探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

旗本 梶川一族

こんにちは、勘矢です。
今回は赤穂事件で、浅野内匠頭吉良上野介に斬りかかったとき、浅野内匠頭を押さえつけた梶川与惣兵衛の一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 梶川氏とは

<1>梶川氏は、寛政重修諸家譜によれば平氏 清盛流 織田支流となっています。戦国時代の梶川高秀は尾張国織田信秀に仕え、その子高盛と弟の一秀は織田信長に仕えました。末弟の秀盛は信長の二男信雄に仕えのちに池田輝政に従って朝鮮の役で渡海し戦死しました。
 1595年に一秀の子秀利、分勝兄弟は徳川家康に召されて仕えました。秀利は2年後に亡くなり、分勝の流れが残りました。下総国五百石、のちに近江国で五百石を加増されて千石を知行しました。
 分好の弟勝重は五百石を分けられましたが三代で断絶しました。分好はのちに二百石を加増されて七百石となりました。また、分好のもう一人の弟重昌は新たに三百俵を与えられて分家しました。
 1701年に江戸城松の廊下で浅野内匠頭による刃傷があったとき、そばに居合わせてこれを抱きとめたのが、梶川与惣兵衛頼照です。吉良上野介は浅手で、それ以上の狼藉にならなかったというので、後日、恩賞として五百石が加増され、以後千二百石となりました。しかし、浅野家に同情する世間からは冷たく見られました。
 
また、この梶川家とのつながりは不明ですが、ほかに2つの梶川家があります。
 
<2>織田支族とされる四百石の梶川家は、梶川忠助が徳川家康に仕えたことからはじまります。
 
<3>もとは紀氏でのちに平氏を称する二百石の梶川家で、徳川家光の長女千代姫(尾張藩徳川光友室)の侍をつとめた梶川正之からはじまります。
 
 

2. 梶川一族<1>

(1)旗本:梶川半左衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 梶川 分勝(わけかつ)【1567~1613】
 梶川一秀の二男、母は葉城氏の娘。
 1595年(29)に徳川家康に兄と共に仕え、下総国葛飾郡で采地五百石を賜り、のちに近江国内で五百石を加えられ千石を知行しました。関ヶ原の戦いにも供奉しました。享年47。
 妻は松平河内守家臣村瀬佐渡守の娘。
 
二代 梶川 分好(わけよし)【?~1642】
 梶川分勝の長男、母は村瀬佐渡守娘。
 1609年より徳川秀忠に仕えて御小姓組に列し、1613年に相続しました。五百石を知行し、近江国内の五百石を弟の勝重に分け与えました。大坂の両陣に供奉しました。1616年徳川家光に附属となりました。1633年に下野国内で二百石を賜り、合わせて七百石となり、のちに下総国葛飾郡に移されました。
 妻は内藤甚五左衛門の娘。
 
 千葉県市川市の唱行寺に葬られました。
 唱行寺と梶川氏について、こちらの記事が詳しいと思います。
 
三代 梶川 分重(わけしげ)【1621~1664】
 梶川分好の長男、母は内藤甚五左衛門の娘。
 1642年(22)に御小姓組に列し、同年に相続しました。享年44。
 妻は旗本 土岐頼泰の娘。妻とは25歳ぐらい年が離れていたようです。
 
四代 梶川 頼照(よりてる)【1647~1723】
 旗本 土岐頼泰の二男、母は山岡景重の娘。通称与惣兵衛。
 1663年(17)に御書院番に列し、その後、姉が嫁いだ梶川分重の養子となり、1664に18歳で相続しました。1696年(50)に本所奉行をつとめました。翌年、御腰物奉行の頭に転じました。1700年(54)に御留守居番に移り、翌年、浅野内匠頭が殿中にて吉良上野介を斬りつけた現場に居合わせて、内匠頭を抱きとめました。その後、武蔵国足立郡にて五百石を加えられて千二百石を知行しました。1707年(61)に西の丸御持筒の頭に進み、1711年(65)に御槍奉行となりました。1720年(74)に隠居しました。このとき養老の料として廩米三百俵を賜りました。享年77。
 妻は旗本 塙直貞の娘。
 
五代 梶川 秀進(ひですみ)【1670~1747】
 梶川頼照の長男、母は塙直貞の娘。
 1693年(24)に御小姓組に列し、1720年に51歳で相続しました。翌年、越後村上城を内藤弌信が賜るとき、戸川安村とともに城引渡の役をつとめました。1721年(53)御徒の頭に転じ、1724年に55歳で隠居しました。享年78。
 妻は高家 土岐頼元の娘、後妻は旗本 犬塚良重の娘。土岐頼元の娘の祖父と秀進の父頼照が"はとこ"の関係です。
 

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梶川氏と土岐氏の関係図
 
六代 梶川 秀照(ひでてる)【1694~1749】
 梶川秀進の長男、母は犬塚良重の娘。
 1724年に31歳で相続しました。1729年(36)に御書院の番士となりました。享年56。
 妻は旗本 荒木政羽の娘。
 
七代 梶川 上秀(たかひで)【1717~1764】
 旗本 荒木政羽の三男。先代秀照妻の弟。
 1750年に34歳で相続しました。1751年(35)に御書院番に列しました。享年48。
 妻は旗本 本多成興の娘、後妻は旗本 大久保忠恒の娘。
 
本多家についてはこちらをご覧ください。
 
八代 梶川 秀茂(ひでしげ)【1748~1791】
 梶川上秀の長男、母は大久保忠恒の娘。
 1764年に17歳で相続しました。1771年(24)に御小姓組の番士となりました。1776年(29)に徳川家治の日光社参に供奉しました。享年44。
 妻は旗本 船越景貞の娘。
 
九代 梶川 頼紀(よりとし)【1769~?】
 梶川秀茂の長男、母は船越景貞の娘。
 1791年に23歳で相続しました。1795年(27)に御小姓組に列し、翌年、若君(家慶)の附属となり、西の丸に勤士しました。
 妻は旗本 伏屋為将の娘。
 

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梶川氏略系図<1>
 
 

(2)旗本:梶川平七郎家

(寛政年間までの当主)
初代 梶川 勝重(かつしげ)【1599~1625】
 梶川分勝の二男、母は村瀬佐渡守の娘。
 1613年(15)に父の遺領のうち、近江国内の五百石を分け与えられました。大坂の両陣に供奉しました。享年27。
 
二代 梶川 重良(しげよし)【?~1642】
 梶川分勝の四男、母は村瀬佐渡守の娘。
 1625年に相続しました。翌々年より御小姓組をつとめました。
 
三代 梶川 三之助【?~?】
 梶川重良の長男。
 1642年に相続しました。某年に没し、嗣子なきにより家は絶えました 。
 
 

(3)旗本:梶川庄左衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 梶川 重昌(しげまさ)【1603~1660】
 梶川分勝の三男、母は村瀬佐渡守の娘。
 1616年(14)から徳川家光に仕えましたが、のちに御勘気をこうむり、その後赦免されました。
 1638年(36)に御書院番に列し廩米三百俵を賜りました。1643年(41)に徳川家綱に附属され、三の丸に移り、1648年(46)に三の丸の御膳奉行に転じ、翌々年三の丸の御小納戸に移り、その後、西の丸、本丸のつとめとなりました。1652年(50)に廩米を加えられ、四百俵となりました。享年58。
 
二代 梶川 重時(しげとき)【1657~1715】
 梶川重昌の長男。
 1660年にわずか4歳で相続しました。1682年(26)に御書院番に列し、1687年(31)に桐間番にうつり、1695年(39)に御書院番に復し、翌年に辞しました。享年59。
 妻は旗本 飯河方信の娘、後妻は旗本 野呂矩景の娘。
 
三代 梶川 重之(しげゆき)【1699~1724】
 梶川秀進の二男。
 1715に17歳で相続しました。享年26。
 妻は旗本野呂尚景の娘。(先代重時の後妻の姪)
 
四代 梶川 秀澄(ひでずみ)【1713~?】
 旗本 大津勝岑の二男、母は梶川秀進の娘。
 1724年に12歳で相続しました。1742年(30)に御小姓組に列し、1771年(59)に組頭にすすみました。1776年(64)に徳川家治の日光社参に供奉しました。1787年(75)に御先弓の頭に転じ、1796年(84)に若君(家慶)の附属となって西の丸にうつり、翌々年に御槍の奉行になりました。
 妻は本多伯耆守家臣松本重義の娘。
 
梶川 祺燀(てるおき)【?~?】
 梶川秀澄の長男。
 1763年に西の丸御書院番に列しました。1790年に本丸に勤士し、1796年に若君(家慶)の附属となって西の丸につとめました。
 妻は旗本 図司晃本の娘。
 
梶川 良周(かたちか)【?~?】
 梶川祺燀の長男。
 妻は旗本 武藤安好の娘。
 
 

3. 梶川一族<2>

(1)旗本:梶川長十郎家

(寛政年間までの当主)
初代 梶川 忠助(ただすけ)【?~1642】
 梶川角兵衛の長男。
 1592年に徳川家康に仕え、武蔵国都築郡において采地二百二十石を賜りました。肥前名護屋および関ヶ原の戦い大坂の陣に供奉しました。1632年に小普請奉行となり、1637年に御裏門切手番の頭に転じました。
 
二代 梶川 忠久(ただひさ)【?~1666】
 梶川忠助の長男。
 1618年より徳川秀忠に仕えて大番に列し、のち上総国山辺郡において采地四百石を賜りました。1642年に相続し、先に賜った四百石のうち百八十石を与えられ、残りは収められ、四百石を知行しました。1646年に御金奉行となりました。
 妻は旗本 米倉重種の娘。
 
三代 梶川 忠勝(ただかつ)【1651~1688】
 旗本 神尾元勝の三男。
 1666年に16歳で相続しました。同年に御書院番に列し、1671年に進物のことを役しました。享年38。
 妻は梶川忠助娘。
 
四代 梶川 忠栄(ただかず)【1678~1747】
 旗本 神尾元定の三男、母は朝倉宣季の娘。先代忠勝の甥の子。
 1688年に11歳で相続しました。1695年(18)に桐間番に列し、のちに御小納戸に転じました。
 1701年(24)に小普請に貶され、出仕をはばかりのちに赦されました。
 1704年(27)に御小姓組の番士となりました。1726年(49)に徳川吉宗の小金原の狩りに供奉しました。翌年、日光社参の準備のため日光に行きました。1733年(56)に御先手鉄砲の頭に転じ、翌年に盗賊追捕の役をつとめました。
 1738年(61)に落度があり、拝謁を留められました。1740年(63)に西の丸御持筒の頭にうつり、1746年に御槍奉行となりました。享年70。
 妻は旗本 坂井成吉の娘。
 
五代 梶川 忠灼(ただあきら)【1709~1751】
 梶川忠栄の二男、母は坂井成吉の娘。
 1747年に39歳で相続しました。享年43。
 妻は旗本 松平(桜井)忠敦の娘。
 
六代 梶川 忠郁(ただもり)【1732~1790】
 梶川忠栄の七男。
 1751年に20歳で相続しました。1754年(23)に西の丸の御小姓組に列しました。1761年(30)に本丸のつとめとなり、翌年に西の丸に復帰しました。1782年に51歳で隠居しました。享年59。
 妻は旗本 太田資弘の娘。(離婚)
 
七代 梶川 忠温(ただよし)【1753~?】
 梶川忠郁の長男。
 1782年に30歳で相続しました。1787年に御書院番に列しました。
 妻は土岐保教の養女(土岐悠山の娘、離婚)。
 
 

(2)分家

梶川 正次(まさつぐ)【?~1638】
 梶川忠助の二男。
 徳川家光に仕えて、のちに御勘気を蒙り、1636年に赦されました。
 
梶川 正俊(まさとし)【?~?】
 梶川正次の長男。
 1638年に相続しました。1655年に御小姓組に列し、1658年に進物のことを役しました。
 1666年、博奕を好み、且不作法の所行あるにより大島に遠流にされ、1673年に赦免されました。
 
梶川 正重(まさしげ)【?~?】
 梶川忠助の三男。
 1626年に徳川家光にはじめて拝謁しました。
 
梶川 忠正(ただまさ)【?~?】
 梶川忠助の四男。
 1640年に大番に列し、翌々年に廩米二百俵を賜りました。1645年に西の丸御納戸の番士に転じ、のちに本丸に勤士しました。
 1666年に罪ありて松平忠晴に召し預けられ、また、子の左門は養子であるのを実子と偽ったことなどで大島に遠流させられました。1673年に赦免されました。
 

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梶川氏略系図<2>
 
 

4. 梶川一族<3>

旗本:梶川庄兵衛家

(寛政年間までの当主)
初代 梶川 正之(まさゆき)【?~?】
 元和年間に御徒に召し加えられ、のちに徳川家光の長女千代姫の侍となりました。
 
二代 梶川 正友(まさとも)【1623~1710】
 梶川正之の長男。
 千代姫の侍をつとめ、1683年(61)に千代姫の広敷の用達となり、百石を加えられ、下野国芳賀郡において二百石を知行しました。1698年に千代姫が逝去すると小普請となり、1699年に77歳で隠居しました。享年88。
 妻は羽田正直の娘。
 
三代 梶川 正照(まさてる)【1664~1739】
 梶川正友の長男、母は羽田正直の娘。
 1699年に36歳で相続しました。1703年(40)に小十人に列し、1707年(44)に組頭に進み、1723年(60)に富士見御宝蔵番の頭に転じました。1735年に72歳で隠居しました。享年76。
 妻は東条氏の娘。
 
梶川 正教(まさのり)【1671~1726】
 梶川正友の二男、母は羽田正直の娘。
 兄正照の養子となり、1709年(39)に大番に列し、1724年(54)より御蔵奉行をつとめました。享年56。
 また、正照の子金十郎を養子に取るも翌々年に没しました。
 
四代 梶川 照村(てるむら)【1707~1775】
 林勝増の子、母は梶川正友の養女。
 1735年に29歳で相続しました。1738年(32)に大番に列し、1762年(56)に組頭進み、1775年(69)に大坂城の守衛にあるときに没しました。享年69。
 妻は梶川正照の娘。
 
五代 梶川 正岑(まさみね)【1730~1777】
 梶川照村の長男、母は梶川正照の娘。
 1752年(23)に大番に列しました。1775年に46歳で相続しました。享年48。
 妻は旗本 大塚時睦の娘。
 
六代 梶川 正盈(まさみつ)【1761~?】
 梶川正岑の長男、母は大塚時睦娘。
 1777年に17歳で相続しました。1782年に大番に列しました。
 妻は旗本 三枝守万の娘。
 

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梶川氏略系図<3>
 
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
※旗本各家の見出しの家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
 家紋・旗本八万騎(秋田書店
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。