探検!日本の歴史

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旗本 山口氏 宗家~幕末の外国奉行 山口駿河守直毅の一族~

こんにちは、勘矢です。
今回は前回(旗本 山口氏~幕末四賢候 伊達宗城の実家の一族~ - 探検!日本の歴史)に引き続き、旗本 山口氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 旗本 山口氏

 山口氏は清和源氏頼季流の丹波赤井氏の一族で、赤井時家の四男 直之が信濃国山口を領したことから山口氏を称したといいます。
 1585年に直之の子 直友が徳川家康に仕え、徳川家が関東に移ると下総国内で三百石を与えられました。その後、大和国内で三千石となり、伏見城番をつとめました。
 孫の直房のとき、弟直知に分知をしたため、二千五百石となりました。直知の系統は孫の代で絶家となりました。
 幕末の直毅は御目付や神奈川奉行外国奉行をつとめ、幕府終焉まで活躍しました。
 

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旗本山口氏の略系図
 
 

2. 旗本 山口氏一族

(1)旗本:山口勝之助家

初代 山口 直友(なおとも)【1544~1622】
 山口直之の長男。
 1585年(42)に徳川家康に仕えて、松平(竹谷)清宗配下となり駿河国興国寺城を守りました。
 1591年(48)に下総国内において三百石を賜りました。1595年(52)より御近習に列し、1598年(55)に上総国内で二百三十石余を加えられました。
 1599年(56)に薩摩の島津家家臣 伊集院忠真の叛乱が起きると、両者の和睦を整えました。翌年の関ヶ原の戦いに供奉し、戦いの後、徳川家と島津家の戦後処理を担当しました。直友の弟 直行は、島津家の家来となりました。
 1601年(58)に大和国内で三千石を与えられ奏者番となり、丹波郡代も兼ねました。1603年(60)に伏見城番をつとめました。
 1610年(67)琉球国の中山王来日の際に案内役をつとめました。1614年(71)にキリシタン禁制のために長崎に向かいました。大坂冬の陣が起こると参陣し、翌年の大坂夏の陣にも参陣しました。
 徳川家康の死後剃髪し、1620年(77)に伏見定番となり、町奉行も兼ねました。享年79。
 妻は某氏の娘、後妻は近江膳所藩主 戸田一西の娘。先妻の某氏の娘について、池波正太郎の小説「黒幕」では、徳川家康の侍臣 石川内記の三女 於佐以とされている。
 
二代 山口 直堅(なおかた)【1605~1662】
 山口直友の長男、母は某氏の娘。直友62歳のときの子。
 1622年に18歳で相続し、伏見定番となり、町奉行も兼ねました。
 1625年(21)伏見城が廃城となり淀城への移築が終わると、江戸に移って寄合に列しました。1641年(37)に甲府城番をつとめ、1647年(43)に深川の舟改番をつとめました。享年58。
 妻は旗本 島田利正の養女(利正の兄春世の娘)。
 
三代 山口 直房(なおふさ)【1632~1669】
 山口直堅の二男、母は島田利正の養女。
 1654年(23)に御小姓組に列しました。1662年に31歳で相続し、二千五百石余を知行し、弟 直知に五百石を分け与えました。享年38。
 妻は丹後峯山藩主 京極高通の養女(旗本 溝口宣知の娘、宣知の妻は京極高通の娘なので高通の外孫)。
 
四代 山口 直之(なおゆき)【1662~1711】
 山口直房の長男、母は京極高通の養女。
 1669年にわずか8歳で相続しました。1681年(20)に御小姓組に列し、1692年(31)に御徒頭に進みました。1696年(35)に下田奉行となり、1706年(45)に辞職し、寄合に列しました。享年50。
 
五代 山口 直意(なおもと)【1695~1756】
 山口直之の四男。
 1711年に17歳で相続しました。1719年(25)に御小姓組に列し1724年(30)から二ノ丸につとめました。翌年、西ノ丸の御書院番となり、1745年(51)に御使番に転じました。1746年(52)神保長勝、細井勝尚とともに陸奥国及び松前を巡見しました。1756年(62)に新番頭となりました。享年62。
 妻は旗本 高木守興の娘(婚約)。
 
山口 直成(なおしげ)【1727~1752】
 旗本 建部広充の三男、母は山口直之の娘。
 伯父直意の養子となるも先立って没しました。享年26。
 
六代 山口 直良(なおよし)【1743~1806】
 山口直意の二男。
 1756年に14歳で相続しました。1766年(24)に中奥の番士に列し、1776年(34)に十代将軍徳川家治の日光社参に供奉しました。
 1778年(36)に西ノ丸の御徒頭に転じ、1785年(43)に新番頭にすすみました。1791年(49)に上総飯野藩主 保科正率が大坂定番となるとき、厳命を伝えました。1793年(51)に小普請組支配に転じました。
 1800年(58)に小姓組番頭となり。1803年(61)に西ノ丸書院番頭となりました。1806年(64)に病のため辞職して寄合となりました。享年64。
 妻は旗本 小笠原信喜の娘。
 
七代 山口 直温(なおつぐ)【?~?】
 山口直良の長男。勝之助、勘兵衛。
 1802年に中奥番となり、1806年に相続しました。1811年に使番となり、1816年に駿府目付を命ぜられました。1820年に火災巡視を兼ねました。1825年に病により辞職しました。
 妻は旗本 小田切直年の娘。
 
八代 山口 直養(なおやす)【?~1858】
 山口直温の子。勝蔵、勝之助、勘兵衛。
 1823年に初御目見し、1827年に相続しました。1835年に西ノ丸書院番より使番となり、1838年に火事場見廻りを兼ねました。
 1842年に駿府地震修復の御用を命ぜられました。1845年に新番頭となりました。
 
九代 山口 直毅【1830~1895】
 旗本 林元賓の五男。五郎次郎、勘兵衛、信濃守、駿河守、泉處。
 1853年(24)に昌平坂学問所で成績が優秀であったので銀錠を受けました。1857年(28)に幕府の甲府微典館に学頭として赴きました。同年、山口直養の婿養子となりました。1858年(29)に学問所教授方出役となり、小姓組に入りました。その後、十三代将軍 徳川家定にお目見えを許され、同年に相続しました。
 1860年(31)に使番、のちに御目付となりました。1861年(32)の春に箱館表へ御用のため派遣されました。翌年の夏に戻ってお目見えをしました。
 1863年(34)3月に講武所奉行並・騎兵奉行を兼ね、5月に神奈川奉行となり、老中小笠原長行の卒兵上京に参加し、翌月に御役御免となって寄合となりました。7月に目付に再度なり、作事奉行格となるもののすぐに御役御免となりました。
 1864年(35)に作事奉行格目付となりました。また、長州表へ老中 松前伊豆守に付き添いをしました。1865年(36)に外国奉行となり、その後、大坂にて兵庫開港問題に関わりました。その後、南町奉行も兼任しました。1866年(37)に歩兵奉行、騎兵奉行、陸軍奉行並となりました。
 1867年(38)に外国奉行を兼ね、さらに外国総奉行並となりました。1868年(39)に外国事務総裁、会計総裁となりましたが、幕府終焉で御役御免となりました。
 明治維新後は直亮と名乗り、神祇局に出仕しました。享年66。
 妻は山口直養の娘。
 
山口氏の屋敷は西神田ランプの東側、現在は専大通りとなっているあたりにありました。
 

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堀留橋から東方向
 
 

(2)旗本:山口久太郎家

(寛政年間までの当主)
初代 山口 直知(なおとも)【?~1705】
 山口直堅の四男、母は島田利正の養女。
 1654年に召されて御小姓組の番士となり、1662年に兄より大和国内で五百石を分け与えられました。
 
山口 直貞(なおさだ)
 山口直堅の五男。兄直知の養子となるも先に没しました。
 
二代 山口 直教(なおのり)【?~1728】
 山口直堅の六男 山口直宗の子。
 伯父直知の養子となり、1705年に相続しました。
 妻は余語古庵の娘。
 
三代 山口 久太郎【1722~1752】
 山口直教の長男、母は余語古庵の娘。
 1728年にわずか7歳で相続しました。1745年(24)に西ノ丸御小姓組の番士に列しました。1752年(31)に御書院番となるも狂気して自殺し、絶家となりました。享年31。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 /  国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 御旗本物語ー日本史の意外な証言者たちー(谷 有二 著/未来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第4巻、第5巻(東洋書林
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。