探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本 小栗氏(平氏)~正重系と久勝系~

こんにちは、勘矢です。
今回は桓武平氏系の小栗氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 桓武平氏系小栗氏

 桓武平氏系の小栗氏は、常陸国新治郡小栗御厨(茨城県筑西市)が発祥。平安時代末期の重成は源頼朝に仕え、子孫は三河国に移り住んだ。
 
 旗本となった小栗氏は大きく三系統あり、それぞれの関係については不明。今回は正重系と久勝系について書きます。
 ① 小栗正重は徳川家康に仕え、その養子正次は旗本として存続した。
 ②  1568年から徳川家康に仕えた小栗久勝の系統は千二百石を知行した。
 
 

2. 旗本小栗氏(正重系)

(1)旗本:小栗七郎左衛門

(寛政年間までの当主)
初代 小栗 正次(まさつぐ)【1585~1632】
 疋田喜圓斎の二男。
 小栗正重の養子となりました。徳川秀忠に仕えて大番に列しました。1625年(41)に上総国内で二百三十石余の知行地、蔵米五十俵と合わせて二百八十石余の禄となりました。享年48。
 妻は旗本 戸田直良の娘。
 
二代 小栗 正盛(まさもり)【?~1657】
 小栗正次の長男、母は戸田直良の娘。
 1632年に家督相続し、1634年に大番に列しました。
 
三代 小栗 盛次(もりつぐ)【1645~1667】
 旗本 疋田正則の二男。
 正盛の養子となり、1657年に13歳で家督相続し、のちに大番に列しました。享年23。
 
四代 小栗 直正(なおまさ)【1654~1730】
 旗本 戸田直次の二男、母は岩瀬氏次の娘。直次の姉妹は初代正次の妻。
 盛次の婿養子となり、1667年に14歳で家督相続し、小普請となりました。1676年(23)に大番に列し、1695年(42)に御納戸番士となりました。1724年に71歳で隠居しました。享年77。
 妻は小栗盛次の娘。
 

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正重系小栗氏・疋田氏・戸田氏婚姻関係図
 
五代 小栗 直盛(なおもり)【1695~1725】
 小栗直正の長男、母は小栗盛次の娘。
 1724年に30歳で家督相続しました。享年31。
 妻は旗本 安藤國達の娘。
 
六代 小栗 直秀(なおひで)【1711~1783】
 旗本 戸田直昌の二男。直昌は四代直正の弟。
 従兄直盛の婿養子となり、1725年に15歳で家督相続しました。1731年(21)に大番に列し、1748年(38)に大坂の御弓奉行に移り、1772年に62歳で隠居しました。享年73。
 妻は小栗直盛の娘。
 
小栗 直勝(なおかつ)【1732~1752】
 小栗直秀の長男。父に先立ち没しました。享年21。
 
七代 小栗 直綱(なおつな)【1736~1792】
 小栗直秀の二男。
 1772年に37歳で家督相続し、大番となりました。1782年に47歳で隠居しました。享年57。
 妻は旗本 萩原友明の娘。
 
八代 小栗 直政(なおまさ)【1767~?2】
 小栗直綱の長男。
 1782年に16歳で家督相続しました。
 妻は旗本 大岡喜昌の養女(一橋家家臣 佐藤信親の娘)。この大岡氏は大岡越前とは別系。
 

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平氏系 旗本小栗氏(正重系)略系図
 
 

3. 旗本小栗氏(久勝系)

(1)旗本:小栗大学家

(寛政年間までの当主)
初代 小栗 久勝(ひさかつ)【1553~1629】
 1568年(16)に召されて徳川家康に仕えました。遠江駿河国内で二百石を賜り、また百俵を加えられました。その後、奉仕に怠りがあることにより、食禄を収められました。
 1614年(62)の大坂の役に扈従し、凱旋ののち蔵米三百俵を賜り、1616年(64)に上総国内で知行地を賜り、1625年(73)に相模国内で二百石を賜りました。享年77。
 
二代 小栗 久玄(ひさはる)【?~1657】
 小栗久勝の長男。
 1598年より徳川家康に仕え、小十人をつとめて蔵米百俵を賜り、その後百俵を加えられ、後に武蔵国内で知行地に改められました。1629年に家督相続し、七百石を知行しました。1632年に小十人組の番頭に進みました。1633年に甲斐国内で五百石を加増されて千二百石となりました。1647年に辞職して小普請となりました。
 
三代 小栗 久弘(ひさひろ)【1627~1670】
 小栗久玄の長男。
 1657年に31歳で家督相続し、1659年(33)に御小姓組の番士となりました。享年44。
 妻は旗本 諏訪頼長の娘。
 
四代 小栗 久倫(ひさとも)【1653~1734】
 小栗久弘の長男、母は諏訪頼長の娘。
 1670年に18歳で家督相続しました。1698年(46)に御書院番に列し、武蔵・相模国内の知行地を上総国内に移され、1705年(53)に甲斐国内の知行地を上野国内に移されました。1715年(63)に辞職しました。享年82。
 妻は旗本 稲生正盛の娘。
 
五代 小栗 久貞(ひささだ)【1691~1738】
 小栗久倫の長男、母は稲生正盛の娘。
 1734年に44歳で家督相続しました。享年48。
 妻は小栗久之の娘(久之は久貞の叔父)。
 
六代 小栗 久徴(ひさたか)【1724~1758】
 小栗久貞の長男、母は小栗久之の娘。
 1738年に15歳で家督相続し、1747年(24)に御小姓組の番士となり、1751年(28)に御小納戸となり、後に西ノ丸に勤仕しました。享年35。
 妻は旗本 島田正之の娘。
 
七代 小栗 久明(ひさあきら)【1742~?】
 一族小栗弘道の子。祖父久之は三代久弘の子。
 "はとこ"の久徴の養子となり、1758年に17歳で家督相続しました。1763年(22)に御書院番に列し、1776年(35)に十代将軍徳川家治の日光社参に供奉しました。1779年(38)に御使番に転じ、1788年(47)に寄合となり、1789年に48歳で隠居しました。
 妻は旗本 永井尚方の娘(離婚)、後妻は旗本 神尾守邦の娘、後々妻は旗本 酒井忠寄の娘。
 
八代 小栗 久脩(ひさなが)【1772~?】
 小栗久明の長男、母は神尾守邦の娘。
 1789年に18歳で家督相続しました。
 妻は旗本 安部信尹の娘。
 

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平氏系 旗本小栗氏(久勝系)略系図
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻(東洋書林
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 家紋・旗本八万騎 高橋賢一著(秋田書店
 日本名字家系事典(東京堂出版
 続徳川実紀 第2篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。