探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本 阿部氏~阿部豊後守家の分家~

こんにちは、勘矢です。
今回は前回(阿部豊後守家~忍藩・白河藩・棚倉藩~ - 探検!日本の歴史)の阿部豊後守から分かれた旗本 阿部氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 阿部豊後守の分家旗本 阿部氏

 武蔵岩槻藩主 阿部正能が1677年に隠居したときに、二男正明、三男正房、四男正員に分知が行われ分家しました。
 正明からはじまる阿部大学家は、五千石を分知されて旗本となり、その後千石を加増されて六千石となりました。六代 正信は駿河国の歴史・地理・産業・民俗を調査し、1843年に「駿国雑誌」全50巻を完成させました。
 正房からはじまる阿部主殿家は、三千石を分知されて旗本となりました。幕末の正蔵は江戸北町奉行となり、その子正外は神奈川奉行外国奉行、江戸北町奉行などをつとめたのち、本家の陸奥白河藩を相続することになりました。
 正員からはじまる阿部伊織家は、二千石を分知されて旗本となりました。
 正能の長男正武の三男正晴からはじまる阿部帯刀家は、武蔵国内で新墾田五千石を分け与えられましたが、子の正允が本家岩槻藩の養子となったため、絶家となりました。
 

f:id:SGM335:20210724095704p:plain

旗本阿部氏(忠吉系)略系図
 
 

2. 旗本阿部氏当主

(1)旗本:阿部大学家

初代 阿部 正明(まさあきら)【1655~1719】
 阿部正能の二男、母は牧野信成の娘。
 1677年(23)に上総国内で五千石を分け与えられて寄合に列しました。1680年(26)に中奥の御小姓となり、翌年に御小姓組の番頭に移りました。1682年(28)に上野・下野国内で千石を加増されて六千石となりました。1685年(31)に御書院番、1695年(41)に大番頭、1715年(61)に御側となりました。享年65。
 妻は旗本 永井直右の娘。
 
二代 阿部 正府(まさもと)【1697~1749】
 岩槻藩主 阿部正武の四男。
 叔父正明の養子となり、1719年に23歳で家督相続しました。1724年(28)に御使番に列し、火事場見廻を兼ねました。1727年(31)に御小姓組番頭にすすみ、翌年の八代将軍 徳川吉宗の日光社参に扈従しました。1732年(36)に御書院番の番頭に移り、1737年(41)に西ノ丸御側となり、1745年(49)に本丸に勤士しました。享年53。
 妻は旗本 戸田光直の娘。
 
三代 阿部 正韶(まさあき)【1726~1768】
 旗本 阿部正晴の三男。
 叔父正府の養子となり、1749年に24歳で家督相続し、中奥の御小姓に列しました。1762年(37)に辞職しました。享年43。
 妻は紀州徳川家家老 水野忠昭の娘。
 
四代 阿部 正章(まさあきら)【1753~1805】
 阿部正韶の二男。
 1763年(11)に初お目見えし、同年に将軍世子徳川家基の山王社参に小人騎馬をつとめました。1768年に16歳で家督相続しました。1782年(30)に定火消となりました。1784年(32)に預かる官舎で失火があり、一時出仕を止められました。1793年(41)に小普請組支配に転じました。享年53。
 妻は大奥老女 松島の養女。
 
五代 阿部 正行(まさゆき)【?~?】
 阿部正韶の四男。
 兄の養子となり、1805年に家督相続しました。
 
六代 阿部 正信(まさのぶ)【?~?】
 阿部正章の子。通称は大学。
 1815年に叔父正行の養子となり家督相続しました。1817年に駿府加番となりました。在任中から駿河国の歴史・地理・産業・民俗を調査し、1843年に「駿国雑誌」全50巻を完成させました。
 
七代 阿部 正義 【?~?】
 阿部正信の子。通称は健次郎。
 1843年に家督相続しました。寄合。
 
八代 阿部 正順 【?~?】
 阿部正義の子。通称は銓吉郎、式部。
 1856年に家督相続しました。1865年に寄合より御使番となり、1867年に辞職しました。
 
 

(2)旗本:阿部主殿家

初代 阿部 正房(まさふさ)【1658~1728】
 阿部正能の三男、母は牧野信成の娘。
 1677年(20)に上総国内で三千石を分け与えられて寄合に列しました。1687年(30)に御小姓組の番頭となり、1697年(40)に御書院番の番頭に移りました。1722年に65歳で隠居し、隠居料として六百石を賜りました。享年71。
 
二代 阿部 正興(まさおき)【1695~1732】
 阿部正房の二男。
 1707年(13)に西ノ丸の御小姓に列し、蔵米三百俵を賜りました。1712年(18)に蔵米を知行に改められ、三百石を加増され、武蔵国内で六百石を賜りました。1716年(22)に寄合に列しました。
 1722年に28歳で家督相続し、これまでの六百石は父の隠居料となりました。翌年、御使番となり火事場見廻を兼ねました。1724年(30)に御小姓組の番頭に進み、1727年(33)に御書院番の番頭に転じ、翌年の八代将軍徳川吉宗の日光社参に扈従しました。1730年(36)に大番頭にうつりました。享年38。
 
三代 阿部 正儔(まさとも)【1715~1748】
 阿部正興の長男。
 1732年に18歳で家督相続しました。1737年(23)に中奥の御小姓に列し、翌年に御小姓組の番頭に転じました。享年34。
 妻は旗本 渋谷良信の娘。
 
四代 阿部 正元(まさもと)【1734~1766】
 阿部正儔の長男、母は渋谷良信の娘。
 1748年に15歳で家督相続しました。1757年(24)に中奥の御小姓に列しました。享年33。
 妻は上野安中藩主 内藤政里の養女(政里の弟 内藤正則の娘)。
 
五代 阿部 正朗(まさあきら)【1751~?】
 旗本 戸川逵和の三男、母は阿部正興の養女。
 母方の従兄正元の養子となり、1766年に16歳で家督相続しました。1776年(26)に中奥の御小姓に列し、1788年(38)に小普請組支配に移り、1791年(41)に辞職しました。1811年(61)に隠居しました。
 妻は旗本 朽木紀綱の娘。
 
六代 阿部 正良(まさよし)【1774~1818】
 武蔵忍藩主 阿部正敏の三男。通称は兵庫。
 正朗の婿養子となり、1811年に38歳で家督相続しました。1817年に寄合より火事場見廻となり、その後寄合肝煎となりました。享年45。
 妻は阿部正朗の娘。
 
七代 阿部 正蔵(せいぞう)【?~1848】
 阿部正良の子。
 1818年に家督相続しました。1823年に寄合より火事場見廻となり、1829年に寄合肝煎となりました。1837年に甲府勤番頭に移り、1841年に普請奉行となりました。さらに同年大坂町奉行に転じ、1843年に江戸北町町奉行となるもすぐに御小姓組番頭となりました。
 
八代 阿部 正外(まさと)【1828~1887】
 旗本 阿部正蔵の二男。
 1848年に21歳で家督相続しました。1855年(28)に使番より火事場見廻兼帯となり、小普請組支配となりました。1859年(32)に小普請組支配より禁裏付きになりました。翌年、和宮様下向御用掛を仰せ付けられました。
 1861年(34)に神奈川奉行、のちに外国奉行となり、生麦事件の解決につとめました。1863年(36)に江戸北町奉行にすすみましたが、翌年に本家の陸奥白河藩を相続することになったので、町奉行は御役御免となりました。享年60。
 正室は長谷川正直の娘千代(離縁)
 
九代 阿部 正静(まさきよ)【1849~1878】
 阿部正外の長男。
 父が本家の陸奥白河藩を相続することになったので1864年に16歳で家督相続しました。1866年(18)に父が隠居謹慎となったため、本家を相続し、陸奥棚倉に転封となりました。
 正室は須田律次郎の娘 通、継室は陸奥白河藩主 阿部正備の娘 幸(離縁)
 
十代 阿部 邦之助(くにのすけ)【1839~1911】
 阿部正蔵の三男。のちに阿部潜(せん)と名乗る。
 はじめ曾根家に養子に入りましたが、のちに実家の家督を相続しました。1867年(29)に寄合から目付となり、翌年に辞職しました。同年、陸軍御用重立取扱に就任し、沼津兵学校と生育方を統括しました。
 1869年(31)に沼津奉行に任ぜられ、その後、静岡藩少参事に進み、軍事掛を兼任しました。のち沼津を去って広島に赴き、広島藩兵学校設立顧問となりました。享年79。
 
屋敷は千鳥ヶ淵墓苑の西隣付近

f:id:SGM335:20210724100051j:plain

千鳥ヶ淵から皇居方面
 

(3)旗本:阿部伊織家

初代 阿部 正員(まさかず)【1665~1735】
 阿部正能の四男、母は牧野信成の娘。
 1677年(13)に上総国内で二千石を分け与えられて寄合に列しました。1694年(30)に中奥の御小姓に列し、1704年(40)に御小姓組の番頭に進みましたが、1708年(44)に故あって小普請に貶されました。1728年に64歳で隠居しました。享年71。
 妻は日向延岡藩主 有馬康純の娘。
 
二代 阿部 正甫(まさはる)【1702~1754】
 旗本 阿部正房の六男。
 叔父正員の婿養子となり、1728年に27歳で家督相続しました。1731年(30)に御使番に列し、1734年(33)より火事場見廻を兼ねました。翌年に御目付に転じました。1739年(38)に小普請組支配となり、1743年(42)に御小姓組の番頭に進み、1748年(47)に御書院番の番頭に移りました。1752年(51)に越度により小普請に貶され閉門となり、翌年赦されました。享年53。
 妻は阿部正員の娘。
 
三代 阿部 正実(まさざね)【1728~1773】
 旗本 渋谷良信の三男。正実の妹は主殿家の阿部正儔の妻。
 正甫の婿養子となり、1749年(22)に初お目見えし、1754年に27歳で家督相続しました。1763年(36)に御書院番の番士に列しました。享年46。
 妻は阿部正甫の娘。
 
四代 阿部 正恭(まさゆき)【1744~1779】
 阿部正甫の三男。
 義兄正実の養子となり、1773年に30歳で家督相続しました。1775年(32)に御書院番に列しました。享年36。
 
五代 阿部 正包(まさかね)【1761~?】
 越前鯖江藩主 間部詮方の九男。
 正恭の婿養子となり、1779年に19歳で家督相続しました。1785年(25)に西ノ丸の御小姓組に列し、翌年本丸に移りました。1790年に30歳で隠居しました。
 妻は阿部正恭の養女(阿部正実の娘)。
 
 武蔵忍藩主阿部正喬の養女は、徳川家宣・家継親子に仕えた間部詮房の養子詮言に嫁ぎました。その娘婿には詮房の甥詮方がなりました。その詮方の子が正包で、遠縁の阿部家に婿養子に入りました。

f:id:SGM335:20210724100233p:plain

阿部家と間部家の婚姻関係図
 
六代 阿部 正永(まさなが)【1776~?】
 阿部正包の長男。通称伊織。
 1790年に15歳で家督相続しました。1821年(46)に御小姓組より御使番となりました。1823年(48)に日光山参詣往復目付、1826年(51)に 大坂目付代となり、その後寄合となりました。1828年(53)に御徒頭となり、1834年(59)に辞職しました。
 
七代 阿部 正理(せいり)【?~?】
 阿部正永の子。通称数馬。1849年に御小姓組から御使番となり、1856年に辞職しました。
 
 

(4)旗本:阿部帯刀家

初代 阿部 正晴(まさはる)【1704~1730】
 阿部正武の三男、母は林氏。
 1704年(1)に父の遺領の内武蔵国内で新墾田五千石を分け与えられ、寄合に列しました。1716年(13)に中奥の御小姓となりました。享年27。
 妻は美濃苗木藩主 遠山友春の娘。
 
二代 阿部 正允(まさちか)【1715~1779】
 阿部正晴の長男、母は遠山友春の娘。
 1730年に16歳で家督相続しました。1733年(19)に伯父正喬の養子となったため、采地は収められました。享年65。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 家紋・旗本八万騎 高橋賢一著(秋田書店
 明治維新人名辞典(吉川弘文館
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 日本人名大辞典(講談社
 旗本御家人Ⅱ 幕臣たちの実像(独立行政法人 国立公文書館
 寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻(東洋書林
 切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩(人文社)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。