は土屋氏。
 1828年に7歳で斉昌の養子となり、1843年に23歳で阿波徳島藩を相続しました。1861年(40)に陸・海軍総裁に任ぜられたが、翌年に辞任しました。鳥羽伏見の戦いの後に急死しました。享年48。
 正室鷹司政通の娘 愛姫。
 
14代 蜂須賀 茂韶(もちあき)【1846~1918】
 蜂須賀斉裕の二男、母は山村氏。
 1862年(17)に朝廷から国事の周旋を命ぜられた父に代わり上洛しその任にあたりました。第一次長州征伐に出兵しました。
 1868年に23歳で阿波徳島藩を相続し、戊辰戦争に出兵しました。翌年徳島藩知事となり、それにともなって禄制改革をおこなったが、家老稲田氏の旧臣を士族ではなく卒族としたことから稲田騒動が起きました。稲田氏は淡路国洲本を与えられていて、戊辰戦争で貢献が高かったことから徳島藩からの独立運動を行いました。新政府は稲田旧臣を士族とする代わりに北海道移住を命じ、徳島藩士にも厳しい処罰を行いました。1871年(26)に廃藩置県を迎えました。享年73。
 正室は一門蜂須賀隆芳の娘 斐、のちに離縁。継室は常陸水戸藩徳川慶篤の娘 随子。
 

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徳島城 鷲の門
 

3富田藩

 徳島藩2代忠英の二男隆重が新田五万石を分与されて富田藩が成立しました。
3代正員が徳島藩を継いだため富田藩は廃藩となりました。
 
初代 蜂須賀 隆重(たかしげ)【1634~1707】
 蜂須賀忠英の二男、母は小笠原忠脩の娘。
 1678年(45)に甥綱矩が徳島藩を相続するときに五万石を分与されました。享年74。
 正室は清田某の娘 源。
 
二代 蜂須賀 隆長(たかなが)【1674~1714】
 蜂須賀隆喜の長男、母は岡本氏。
 1699年(26)に伯父隆重の養子となり、1707年に34歳で阿波富田藩を相続しました。享年41。
 正室は慈光寺仲学の娘。
 
三代 蜂須賀 正員(まさかず)【1709~1735】
 蜂須賀綱矩の六男、母は安西氏。
 隆長の養子となり、1714年に6歳で阿波富田藩を相続しました。1725年(17)に徳島藩を相続したため、富田藩は廃藩となりました。→徳島藩 6代 宗員を参照。
  

4. 蜂須賀一族

(1) 江戸中期ごろまでの一族

蜂須賀 隆矩【1641~1694】
 蜂須賀忠英の三男。
 1642年(2)に家老蜂須賀玄虎の養子となりました。1657年(17)に一万石の家禄を相続しました。1678年(38)に職禄を辞退し、公族となり剃髪し、京都に住みました。
辞退したのは、子の綱矩が藩主になったためと考えます。享年54。
 妻は紀州藩臣松平宣助の娘。
 
蜂須賀 隆喜【1643~1698】
 蜂須賀忠英の四男。
 1659年(17)に家老となり三千石のちに加増され五千石となりました。1678年(36)に家老を辞職して公族となりました。享年56。
 妻は岡本元近の娘。
 
蜂須賀 吉武(よしたけ)【1692~1725】
 蜂須賀綱矩の長男、母は奥津当五郎の娘。
 5代藩主綱矩の後継者であったが、藩主になる前に亡くなりました。享年34。
 正室因幡鳥取藩主池田綱清の養女(池田政撫の娘)豊。
 
蜂須賀 隆寿(たかひさ)【1694~1755】
 蜂須賀綱矩の三男、母は横山氏。
 1708年(15)に富田藩主蜂須賀隆長の養子となったが、翌年病により廃嫡となりました。享年62。
 
蜂須賀 宗純(むねずみ)【1716~1739】
 松平忠雅三男、母は中村氏。
 1738年(23)に7代藩主宗英の養子となりました。享年24。
 
蜂須賀 重矩(しげのり)【1729~1751】
 蜂須賀宗員の三男、母は岡田氏。
 初名充矩。伯父隆寿の養子となり、1743年(15)に8代藩主宗鎮の養子となりました。享年23。
 
蜂須賀 重隆(しげたか)【1730~1787】
 蜂須賀隆寿の二男、母は吉成氏。
 初名隆興。宗鎮の養子重矩が亡くなったため、1752年(23)に8代藩主宗鎮の養子となりました。翌年病により廃嫡となりました。享年58。
 

(2) 一門(重隆の子孫)

初代 蜂須賀 喜憲【1760~1774】
 蜂須賀重隆の子。中老格、1500石。享年15。
 
2代 蜂須賀 隆穀(たかよし)【1768~1807】
 蜂須賀重隆の子。享年40。
 
3代 蜂須賀 隆寛【1801~1823】
 蜂須賀隆穀の子。1812年に2500石。享年23。子がなく蜂須賀家の男系は絶えました。
 
4代 蜂須賀 休栄【1807~1836】
 蜂須賀休光の子。蜂須賀隆寛の養子となりました。享年30。妻は蜂須賀隆穀の娘 津世。
 
5代 蜂須賀 隆實【1819~?】
 蜂須賀休栄の子。
 
6代 蜂須賀 隆芳【1831~?】
 妻は蜂須賀休栄の娘 艶。1871年藩士となりました。
 

(3) 公族(宗鎮の子孫)

初代 蜂須賀 休光(よしみつ)【1760~1812】
 蜂須賀宗鎮の子。藩士大田義雅の養子となり、のちに公族となりました。享年53。
 
2代 蜂須賀 休紹【1803~1862】
 蜂須賀休光の子。享年60。
 
3代 蜂須賀 休尉【1834~?】
 1871年藩士となりました。
 

(4) 蜂須賀信濃家 4000石

蜂須賀 喜翰(よしもと)【1759~1819】
 蜂須賀重喜の二男で、母は立花貞俶の娘。享年61。
 
初代 蜂須賀 喜周(よしちか)【1783~1849】
 蜂須賀喜翰の子。1802年に家老職。享年67。
 
2代 蜂須賀 喜其【?~?】
 天保年間(1830~43)に相続。家老職。
 
3代 蜂須賀 喜文【1801~1862】
 斉裕の代に相続。家老職。
 
4代 蜂須賀 喜心【?~?】
 1862年に相続。家老職。1869年に執政になりました。
 

(5) 立花内記家 400石

蜂須賀 喜和(よしまさ)【1760~1807】
 蜂須賀重喜の三男で、母は立花貞俶の娘。享年48。
 
初代 立花 信近【1802~1842】
 蜂須賀喜和の子。藩士となりました。享年41。立花は祖母の実家の姓。
 
2代 立花 和享【?~?】
 1842年相続。1870年庚午事変(稲田騒動)により配流されました。
 

(6) 蜂須賀駿河家 4000石

初代 蜂須賀 喜儀(よしのり)【1754~1806】
 蜂須賀重喜の四男で、母は立花貞俶の娘。1773年(20)に家老職。
 
2代 蜂須賀 喜脩【1787~1828】
 1806年に相続。家老職。享年42。
 
3代 蜂須賀 喜煕【?~?】
 1828年に相続。相続。家老職。
 
4代 蜂須賀 喜永【?~?】
 嘉永年間(1848~53)に相続。家老職。
 

(7) 蜂須賀山城家 1000石

初代 蜂須賀 義功【1760~1807】
 蜂須賀重喜の五男で、母は梁田氏。允功(のぶかつ)。1773年(14)中老格。
 
2代 蜂須賀 喜端【?~1828】
 蜂須賀重喜の十男で、母は三浦氏。允澄(のぶずみ)。1798年 中老。 義功家を相続。1300石。
 
3代 蜂須賀 喜軌【?~?】
 1828年相続。御年寄役。長久館総奉行。
 

(8) 蜂須賀隼人家 1300石

初代 蜂須賀 喜寛【?~1820】
 蜂須賀重喜の六男で、母は曾木氏。允迪(のぶよし)。1773年 中老。
 
2代 蜂須賀 隼人【?~?】
 1820年相続。士組頭。
 

(9)蜂須賀左京家 700石

初代 蜂須賀 昭則【1790~1849】
 蜂須賀重喜の子。1802年(13)中老。享年60。
 
2代 蜂須賀 靱負【?~?】
 蜂須賀斉裕の代に相続。中老寄合席。
 

(10)蜂須賀美作家 600石

初代 蜂須賀 昭義【1794~1861】
 蜂須賀重喜の子。1802年(9)中老。享年68。
 
2代 蜂須賀 昭資【?~?】
 嘉永年間(1848~1853)に相続。銃士隊長になり東征軍に従いました。
 

(11) 蜂須賀伊豆家 1300石

初代 蜂須賀 昭栄【1796~1839】
 蜂須賀重喜の十六男。1801年(6)中老。享年44。
 
2代 蜂須賀 伊豆【?~?】
 1839年相続。士組頭。
 

(12) 公族(治昭の子孫)

初代 蜂須賀 昭順【1797~1866】
 蜂須賀治昭の子。享年70。
 
2代 蜂須賀 昭徳【1826~1865】
 蜂須賀昭順の子。享年40。
 
3代 蜂須賀 昭融【1837~?】
 1871年藩士となりました。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 徳島藩士譜 中巻・下巻(宮本武史編・非売品:東京都立図書館蔵書)
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 
 10364_1_高松城跡松平大膳家中屋敷跡.pdf
  
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。