探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

上総一宮藩主 加納家

こんにちは、勘矢です。
今回は大河ドラマ「いだてん」初回にワンシーン登場した加納久宜にゆかりの上総一宮藩の加納家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 加納家とは

 松平泰親庶子久親の子孫で、三河国賀茂郡加納村(愛知県豊田市)に居住し松平を称していましたが、六代久直のときに徳川家に仕えて本多重次の配下となり、このときに加納と改めました。
 その子久利は徳川頼宣に附属されて紀州藩士となりました。その子久政も紀州藩に仕えました。
 久通は徳川吉宗に仕え、吉宗が将軍になると幕臣に加えられ、伊勢国内などに二千石を与えられました。また、御側御用取次となり、将軍吉宗の側近として享保の改革に携わりました。その後八千石の加増があり、合わせて一万石となり伊勢八田藩(東阿倉川藩ともいう)を立藩しました。
 三代藩主久周のときに三千石の加増があり合わせて一万三千石となりました。五代藩主久儔のときに上総一宮藩に転封となり、幕末までこの地を治めました。
 最後の藩主久宜は版籍奉還後に一宮藩知事となり、廃藩置県後は文部省に仕官し、学習院創設に兄の立花種恭らと関わりました。その後、新潟学校校長や大審院の検事などをつとめました。その後、子爵となり貴族院議員に選出されました。1894年に鹿児島県知事に就任し、鹿児島県の近代化の基礎を築いたことで高い評価を受けました。その後も日本体育会の会長(現日本体育大学)や東京競馬会初代会長などもつとめ、晩年は千葉県一宮町の町長となりました。
 
 一宮藩の陣屋があった場所は戦国時代には一宮城がありました。標高約30メートルの台地上にある山城でした。小田原征伐で落城し、その後本多家や脇坂家などがこの地を領地の一部にしていました。加納家が伊勢より移ってくると陣屋が築かれましたが、明治維新によって取り壊されました。
 現在は城山公園となっており、この一角に最後の藩主加納久宜墓所があります。

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一宮陣屋大手門跡
 

2. 加納家当主

初代 加納 久通(ひさみち)【1673~1748】
 加納政直の二男。徳川吉宗の将軍就任にすると幕臣となり、御側御用取次役となりました。1726年(54歳)に一万石となって諸侯に列し、伊勢八田藩主となりました。1745年(73歳)に吉宗が将軍職を辞職して西ノ丸に移ると、西ノ丸若年寄となりました。享年76。
 
二代 加納 久堅(ひさかた)【1711~1786】
 加納政信の二男。1739年(29歳)に久通の長男久武が病のため嫡子を辞退したため、久通の養嗣子となりました。1748年に38歳で八田藩を相続しました。若年寄などをつとめました。享年76。正室筑後三池藩主 立花貫長の娘。
 
三代 加納 久周(ひさのり)【1753~1811】
 武蔵岩槻藩大岡忠光の二男。1773年(21歳)に久堅の養嗣子となりました。1786年に34歳で八田藩を相続しました。御側御用取次、若年寄格を歴任し、1797年(45歳)に病のため辞職しました。1800年(47歳)から1807年(54歳)まで伏見奉行をつとめ、1808年に56歳で隠居しました。享年59。正室は加納久堅の養女 禎(三河吉田藩主 松平信礼の娘)
 
四代 加納 久慎(ひさちか)【1776~1821】
 加納久周の嫡男、母は松平信礼の娘 禎。1808年に33歳で八田藩を相続しました。大番頭をつとめました。享年46。大和高取藩主 植村家長の娘 千勢。
 
五代 加納 久儔(ひさとも)【1796~1847】
 加納久慎の嫡男、母は植村家長の娘。1821年に26歳で八田藩を相続しました。1826年(31歳)に陣屋を伊勢から上総一宮に移し一宮藩主となりました。伏見奉行や奏者番などをつとめました。1842年に47歳で隠居しました。享年52。正室は河内丹南藩主 高木正剛の娘。
 
六代 加納 久徴(ひさあきら)【1813~1864】
 加納久儔の嫡男、母は高木正剛の娘。1842年に30歳で一宮藩を相続しました。奏者番若年寄などをつとめました。享年52。正室伊勢亀山藩主 石川総佐の娘菊。
 
七代 加納 久恒(ひさつね)【1846~1867】
 上総久留里藩主 黒田直静の二男。1864年に19歳で一宮藩を相続しました。享年22。正室は加納久徴の養女(加納久儔の娘)欽子。
 
八代 加納 久宜(ひさよし)【1848~1919】
 陸奥下手渡藩一族 立花種道の二男。1867年に20歳で一宮藩を相続しました。1869年に22歳で一宮藩知事となり、1871年(24歳)に廃藩置県を迎えました。享年72。正室は相模荻野山中藩主大久保教義の娘文子。
 
 

3. 加納家一族

加納 久武(ひさたけ)【1705~1751】
 加納久通の長男。1739年(35歳)に病にて嫡子を辞退しました。享年47。正室信濃飯山藩主 本多助芳の娘。
 
加納 久英(ひさふさ)【1706~1732】
 加納久通の二男。享年27。
 
加納 久致(ひさよし)【1754~1772】
 加納久堅の長男。享年19。
 
加納 久成
 上野七日市藩主前田利和の二男。久徴の婿養子となりました。正室は加納久徴の養女(加納久儔の娘)欽子。欽子はのちに久恒と再婚しました。
 

4. 加納家の婚姻関係

 

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加納家の婚姻関係略図

 
(1) 分家からの養子ー久通と久堅ー
 加納家の分家に生まれた久通は、本家当主で大伯父にあたる久政の養子となりました。
 久通の子久武が廃嫡されると甥の久堅が養子に迎えられました。
 
(2) 加納家と大岡家ー久周の養子縁組ー
 久周は将軍家重の側用人大岡忠光の子として生まれ、加納久堅の子久致が没したため、婿養子となりました。加納家と大岡家は江戸の初期頃に加納久利の娘が大岡忠吉に嫁いだ縁があります。また、加納家と大岡家は共に将軍家の側近をつとめたことも養子縁組をした理由かもしれません。
 
大岡家については以前書きましたので、よろしければこちらもご覧ください。
 
(3)加納家と前田家ー久成の養子縁組ー
 久徴には子がなく、久徴の妹が嫁いだ大久保家を通じた縁の前田家から養子を迎えたのが久成です。久徴の妹は相模荻野山中藩の大久保教義に嫁ぎ、その祖父教翅の正室が上野七日市藩の前田家(加賀前田家の分家)で、その正室の従兄弟の子が久成となります。久徴の末の妹を養女としてその婿として迎えられました。久徴の末の妹は婿との年齢が近く、久徴とは親子ぐらいの年齢差があったのではないかと考えられます。
 
(4)加納家と黒田家ー久恒の養子縁組ー
 久恒の実家の上総久留里藩の黒田家は、福岡藩の黒田家(黒田如水の子孫)とは関係がありません。三代久周の正室の姉妹が久留里藩の黒田直英に嫁ぎ、直英の甥の子が久恒になります。久成が亡くなった後に婿養子に入りました。
 
(5)加納家と立花家ー久宜の養子縁組ー
 陸奥下手渡藩 立花家と加納家とは、立花貫長(この頃は筑後三池藩)の娘が加納久堅の正室となった縁があります。久堅正室の甥の孫が久宜となります。正室は相模荻野山中藩主 大久保教義の娘で教義の正室が加納久儔の娘という縁があります。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 系図纂要 第6冊下 藤原氏(10) (名著出版
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 日本苗字家系大事典(東京堂出版
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 平成新修旧華族家系大成
 一宮町
 国際人・加納久朗の生涯(鹿島出版会・高崎哲郎 著)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。