探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

播磨林田藩主 建部家

こんにちは、勘矢です。
今回は前々回に書いた有馬氏倫と縁がある建部家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 建部家とは

 播磨林田藩主の建部家は、宇多源氏佐々木氏の末裔といわれ、近江国神崎郡建部(滋賀県八日市市)に居住して建部を称しました。
 戦国時代の建部寿徳が織田信長に仕えて近江国内に領地を与えられ、その後豊臣秀吉につかえて若狭小浜の郡代、摂津尼崎の郡代をつとめた。
 その子光重は関ヶ原の戦いで西軍に属したが、義父の池田輝政の助力があり許されました。
 光重の子政長は大坂の陣で徳川方に属して功をあげて、一万石を与えられて諸侯に列しました。その後、播磨林田(兵庫県姫路市)に移され、廃藩置県まで領地替えもなく続きました。
 
 

2. 歴代藩主一覧

初代 建部 政長(まさなが)【1603~1672】
 建部光重の三男、母は池田輝政の養女。1615年(13歳)に摂津国内で一万石を与えられました。1617年(15歳)播磨林田に転封となりました。1618年(16歳)に明石城の築城に手伝い普請、翌年には安芸広島の福島正則が改易されたときの城請取り役、1640年(38歳)に播磨山崎の池田輝澄が改易されたときの城請取り役を命じられました。1667年に65歳で隠居しました。享年70。正室は武蔵深谷藩主 酒井讃岐守忠勝の娘。
 
二代 建部 政明(まさあき)【1638~1669】
 建部政長の三男、母は酒井忠勝の娘。1667年に30歳で相続しました。享年32。正室は下総関宿藩主 牧野親成の娘。
 
三代 建部 政宇(まさのき)【1647~1715】
 建部政長の五男。兄の養嗣子となり、1670年に24歳で相続しました。翌年に伏見奉行となりました。1708年(62歳)に御所の造営奉行を命ぜられました。1714年(68歳)に寺社奉行となりました。享年69。正室は上野安中藩主 板倉重形の娘。
 
四代 建部 政周(まさちか)【1674~1757】
 建部政宇の二男。はじめ分家の建部光成の養子となり、1698年に25歳で相続しました。1703年(30歳)に兄政辰に代わって宗家の嫡子となったため、旗本建部家は断絶しました。1715年に42歳で林田藩を相続しました。1732年に59歳で隠居しました。享年84。正室は旗本 建部光成の養女(旗本 河野通房の娘)。
 
五代 建部 政民(まさたみ)【1698~1779】
 建部政周の子、母は建部光成の養女。1732年に35歳で相続しました。1762年に65歳で隠居しました。享年82。正室陸奥泉藩主 板倉重同の娘。
 
六代 建部 長教(ながのり)【1724~1764】
 建部政民の嫡男、母は板倉重同の娘。1762年に39歳で相続しました。享年41。正室信濃松本藩主 松平光慈の娘。
 
七代 建部 政賢(まさかた)【1747~1818】
 建部政民の四男、母は板倉重同の娘。兄長教の養嗣子となり、1764年に18歳で相続しました。1812年に66歳で隠居しました。享年72。正室信濃松代藩主 真田信安の娘。
 
八代 建部 政醇(まさあつ)【1795~1875】
 建部政賢の三男、母は真田信安の娘。1812年に18済で相続しました。1849年に55歳で隠居しました。享年81。正室三河吉田藩主 松平信明の娘 庸。
 
九代 建部 政和(まさより)【1833~1863】
 建部政醇の子。1849年に17歳で相続しました。大番頭をつとめました。享年31。正室は上総大多喜藩主 松平正義の娘。継室は丹波福知山藩主 朽木綱張の養女(朽木綱条の娘)ヌイ子。
 
十代 建部 政世(まさよ)【1854~1877】
 建部政醇の子。兄の養嗣子となり、1863年に10歳で相続しました。1868年(15歳)の新政府軍の命により姫路藩追討に出兵しました。翌年版籍奉還して林田藩知事となり、1871年(18歳)に廃藩置県を迎えました。享年24。

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建部氏の略系図
 

3. 建部一族

建部 寿徳(じゅとく)【1536~1607】
 名は高光(たかみつ)。織田信長豊臣秀吉につかえました。享年72。
 
建部 光重(みつしげ)【1578~1610】
 建部寿徳の子。摂津尼崎の郡代。享年33。妻は有馬豊氏の養女(豊氏の兄則氏の娘)。後妻は池田輝政の養女。
 
建部 重友(しげとも)【?~?】
 池田家の家臣となりました。
 
建部 光延(みつのぶ)【1609~1686】
 建部光重の四男、母は池田輝政の養女。1615年(7歳)の大坂の陣のときに人質として二条城に入りました。1624年(16歳)に小姓組に列し、のちに五百石の采地を賜りました。享年78。
 
建部 光成(みつしげ)【1654~1698】
 建部光延の五男。1686年に33歳で相続しました。享年45。妻は旗本 河野通宗の娘。
 
建部 政勝(まさかつ)【?~?】
 建部政長の二男。病のため嗣子とはなりませんでした。
 
建部 政辰(まさとき)【1673~1729】
 建部政宇の長男。病のため廃嫡となりました。享年57。
 
九鬼 隆寛(たかのぶ)【1700~1786】
 建部政周の三男、母は建部光成の養女。丹波綾部藩主 九鬼隆直の養子となりました。享年87。
 
建部 光平(みつひら)【1774~1791】
 建部政賢の長男。嫡子となるも早世しました。享年18。
 
有馬吉政、有馬光隆については、こちらをご覧ください。

御側御用取次 有馬氏倫とその子孫 - 探検!日本の歴史

 
 

4. 建部家の婚姻関係


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建部氏の婚姻関係図
 こちらが建部家の婚姻関係図となります。子女は主な人物のみで、兄弟の順序は順番どおりではありません。
 
 建部光重は、はじめ有馬豊氏の養女を迎えました。豊氏の養女が亡くなったためなのか、後妻には池田輝政の養女を迎えました。豊氏の養女との間に生まれた長男吉政は外祖父の有馬豊氏の許で育てられ、豊氏の子頼次の養子となりました。
 輝政の養女との間には三男政長が生まれ跡継ぎとなりました。二男重友は側室の子であったためか、後妻に迎えた池田家の家臣となりました。
 
 初代建部政長は、武蔵深谷藩主 酒井讃岐守忠勝の娘を正室に迎えました。忠勝は老中をつとめ武蔵川越藩主となり、その後若狭小浜藩主となりました。
 
 二代建部政明は、下総関宿藩主 牧野親成の娘を正室に迎えました。親成はのちに京都所司代をつとめたのちに丹後田辺藩主となりました。
 政明の娘は、親成の養子富成の養女となって、丹波綾部藩主の九鬼隆常に嫁ぎました。
 
 三代建部政宇は、正室は上野安中藩主 板倉重形の娘を正室に迎えました。
 政宇の娘は、御側御用取次の有馬氏倫に嫁ぎました。
 
 四代建部政周は、分家の建部家に養子入りした際に養父光成の養女と結婚しました。光成の養女は、光成の妻の姪にあたります。
 政周の五男隆寛は二代政明の娘が嫁いだ九鬼家に養子に入りました。
 政周の十一男光隆は、有馬氏倫の養子氏久の婿養子なりましたが、のちに故ありて実家に戻りました。
 
 五代建部政民は、祖父政宇の正室の実家板倉家から正室を迎えました。
 政民の一人目の娘は出羽長瀞藩主 米津政崇に嫁ぎましたが離婚し、陸奥三春藩の分家の旗本秋田季通と再婚しましたが、のちに離婚しました。
 二人目の娘は生母の実家板倉家に所縁の旗本板倉勝該に嫁ぎましたが、勝該が江戸城中で熊本藩主の細川宗孝を斬りつける事件を起こしたため、実家に戻りました。
 
 六代建部長教は、信濃松本藩主 松平光慈の娘を正室に迎えました。
 
 七代建部政賢は、信濃松代藩主 真田信安の娘を正室に迎えました。
政賢の娘は、三河田原藩主の三宅康邦に嫁ぎました。
 
 八代建部政醇は、三河吉田藩主 松平信明の娘を正室に迎えました。信明は智恵伊豆こと松平信綱の子孫にあたり、老中をつとめて松平定信と共に寛政の改革を推進し、定信の辞職後も幕政を担いました。
 
 九代建部政和は、上総大多喜藩主 松平正義の娘を正室に迎えました。大多喜藩松平家と吉田藩の松平家は同じ大河内松平家なので同族となります。
 継室には丹波福知山藩主 朽木綱張の養女(朽木綱条の娘)を迎えました。綱張は奏者番をつとめました。朽木家は外様大名であるが譜代の堀田家から養子を迎えていて、準譜代などと分類されることもあります。
 
 歴代藩主の多くは五万石前後の譜代大名から正室を迎えました。板倉家からは2度正室を迎えています。中には幕府の重職に就いた家もありました。例外なのは七代政賢が格上の外様大名の真田家から迎えています。真田家の姫は前夫肥前平戸藩の松浦政が亡くなったための再婚でした。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修所家譜(国立国会図書館デジタルコレクション
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。