こんにちは、勘矢です。
1. 旗本斎藤氏とは
江戸時代に旗本となった斎藤氏はいくつかあり、そのひとつが明智光秀の重臣だった斎藤利三の子孫の家です。この斎藤氏は美濃守護代の斎藤氏の一族であるが、斎藤道三が名跡を継いだ斎藤氏とは別系統で、その関係ははっきりとしません。
次兄 三存は長宗我部元親、加藤清正を経て小早川秀秋に仕え、1615年に下総国香取郡で二千石を賜りました。その子三友は、叔母の春日局の円で二千六百石を加増され、その孫の三政のときに近江国で六千石となりました。幕末の三理は外国奉行・大番頭などをつとめました。
利三の七男 七兵衛の孫利春は、1662年に召されて蔵米百俵月俸十口を賜りました。
2. 旗本 斎藤一族
(1)旗本:斎藤伊豆守家
初代 斎藤 利宗(としむね)【1567~1647】
父と共に明智光秀に仕え、1582年(16)の山崎の戦いで敗れる剃髪して立本と称しました。1592年(26)の朝鮮出兵には加藤清正に属して軍功があり、帰国後に還俗ました。清正が熊本を肥後国を与えられると知行五千石となりました。1611年(45)に清正が没すると処士となりました。
1629年(63)に召されて常陸国内で五千石の知行を与えられました。翌年、御持筒頭となり、同心五十人を預けられました。1643年(77)に越後村上藩主 堀直定が無嗣断絶となると、仰せをうけて城請取り役をつとめました。享年81。
妻は加藤肥後守の家臣松下意綱の娘。
斎藤 利言(としのぶ)【1606~1636】
斎藤利宗の長男。父に先立ち没しました。享年31。
斎藤 利正(としまさ)【1616~1640】
斎藤利宗の二男。母は松下意綱の娘。御小姓をつとめましたが、父に先立ち没しました。享年25。
二代 斎藤 利意(としおき)【1625~1684】
家臣 斎藤利明の子、母は斎藤利宗の娘。
妻は内藤庄兵衛の娘。
三代 斎藤 利有(としあり)【1670~1716】
旗本 町野幸宣(幸長)の四男。幸宣は初代利宗の三男。
従兄の利意の養子となり、1684年に15歳で家督相続し、寄合に列しました。1696年(27)に定火消となり、1709年(40)に百人組頭となりました。享年47。
四代 斎藤 利保(としやす)【1700~1773】
尾張藩の家臣 町野幸通(幸政)の子。幸通は先代 利有の弟。
伯父利有の婿養子となり、1716年に17歳で家督相続しました。1725年(26)に定火消となり、1737年(38)に百人組頭となりました。1753年に54歳で隠居しました。享年74。
妻は斎藤利有の娘。
五代 斎藤 利鎮(としふさ)【1725~1786】
斎藤利保の長男。
1753年に29歳で家督相続しました。1779年に55歳で隠居しました。享年62。
妻は旗本 堀田一仲の娘。
六代 斎藤 利兼(としかね)【1746~?】
斎藤利鎮の長男、母は堀田一仲の娘。
妻は旗本 小田切直棊の娘。
七代 斎藤 利恵(とししげ)【1771~1800】
斎藤利恵の長男。
1790年に20歳で家督相続しました。寄合。享年30。
妻は摂津麻田藩主 青木一貫の娘。
青木家についてはこちらもご覧ください。
八代 斎藤 利尹【?~?】
斎藤利恵の養子。健次郎、左近、伊豆守。
九代 斎藤 利時【?~?】
斎藤利尹の子。左近、伊豆守。
1850年に中奥番を命ぜられ、同年、家督相続しました。1851年に中奥小姓、1854年に駿府加番となりました。1864年に御役御免となり、勤仕並寄合となりました。1865年に旗奉行、1865年に小姓組番頭となり、1866年に御役御免となりました。
屋敷は文京区にある印刷博物館あたりにありました。
(2)旗本:斎藤内蔵頭家
初代 斎藤 三存(みつなが)【1570~1625】
二代 斎藤 三友(みつとも)【1614~1654】
斎藤三存の長男。
1625年に12歳で家督相続しました。1630年(17)に中奥の番士となり、翌年より御手水番をつとめました。1634年(21)に武蔵国内で四百石を加増され、1636年(23)に御徒頭になりました。1638年(25)に千石を加増され、御小姓組番頭にすすみ、1639年(26)に千六百石を加増されて合わせて五千石となりました。1649年(36)に京都所司代 板倉重宗への御使をつとめました。享年41。
妻は伊勢津藩 藤堂家の家臣 斎藤左衛門の娘。
三代 斎藤 三賢(かずかた)【1641~1671】
斎藤三友の長男、母は斎藤左衛門の娘。
1654年に14歳で家督相続しました。1659年(19)に御小姓となり、1662年(22)に寄合に列しました。享年31。
妻は伊勢神戸藩主 石川総長の娘。
四代 斎藤 三政(かずまさ)【1661~1725】
宗家の家臣 斎藤氏の子。
1671年に11歳で家督相続し、小普請となりました。1681年(21)に御小姓に列し、1685年(25)に武蔵国内で千石を加増され、合わせて六千石となりました。1689年(29)に故あって逼塞となり、翌年に赦免されて小普請に貶されました。1709年(49)に知行地を近江国内に移されました。 享年65。
妻は備中岡田藩主 伊東長貞の娘。
斎藤 三武(かずたけ)【?~?】
五代 斎藤 三安(かずやす)【1703~1757】
斎藤三政の三男。
1725年に23歳で家督相続し、寄合に列しました。1735年(33)に本所の火事場見廻をつとめました。1739年(37)に定火消、1745年(43)に百人組頭、1752年(50)に御小姓組番頭、 1755年(53)に御書院番番頭となりました。享年55。
妻は旗本 富田知郷の養女(公家 六条有藤の娘)。
六代 斎藤 三益(かずまさ)【1736~1783】
宗家 斎藤利保の二男。
三安の養子となり、1757年に22歳で家督相続しました。1760年(25)に定火消となり、1768年(33)に御小姓組番頭、1771年(36)に御書院番番頭になりました。1776年(41)の十代将軍 徳川家治の日光社参に供奉しました。享年48。
妻は旗本 曾我助有の娘、後妻は旗本 花房職朝の養女(播磨龍野藩主 脇坂安興の娘)。
斎藤 三知(かずとも)【1757~1780】
斎藤利旗の四男。三益の婿養子となるも、父に先立ち没しました。享年24。妻は斎藤三益の娘。
七代 斎藤 三英(かずひで)【1770~1804】
斎藤三益の二男。1783年に14歳で家督相続しました。享年35。
妻は丹波綾部藩主 九鬼隆貞の娘。
八代 斎藤 三宣(かずあきら)【?~?】
斎藤三英の子。久五郎、左門、宮内、内蔵頭。
1804年に家督相続しました。1818年に寄合より深川火事場見廻、1823年に中奥小姓、1836年に西ノ丸の小姓番頭、1837年に本丸の小姓番頭となりました。1842年に西ノ丸の書院番頭となり、1853年に本丸の書院番となりました。1854年に隠居しました。
九代 斎藤 三理(かずみち)【?~?】
斎藤三宣の子。
1862年に外国奉行となり、同年、御小姓組番頭に再任しました。1863年に御書院番の番頭となり、将軍上洛御供を命じられ、その後、大番頭となりました。1864年に勘定奉行となるも1ヶ月ほどで病気により辞職しました。しかし、2か月後に書院番頭、ついで大番頭に再任しました。
1865年に第二次長州征伐の御供に加わりました。1866年に隠居しました。
十代 斎藤 左衛門【?~?】
斎藤三理の子。1866年に家督相続しました。
(3)旗本:斎藤亀之助家
(寛政年間までの当主)
初代 斎藤 利春(としはる)【?~1707】
斎藤利之の二男。
1662年に召されて小十人に列して、月俸十口を賜りました。1664年に蔵米百俵を賜り、のちに小普請となりました。1700年に隠居しました。
妻は旗本 植村則泰の娘。
二代 斎藤 利政(としまさ)【?~1712】
斎藤利春の長男、母は植村則泰の娘。
1700年に家督相続しました。1712年に小十人に列するも、間もなく没しました。。
妻は旗本 伴野貞継の娘。
三代 斎藤 利定(としさだ)【1702~1784】
斎藤利政の長男、母は伴野貞継の娘。
1712年にわずか11歳で家督相続しました。1726年(25)に西ノ丸の小十人に列しました。1766年に65歳で隠居しました。享年83。
四代 斎藤 利寛(としひろ)【1741~1781】
斎藤利定の長男、母は松本氏。
妻は旗本 津田信清の娘。
五代 斎藤 利久(としひさ)【1765~?】
斎藤利寛の長男、母は津田信清の娘。1781年に17歳で家督相続しました。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
寛政譜以降 旗本百科事典 第3巻(東洋書林)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。