探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

旗本 永井氏2~淀藩の分家:永井尚政の子たち~

こんにちは、勘矢です。
今回は淀藩主永井尚政の子からはじまる旗本永井家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 永井尚政の子

 尚政の長男 尚征 【1614~1673】は永井宗家を相続し、尚政の二男 尚保【1619~1673】は1631年に召されて御小姓となり、蔵米千俵を賜わりましたが、病のため職を辞して蔵米は収められました。三男 尚庸 【1631~1677】は大名となり、子孫は美濃加納藩主となりました。
 尚政が隠居するときに四男 直右に七千石(永井左門家)、五男尚春に三千二百八十石余(永井外記家)、六男 尚申に三千石(永井大之丞家)を分知しました。
 永井外記家は、尚春の孫 尚広のときに改易されました。尚春の二男 尚芳は五百石を分知されましたが、子の伝五郎が早世したため絶えました。
 永井大之丞家の三代直丘は弟直令に千石を分知(永井筑前守家)して二千石となりました。
 

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旗本永井氏略系図(淀藩分家)
 

2. 旗本永井一族

(1)旗本:永井左門家

初代 永井 直右(なおすけ)【1634~1702】
 永井尚政の四男。
 1658年(25)に父が隠居するとき、領地の河内国内で七千石を分け与えられ、寄合に列しました。1668年(35)に父が領地にて病にかかったことが伝えられると、御使にされて淀に赴きました。翌年、仰せによって摂津・河内の川々を巡見し、のち普請のことを承ってこの地に赴きました。
 1672年(39)に御書院番番頭となり、1676年(43)に大番頭になりました。1680年(47)に大坂に向かう途中にある番士が狂気したことへの対応が悪く閉門となり、その後小普請に貶されました。享年69。
 妻は旗本 土方雄高の娘(陸奥菊多藩 土方家の分家)。
 
永井 直達(なおたつ)【1674~1702】
 永井直右の二男。父に先立ち没しました。享年29。
 
二代 永井 尚品(なおただ)【1693~1722】
 播磨赤穂藩主 永井直敬の長男。尚品は長男ではあるが嫡出ではなかったので直右の養子に出され、赤穂藩の世継ぎは直敬の嫡出(生母は直右の娘)の二男尚平がなりました。
 大叔父直右の養子となり、1702年にわずか10歳で家督相続しました。1708年(16)に御小姓となり、翌年寄合に列し、1718年(26)に定火消となりました。享年30。
 妻は豊後森藩主 久留島通政の娘。
 
三代 永井 尚経(なおつね)【1713~1730】
 永井尚品の長男、母は久留島通政の娘。
 1722年にわずか10歳で家督相続しました。享年18。
 
四代 永井 直尭(なおたか)【1714~1742】
 永井尚品の二男、母は久留島通政の娘。
 兄の養子となり、1730年に17歳で家督相続しました。享年29。
 妻は河内丹南藩主 高木正陳の娘。
 
五代 永井 尚伴(なおとも)【1716~1796】
 永井尚品の三男。
 兄直尭の養子となり、1742年に27歳で家督相続しました。1750年(35)に定火消となり、1757年(42)に百人組の頭、1764年(49)に西ノ丸の御小姓組番頭になりました。1766年(51)に西ノ丸御書院番頭に移り、1771年(56)に大番頭となり、1789年(74)に辞職し、その後隠居しました。享年81。
 妻は旗本 戸田忠胤の娘(下総佐倉藩 戸田家の分家)。
 
六代 永井 直諒(なおのぶ)【1751~1814】
 永井尚伴の長男、母は戸田忠胤の娘。
 1789年に39歳で家督相続しました。1792年(42)に火事場見廻りをつとめ、翌年寄合肝煎となり、1798年(48)に御小姓組番頭となりました。
 1799年(49)に御書院番頭となり、1803年(53)に大番頭となりました。享年64。
 妻は備中庭瀬藩主 板倉勝興の娘。
 
七代 永井 尚監(なおてる)【1774~?】
 永井直諒の長男、母は板倉勝興の娘。通称修理。
 1814年に41歳で家督相続。
 妻は信濃上田藩主 松平(藤井)忠済の娘。
 
八代 永井 直応 【?~?】
 永井尚監の子。通称左門。
 1827年に寄合より火事場見廻、1829年に火消役、1834年に百人組頭となり、1836年に病のため辞任しました。1845年に隠居しました。 
 妻は大和櫛羅藩主 永井直方の娘。後妻は先妻の姉(はじめ鈴木某に嫁ぎのち直応に嫁ぐ)。
 
九代 永井 直次 【?~?】
 永井直応の子。通称金三郎。
 1845年に家督相続。
 妻は伊勢神戸藩主 本多忠升の娘 源。
 
十代 永井 直剛 【1845~1869】
 永井直次の子。1865年に家督相続し、寄合。通称左門。享年25。
 弟は大和櫛羅藩主の永井直壮と高槻藩主の永井直諒。
 
 国立公文書館デジタルアーカイブにある「知事従弟下大夫永井左門病死二付忌服届」より明治2年に没したことがわかる。この「知事」というのは牛久藩知事 山口弘達である。弘達の母伊勢神戸藩主 本多忠升の娘で、弘達母の姉が直剛の父直次の妻となる。
 

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永井左門直剛関係図
 
 

(2)旗本:永井外記家

(寛政年間までの当主)
初代 永井 尚春(なおはる)【1633~1669】
 永井尚政の五男。
 1658年(26)に父が隠居するとき、領地の山城国内で三千二百八十石余を分け与えられ、寄合に列しました。1661年(29)に御書院組頭となりました。享年37。
 妻は堀公記の娘。
 
二代 永井 直増(なおまさ)【1661~1690】
 永井尚春の長男、母は堀公記の娘。
 1669年にわずか9歳で家督相続し、小普請となりました。このとき、五百石を弟尚芳に分け与えて二千七百八十石余となりました。1681年(21)に御書院番に列し、翌年に御小姓となりました。1684年(24)に務めが疎かであるとして一族の烏山藩主 永井直敬に召し預けられ、翌年赦されて御小姓に復帰するものちに小普請となりました。
 1687年(27)に御書院番に列し、翌年再度御小姓になるも故あって閉門となりました。1689年(29)に再度永井直敬に召し預けられ、烏山にて没しました。享年30。
 妻は旗本 柴田康利の娘。
 
三代 永井 尚広(なおひろ)【?~?】
 永井直増の長男、母は柴田康利の娘。
 1694年に召されて蔵米三百俵を賜り、小普請となりました。1722年に御書院番に列しました。1742年に不行状により改易されました。
 
永井 政命(まさのり)【?~?】
 永井尚広の長男。父に先立ち没しました。尚広の養子となる直三が1730年に初お目見していることから、それ以前に没したものと考えられる。
 
永井 直三(なおみつ)【?~1731】
 旗本 岡部忠顕の二男。尚広の養子となるも、養父に先立ち没しました。
 
永井 尚照(なおてる)【?~?】
 医家 山田正方の三男。1739年に御小姓組に列しました。1742年に父と共に改易されました。
 
 

(3)旗本:永井伝五郎家

(寛政年間までの当主)
初代 永井 尚芳(なおよし)【1662~1689】
 永井尚春の二男、母は堀公記の娘。
 1669年(8)に五百石を分け与えられ、小普請となりました。1681年(20)に御小姓組に列しました。享年28。
 
二代 永井 伝五郎 【1686~1694】
 永井尚芳の長男。1689年にわずか4歳で家督相続しましたが早世しました。享年9。
 
 

(4)旗本:永井大之丞家

(寛政年間までの当主)
初代 永井 尚申(なおのぶ)【1645~1725】
 永井尚政の六男。
 1658年(14)に父が隠居するとき、領地の河内国内で三千石余を分け与えられ、その後中奥で仕え、翌年御小姓となりました。1661年(17)に寄合に列し、1696年に52歳で隠居しました。享年81。
 妻は水戸家家臣 畠山牛菴の娘。
 
二代 永井 直允(なおちか)【1673~1717】
 永井尚申の長男、母は畠山牛菴の娘。
 1696年に24歳で家督相続し、翌年に御使番となりました。1699年(27)に御目付に転じ、1702年(30)に長崎奉行になりました。1709年(37)に辞職しました。享年45。
 妻は旗本 永見重直の娘。
 
三代 永井 直丘(なおたけ)【1693~1762】
 永井直允の長男、母は永見重直の娘。
 1717年に25歳で家督相続し、弟直令に千石を分け与えて二千石となりました。1723年(31)に火事場見廻りをつとめ、1728年(36)に御使番に列しました。1733年(41)に駿府定番となり、翌年辞職しました。享年70。
 妻は旗本 永井尚附の娘。
 
四代 永井 直該(なおかね)【1720~1776】
 永井直丘の長男、母は永井尚附の娘。
 1757年(38)に御小納戸となりました。1762年に43歳で家督相続しました。1766年(47)に御使番となりました。1769年(20)に御先鉄砲頭、翌年に盗賊追捕のことを務めました。1771年(52)に駿府町奉行に転じ、1775年(56)に禁裏附となり、1776年(57)に辞職しました。享年57。
 妻は旗本 酒井忠貫の娘(若狭小浜藩酒井家の分家)。
 
永井 直邦(なおくに)【1745~1774】
 永井直該の長男。父に先立ち没しました。享年30。
 妻は旗本 八木補道の娘。
 
五代 永井 直高(なおたか)【1762~1795】
 永井直邦の長男、母は八木補道の娘。
 1776年に15歳で祖父の跡を相続し、小普請となりました。1788年(27)に西ノ丸の御書院番に列しました。1790年(29)に本丸に移りました。享年34。
 妻は大和新庄藩主 永井直温の娘。
 
六代 永井 直博(なおひろ)【1779~1797】
 永井直高の長男、母は永井直温の娘。
 1795年に17歳で家督相続しました。享年19。
 
七代 永井 直之(なおゆき)【1772~?】
 永井直邦の二男、母は八木補道の娘。
 甥直博の養子となり、1797年に26歳で家督相続ました。
 
(寛政譜以降の当主)
永井 直常 【?~1837】
 通称は大之丞、采女。1817年に書院番より使番となり、1836年に病により辞職し、寄合。
 
永井 兵次郎 【?~?】
 永井直常の養子。家督以前に書院番。1837年に家督相続。
 
永井 禄之助 【?~?】
 美濃加納藩主 永井尚佐の子。永井兵次郎の養子。通称は大之丞とも。
 1848年に家督相続し、小普請となりました。1851年に書院番入、1863年に御使番となりました。1866年に御役御免となり勤仕並寄合。
 
 

(5)旗本:永井筑前守家

(寛政年間までの当主)
初代 永井 直令(なおよし)【1708~1782】
 永井直允の五男。
 1725年(18)に父の遺領から河内国内で千石を分け与えられ、小普請となりました。1737年(30)に御書院番に列し、1755年(48)に御使番となりました。1760年(53)に御目付に転じ、翌年喜連川恵氏が領地にて危篤に陥った際に家督相続の申し渡しのため、下野喜連川に赴きました。
 1765年(58)に小普請奉行に転じ、1768年(61)に御留守居に移り、1781年(74)に御旗奉行となりました。享年75。
 妻は旗本 土屋利起の養女(利起の妹)。
 
二代 永井 直廉(なおかど)【1739~1792】
 永井直令の長男、母は土屋利起の養女。
 1754年(16)に御書院番に列しました。1782年に44歳で家督相続しました。1786年(48)に御使番となり、翌年田沼意次の城地を没収されることにより、久留敬武とともに遠江国相良に赴きました。
 1788年(50)に御目付に転じ、翌年に長崎奉行となり、在職のまま没しました。享年54。
 妻は旗本 島津久芬の娘(日向佐土原藩島津家の分家)。
 
三代 永井 直尭(なおたか)【1766~1835】
 旗本 吉益忠徴の二男、母は大関清長の娘。通称靱負、伊勢守。
 直廉の婿養子となり、1792年に27歳で家督相続し、御書院番に列しました。1795年(30)に御使番となりました。1798年(33)に日光東照宮および御霊屋修復を承ったことにより黄金十枚を賜り、西の丸の御目付となりました。
 1801年(36)に本丸目付となり、1803(38)に陸奥三春藩主 秋田長季の在所へ判元見届け(長季が隠居し、弟孝季が相続)。1804年(39)に不調方があり御役御免、寄合となりました。
 1817年(52)に西ノ丸徒頭、1826年(61)に仙洞附、1834年(69)に小普請奉行となりました。享年70。
 妻は永井直廉の娘。
 
四代 永井 直秀(ちょくしゅう)【?~1854】
 永井伊勢守の子。通称真之丞。
 1836年に西ノ丸書院番より西ノ丸徒頭となりました。1837年に大御所徳川家斉附、1838年に将軍世子家定附目付となりました。1841年に西ノ丸目付、1843年に本丸目付介、1847年に西丸先手鉄砲頭、185年に本丸先手鉄砲頭となりました。
 
五代 永井 直寿
 永井真之丞の子。通称真之丞。
 1860年小姓組より使番、1863年に目付介となり、1864に介は御免となりました。1864年に火事場見廻を兼帯し、
 1865年に十四代将軍徳川家茂の長州征討ための御進発に御供目付介、1867年に火事場見廻兼帯は御免となり、1868年に寄合となりました。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 寛政譜以降 旗本百科事典 第4巻(東洋書林
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 三春藩主秋田氏(三春町歴史民俗資料館)
 国立公文書館デジタルアーカイブ「永井左門直剛本領安堵」「知事従弟下大夫永井左門病死二付忌服届」
 [立博電子紀要]研究紀要16号(2009) 芦餅寺宝泉坊の江戸での柁那場形成と「立山信仰」の展開 (2) 福江 充(富山県[立山博物館])
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。