探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

キリシタン大名 有馬晴信とその子孫

こんにちは、勘矢です。
今回は、前々回に扱った丸岡藩主本多氏のあとに丸岡藩主になった有馬家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 肥前有馬氏

 丸岡藩の有馬家は肥前国高来郡有馬荘(長崎県南島原市)が発祥で、鎌倉時代に経澄が有馬荘の地頭になって有馬氏を称しました。
 戦国時代の晴純は勢力を拡大して全盛期を築きましたが、子の義貞のときに龍造寺氏の侵攻を受けて衰退しました。義貞は子の義純に家督を譲るも2年後に急死し、二男晴信が5歳で家督を相続し、父の後見を受けました。
 晴信はキリスト教に改宗し、1582年に豊後の大友宗麟や叔父大村純忠と共にヨーロッパに遣欧使節団を派遣しました。千々石ミゲルは晴信の従兄弟になります。
 龍造寺氏に苦しめられた晴信は、南九州の一大勢力島津氏と結んで1585年に沖田畷の戦いで龍造寺氏を撃破しました。その後、豊臣秀吉が九州平定に乗り出すと、秀吉に従って島津氏との戦いに参加し、本領肥前日之江 四万石を安堵されました。
 関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して肥後の小西氏を攻め勝利し、本領四万石を安堵されました。
 1609年 長崎にてポルトガル船を撃沈した恩賞に旧領の回復を望み、徳川家康の側近 本多正純の家臣で同じキリシタン岡本大八に賄賂を贈ったが、のちにそれが詐欺であることがわかりました。1612年、駿府において両社が対決したとき長崎奉行暗殺未遂が発覚し、これに弁明できなかったので晴信は除封され、甲斐に配流されました。一方の大八は火刑に処せられました。世に岡本大八事件といわれます。
 その子直純は徳川家康の養女を正室に迎えていたため連座を免れ、晴信の旧領を与えられ、のちに日向延岡(宮崎県延岡市)に転封となりました。
 直純の孫清純は越後糸魚川新潟県糸魚川市)を経て越前丸岡(福井県坂井市)に入りました。以後、廃藩置県まで丸岡藩主をつとめました。
 
以前扱った吹上藩有馬家とは別系統となります。
 
 
 

2. 丸岡藩系有馬家当主一覧

初代 有馬 晴信(はるのぶ)【1567~1612】
 有馬義貞の二男、母は安富得円の娘。1579年(13)にイエズス会宣教師ヴァリニャーノから洗礼を受けました。洗礼名はジョアン=プロタシオ。1585年(19)沖田畷の戦いで龍造寺氏を撃破しました。1587年(21)豊臣秀吉に臣従しました。1600年(34)の関ヶ原の戦いでは徳川方につき、戦後本領四万石を安堵されました。1612年(46)岡本大八事件によって除封となり、甲斐に配流されました。その後自害しました。享年46。正室は山田純規の娘、継室は公家 菊亭晴季の娘。
 
二代 有馬 直純(なおずみ)【1586~1641】
 有馬晴信の嫡男、母は山田純規の娘。幼少時から徳川家康に近侍し、家康の養女を正室に迎えました。1612年(27)に父が岡本大八事件で除封されたあとに家督相続し、肥前日之江を与えられました。1614年(29)に一万三千石を加増され、日向延岡に転封となりました。1632年(47)に肥後熊本藩主 加藤忠広が改易されると城請け取り役を務めました。1638年(53)の島原の乱に参戦し軍功をあげました。享年56。徳川家康の養女(伊勢桑名藩主 本多忠政の娘)国姫(日向御前)。
 
三代 有馬 康純(やすずみ)【1613~1692】
 有馬直純の長男、母は徳川家康の養女国姫。1616年(4)に徳川家康に拝謁し、家康の一字を賜り康純と称しました。1641年に29歳で日向延岡藩を相続しました。このとき、弟純政に三千石分与しました。1679年に67歳で隠居しました。享年80。正室三河吉田藩主 水野忠清の娘、継室は武蔵忍藩主 阿部忠秋の養女(阿部政澄の娘)。
 
四代 有馬 清純(きよずみ)【1644~1702】
 有馬康純の長男、母は阿部忠秋の養女。初名永純。1679年に36歳で日向延岡藩を相続しました。このとき、弟の純息に千八百石、純富に千石をいずれも新墾田を分与しました。1690年(47)に山陰一揆が起こり、政道不行届の廉で老中戸田忠昌邸に蟄居謹慎を命じられました。翌年に城のない越後糸魚川 五万石に転封となりましたが、旅費が賄えず藩士の大半を解雇しました。1695年(52)に越前丸岡に転封となり、再び城持ちになりました。享年59。正室は和泉岸和田藩主 岡部行隆の娘、継室は播磨龍野藩主 脇坂安政の娘。
 
五代 有馬 一準(かずのり)【1697~1757】
 有馬清純の長男、母は側室 皆吉純忠の娘 須賀子。1703年にわずか7歳で越前丸岡藩を相続しました。1733年に37歳で隠居しました。享年61。正室は甲斐谷村藩主 秋元喬知の養女(婚約)、継室は長門萩藩主 毛利吉広の養女(長門府中藩主 毛利匡広の娘)。
 継室の産んだ二男重広は、母の実家毛利家の養子となりました。
 
六代 有馬 孝純(たかずみ)【1715~1757】
 有馬一準の長男、母は側室 山本氏。1733年に19歳で越前丸岡藩を相続しました。享年43。正室は山城淀藩主 稲葉正知の娘 嘉祢子。
 
七代 有馬 允純(まさずみ)【1747~1772】
 有馬孝純の八男、母は稲葉正知の娘。1757年に11歳で越前丸岡藩を相続しました。享年26。正室は伊予今治藩世子 松平定温の娘。
 
八代 有馬 誉純(しげずみ)【1769~1836】
 有馬允純の長男、母は側室 村田氏。1772年にわずか4歳で越前丸岡藩を相続しました。1791年(23)に奏者番寺社奉行を経て1812年(44)に西の丸若年寄に進み、1819年(51)に辞任しました。1830年に62歳で隠居しました。享年68。正室は山城淀藩主 稲葉正弘の娘 鶴子。
 
九代 有馬 徳純(のりずみ)【1804~1837】
 越後高田藩主 榊原政敦の四男。1820年(17)に養嗣子となり、1830年に27歳で越前丸岡藩を相続しました。享年34。正室は有馬誉純の娘 稵子。
 実子 朗次は美作勝山藩主 三浦義次の養子となりました。
 
十代 有馬 温純(はるずみ)【1829~1855】
 有馬誉純の二男戸田純佑の子。有馬家の血を引いていることから養嗣子となり、1838年に10歳で相続しました。享年27。正室伊予今治藩主 松平勝道の養女(松平定芝の娘) 善子、継室は越後高田藩主 榊原政養の娘 冨子、継々室は美濃大垣藩主 戸田氏正の娘 作子。
 父の純佑は、徳純が養嗣子となった後に生まれたため戸田光明の養子となりました。
 
十一代 有馬 道純(みちずみ)【1837~1903】
 播磨山崎藩主 本多忠鄰の二男。1855年に19歳で越前丸岡藩を相続しました。1860年(24)に奏者番寺社奉行を兼任し、1863年(27)に若年寄に進み、外国掛をつとめました。さらに同年老中に就任し、十四代将軍家茂の上洛に随行し、翌年老中を辞任し、京都の諸警備にあたりました。第一次長州征伐、第二次長州征伐に出陣しました。戊辰戦争がはじまるといち早く上洛し、新政府軍に従いました。1869年(33)に丸岡知藩事となり、1871年(35)に廃藩置県を迎えました。享年67。正室は下野宇都宮藩主 戸田忠温の娘 冨子、継室は戸田忠温の娘 敬子(先妻の妹)
 曽祖父の本多忠可は六代孝純の二男で、本多忠堯の婿養子となりました。
 はじめ道純は、温純の娘 淑子の婿に迎えられる予定でしたが、淑子が早世したため婿養子とはなりませんでしたが、養子になる方針は実現しました。
 
 

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肥前系有馬家略系図

 

3. 丸岡藩系有馬一族

(1) 一門

有馬 純貞(すみさだ)
 有馬晴信の二男、母は荒木氏。家臣となりました。
 
本多 純政(すみまさ)【?~1655】
 有馬直純の二男、母は徳川家康の養女国姫。名は元純ともいう。母の実家の苗字本多を称しました。1641年に兄より日向国内で三千石を与えられました。1644年に病により身を引いたため、領知は幕府領となりました。
 
本多 純親(すみちか)
 有馬康純の二男、母は松木氏。祖母の実家の苗字本多を称しました。
 
有馬 純養(すみなり)
 有馬孝純の長男、母は田中氏。庶子のため家を継げず。
 
有馬 純辨(すみたけ)
 有馬孝純の三男、母は田中氏。庶子のため家を継げず。
 
有馬 純峯(すみみね)
 有馬孝純の四男、母は上村氏。庶子のため家を継げず。
 
有馬 純如(すみゆき)
 有馬孝純の五男、母は田中氏。庶子のため家を継げず。
 
皆吉 純計(すみもと)
 有馬孝純の十男、母は上村氏。家臣皆吉氏を相続しました。
 
有馬 純貴(すみたか)
 有馬孝純の十二男。
 
有馬 一純(かずずみ)
 島津重英四男。有馬誉純の嫡男が早世し、二男純佑が生まれる前に婿養子となりました。しかし、病弱のため実家に戻りました。別名は久亮、久昵。正室は有馬誉純の娘 国子。
 
 

(2) 旗本:有馬図書家

(寛政年間までの当主)
初代 有馬 純息(すみやす)【1657~1729】
 有馬康純の四男、母は松木氏。1679年(23)に父の所領日向延岡領のうちにおいて千八百石を賜りました。1691年(35)に兄清純が転封となると采地を廩米に改められました。1697年(41)に廩米を改められ、相模・常陸国内に采地を賜りました。1703年に47歳で隠居しました。享年73。
 
二代 有馬 純度(すみのり)【1682~1731】
 有馬康純の二男 本多純親の四男。1703年に22歳で相続しました。1731年(50)に番士に列しました。享年50。
 
三代 有馬 純経(すみつね)【1715~1745】
 有馬純度の長男。1731年に17歳で相続しました。1745年(31)に御小姓組に列しました。享年31。
 
四代 有馬 純佐(すみすけ)【1730~1764】
 一族 有馬純之の二男。1745年に16歳で相続しました。1758年(29)に西の丸小姓組に列し、のちに本丸に移りました。享年35。妻は旗本 酒井可広の娘。
 
五代 有馬 純長すみなが)【1763~?】
 有馬純佐の長男。1764年にわずか2歳で相続しました。1787年(25)に御書院の番士となりました。妻は旗本 武田信複の娘。
 
 

(3) 旗本:有馬主殿家

(寛政年間までの当主)
初代 有馬 純富(すみとみ)【1666~1726】
 有馬康純の七男、母は伊東氏。1679年(14)に父の所領日向延岡領のうちにおいて千石を賜りました。1691年(26)に兄清純が転封となると采地を廩米に改められ、1697年(32)に廩米を改められ、下野国内に采地を賜りました。御徒の頭、御使番などをつとめました。享年61。妻は旗本 向井正興の娘。
 
二代 有馬 純意(すみもと)【1699~1781】
 有馬純富長男。1726年に28歳で相続しました。1745年(47)に御小姓組、西の丸御留守居などをつとめました。享年83。妻は本家家臣 有馬純英の娘。
 
有馬純務(すみあつ)【1733~1771】
 有馬純意の長男、母は有馬純英の娘。1762年(30)に御小姓組の番士となりました。父に先立ちました。享年39。妻は旗本 土屋亮直の娘、後妻は旗本 山口直救の娘。
 
三代 有馬 純久(すみひさ)【1758~?】
 有馬純務の長男、母は山口直救の娘。1781年に24歳で祖父の跡を相続しました。翌年に御小姓組に列しました。妻は旗本 牧野成久の娘(離婚)、後妻は旗本 榊原長良の娘。
 
 

(4) 旗本:有馬熊五郎

初代 有馬 純珍(すみよし)【1669~1738】
 有馬康純の八男、母は伊東氏。1707年(39)に甥一準より廩米三千俵を与えられ、寄合に列しました。1714年(46)に御使番となり、その後大目付などをつとめました。享年70。
 
二代 有馬 純之(すみゆき)【1701~1762】
 一族 有馬純富の二男。1739年に39歳で相続しました。1756年に56歳で隠居しました。享年62。
 
三代 有馬 純明(すみあきら)【1726~1769】
 有馬純之の長男。1756年に31歳で相続しました。享年44。妻は旗本 大澤信富の娘。
 
四代 有馬 純昌(すみまさ)【1747~?】
 有馬純明の長男、母は大澤信富の娘。1770年に24歳で相続しました。妻は旗本 青山幸亮の娘。
 
五代 有馬 内膳
 1802年に相続しました。
 
六代 有馬 純粋
 1815年に相続しました。
 
七代 有馬 純孝
 1844年に相続しました。
 
八代 有馬 純全
 戸田純佑の子。越前丸岡藩主 有馬誉純の孫。1851年に相続しました。
 
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 日本名字家系事典(東京堂出版
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 戦国武将 データファイル(DeAGOSTINI)
 最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
   越前丸岡城と歴代城主 宮本 久 著(丸岡観光ボランティアガイド協会)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。