こんにちは、勘矢です。
1. 田村氏とは
孫の清顕のとき、娘の愛姫を伊達政宗に嫁がせて、伊達氏との関係をふかめ、勢力をのばしました。しかし、清顕が没すると家督相続を巡って騒動が起こり分裂しました。そして、伊達政宗の調停により清顕の甥宗顕が跡を相続するも、豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため所領を没収されました。
伊達政宗の孫の宗良が、祖母愛姫の遺言によって田村家を再興し、のちに陸奥岩沼三万石を分知されて仙台藩の支藩として立藩しました。建顕のときに陸奥一関に転封しました。幕末の邦栄は奥羽越列藩同盟に参加しました。
2. 一関藩主一覧
初代 田村 宗良(むねよし)【1637~1678】
1638年にわずか2歳で伊達家の重臣鈴木家を相続して千五百石を領し、のちに加増され二千石を領しました。1655年(19)に祖母陽徳院(愛姫)の遺言により田村家を再興して、七千石を領しました。
二代 田村 建顕(たけあき)【1656~1708】
田村宗良の二男、母は山口重如の娘。
1678年に23歳で陸奥岩沼藩を相続しました。1682年(27)に陸奥一関に転封となりました。1691年(36)に奥詰となり、翌年奏者番に列しました。1694年(39)に弟顕寛に廩米七百俵を与えました。
赤穂浅野家についてはこちらをご覧ください。
三代 田村 誠顕(のぶあき)【1670~1727】
旗本 田村顕当の五男、母は松平昌吉の娘。実家の田村家も同じく坂上田村麻呂の後裔であるが、別流で医家の系統からの分家であります。
1696年(27)に婿養子となりました。1708年に39歳で陸奥一関藩を相続しました。1716年(47)に院使 日野大納言の馳走役、1723年(54)に院使 坊城大納言の馳走役をつとめました。享年58。
正室は田村建顕の娘 瑞光院、公家 竹内惟庸の娘。
田村 泰顕(やすあき)【1703~1725】
旗本 田村顕普の長男、母は神尾氏。父の顕普は二代建顕の弟。
1716年(14)に誠顕の婿養子となりました。享年23。
正室は田村誠顕の娘 百。
四代 田村 村顕(むらあき)【1707~1755】
正室は田村誠顕の娘 百(元泰顕室)。
五代 田村 村隆(むらたか)【1737~1782】
はじめ、登米館主 伊達村隣の養子となりましたが、村顕に世子がなかったため、1752年(16)に養嗣子となり、1755年に19歳で陸奥一関藩を相続しました。翌年から江戸城常盤橋門番役、神田橋門番役をつとめました。
この頃から冷害などによる凶作が続いて藩財政が窮乏し、家臣は藩政改革を求めて3度にわたって仙台藩に直訴や越訴を行いました。享年46。
正室は伊達村定の娘。
六代 田村 村資(むらすけ)【1763~1808】
登米館主 伊達村良の長男、母は侍妾 加藤氏。先代村隆の甥。
七代 田村 宗顕(むねあき)【1784~1827】
正室は田村村資の娘 かね。
八代 田村 邦顕(くにあき)【1816~1840】
田村宗顕の長男、母は田村村資の娘かね。
九代 田村 邦行(くにみち)【1820~1857】
田村宗顕の二男、母は側室 鈴木氏。
1840年に21歳で陸奥一関藩を相続しました。打ち続く凶作のため藩財政は困窮したので廃校同然だった藩校を再興し、1846年には医学校慎成館を新設し、1856年には洋式兵学の導入につとめ、文武両道を奨励しました。享年38。
十代 田村 通顕(ゆきあき)【1850~1867】
田村邦行の二男、母は側室 岡田氏。
十一代 田村 邦栄(くによし)【1852~1887】
1863年に12歳で陸奥一関藩を相続しました。1868年(17)に奥羽越列藩同盟に参加し、仙台藩が出羽久保田藩討伐に出兵したのに従い横手城を陥しましたが、新政府軍に敗れて帰阪しました。その後、謹慎しましたが、新政府から三千石の没収と蟄居を命ぜられました。翌年、実弟崇顕に家督を譲り、その後赦免されました。
正室は田村顕謨の娘 照子。
十二代 田村 崇顕(たかあき)【1858~1922】
1882年(25)に隠居して、兄に家督を戻しました。享年65。
3. 旗本:田村主馬家
(寛政年間までの当主)
初代 田村 顕寛(あきひろ)【1659~1696】
田村宗良の三男、母は山口重如の娘。
1694年(39)に兄建顕から廩米七百俵を分け与えられ、寄合に列しました。享年38。
二代 田村 顕始(あきはる)【1662~1706】
田村宗良の四男、母は山口重如の娘。
1696年に35歳で相続し、寄合に列しました。1701年に40歳で隠居しました。享年45。
三代 田村 顕普(あきみつ)【1664~1733】
田村宗良の五男、母は山口重如の娘。
1701年に38歳で相続し、寄合に列しました。1725年(62)に御鉄砲の頭となりました。1728年(65)に将軍吉宗の日光社参に従いました。享年70。
四代 田村 村房(むらふさ)【1723~1777】
田村顕普の二男。
1733年に11歳で相続し、寄合に列しました。1745年(23)に御小姓組の番士となりました。享年55。
妻は旗本 設楽貞根の娘。
五代 田村 顕詩(あきのぶ)【1748~1777】
旗本 多羅尾光豊の二男、母は旗本 小堀克敬の娘。
1777年に30歳で相続しました。同年、御書院番に列しました。
妻は旗本 松波隆起の娘。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
修訂版 石川氏 一千年史 角田市史別巻Ⅰ
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。