こんにちは、勘矢です。
今回は細川ガラシャの子孫について、大名家を中心に調べたことをまとめました。
1. 熊本藩細川家の子孫
長男 忠隆は前田利家の娘 千世を正室に迎えました。1600年に石田三成らが挙兵すると、忠隆の母ガラシャは人質になるのを拒み自決しましたが、千世は逃れました。忠隆は関ヶ原の戦いで戦功をあげるものの、千世の件で勘当され廃嫡となり、京都にて閑居しました。子孫は熊本藩の家臣となりました。
三男忠利以降、光尚、綱利と藩主を継いでいきました。綱利の子吉利は早世したため、直系は途絶えました。嫡子を亡くした綱利は甥の宜紀を養子に迎えました。その子宗孝は、江戸城中で旗本板倉勝該に人違いで斬りつけられて亡くなりました。その弟の重賢は細川家の相続を許されました。重賢の跡は子の治年が継ぎましたが、その子年和は多病により藩主となることはありませんでした。藩主家は分家の斉玆が継いで以降その子孫が続いたので、熊本藩主はガラシャの血筋ではなくなりました。
重賢の弟興彭は家臣の細川刑部家に養子入りするも子はありませんでした。
2. 熊本新田藩細川家の子孫
二代利昌の子正明は、織田一族の旗本津田家の婿養子となりましたが、子の正春は養子を迎えました。
三代利恭の娘は、伊勢長島藩主 増山正贇に嫁いで、正賢をもうけました。正賢のあとは正寧が継ぎ、正寧は婿養子をとりました。
3. 奥平松平家を通した子孫
忠利の娘は陸奥白河藩主 松平(奥平)忠弘に嫁ぎ、その間に生まれた娘は肥前唐津藩主 松平(大給)乗久の子 忠尚を婿養子に取りました。のちに忠尚は新田を与えられて別家(陸奥白河新田藩)しました。その後、陸奥桑折藩に移りました。松平忠尚と忠弘娘の間に生まれた乗良は早世したので、忠尚の甥 忠暁を養子に取りました。
松平忠尚と忠弘娘の間に生まれた娘は陸奥弘前藩主 津軽信寿に嫁ぎました。その孫娘は松平忠暁の子 忠恒に嫁ぎ、以降の藩主は幕末の忠恕までガラシャの血筋でした。また、松平忠福の子は正剛は河内丹南藩の高木家に養子入りしました。
津軽家では信興から信明までがガラシャの血筋を継いでいました。信寿と忠尚娘の間の娘は上総飯野藩主 保科正寿に嫁ぎ、幕末の正益までガラシャの血筋が続きました。正徳の娘の熙姫は、陸奥会津藩主 松平容敬(幕末の京都守護職 松平容保の養父)の養女となり、豊前中津藩主 奥平昌服に嫁ぎましたが離婚しました。
津軽信興の娘は播磨龍野藩主 脇坂安興に嫁ぎ安弘をもうけました。津軽信寧の娘は備後福山藩主 阿部正倫に嫁ぎ、正精以降の当主 正寧、正弘(ペリー来航時の老中)、正教、正方はガラシャの血筋でした。正倫と信寧娘の間に生まれた娘は山城淀藩主 稲葉正備に嫁ぎ正発をもうけました。正精の孫の阿部正耆は陸奥白河藩の阿部家に養子入りしました。
4. 臼杵藩稲葉家を通した子孫
高家畠山家について、こちらをご覧ください。
信通の長女は、越後新発田藩主 溝口宣直に嫁いで娘をもうけ、その娘は近江仁正寺藩主 市橋政信(先述の長璉の4代前)に嫁ぎました。男子 政勝をもうけるも病により嫡子になりませんでした。政勝の姉は旗本の蒔田定次に嫁ぎ、妹は旗本の山崎義方に嫁いで孫の代まではガラシャの血筋を継ぎました。
参考文献:
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
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