こんにちは、勘矢です。
今回は保科氏について調べたことをまとめました。
1. 保科氏とは
信濃国高井郡保科(長野県長野市若穂保科)発祥。1487年保科正利は村上顕国に敗れ、高遠へ逃れた。この子孫の正俊は武田信玄・勝頼に仕えた。武田氏滅亡後、子の正直は徳川家康に仕えた。正直の子正光は二代将軍徳川秀忠の末子正之養子とし、出羽山形二十万石を経て1643年に陸奥会津二十三万石となった。正容のときに松平を称し、会津松平家と呼ばれる。
正直の三男正貞ははじめ兄正光の養子となるも、故あって兄のもとを去り、叔父で伊勢桑名藩主 松平(久松)定勝のもとに寄食した。1629年に幕府に仕官することを許され、上総・下総国内で三千石を与えられた。1637年に正之から保科家伝来の品々を譲渡されて保科宗家の家督相続者となった。1648年に加増されて上総飯野藩(千葉県富津市)一万七千石を立藩した。
歴代藩主の多くは大坂加番や大坂定番、日光祭礼奉行を度々つとめた。
会津藩家老の西郷氏は保科氏の支流で、保科正光の従兄弟正近が正之に仕えたことに始まり、代々家老をつとめた。養子に入った近房以降西郷を名乗った。著名なのが幕末の頼母(近悳)で、藩主松平容保の京都守護職就任に反対して家老を解職された。戊辰戦争のさなかに家老に復帰し恭順をとなえたが、主戦論を覆せなかった。維新後は日光東照宮の神職などをつとめた。
2. 信濃高遠藩保科家
保科 正俊(まさとし)【1511~1593】
保科正則の子。
保科 正直(まさなお)【1542~1601】
保科正俊の子。
はじめ武田氏に仕え、のち徳川家康に属した。1585年(44)の真田昌幸が籠る上田城攻め、1590年(49)の小田原攻めに加わりました。徳川家が関東に移ると下総多古で一万石を与えられました。まもなく子の正光に家督を譲りました。享年60。
保科 正光(まさみつ)【1561~1631】
保科正直の長男、母は側室 跡部氏。養母は多劫君。
徳川家康に仕え、1584年(24)の小牧長久手の戦い、1590年(30)小田原攻めに従いました。徳川家が関東に移ると父とともに下総多古に移りました。関ヶ原の戦いのときは遠江浜松城を守備し、その後旧領の信濃高遠に復し、二万五千石となりました。大坂の両陣にも参戦しました。
保科 正之(まさゆき)【1611~1672】
二代将軍徳川秀忠の子、母は神尾栄加娘 お静の方。
3. 上総飯野藩保科家
初代 保科 正貞(まささだ)【1588~1661】
保科正直の三男、母は久松俊勝の娘 多劫姫。
徳川家康・秀忠の命により世子がなかった兄正光の猶子となり、幼少より秀忠に仕えました。1615年(28)の大阪夏の陣に参戦し、重傷を負いながらも軍功をあげました。1617年(30)に兄正光は秀忠の末子幸松の養育を命じられ、のちに正光の遺領を継ぎました。
1622年(35)に故あって兄の許を去り、諸国流浪の末、叔父で伊勢桑名藩主 松平(久松)定勝のもとに寄食しました。定勝や老中酒井忠世を頼って幕府に仕官したい旨を懇願し、1629年(42)に蔵米三千俵を与えられ、のち上総・下総国内で三千石を与えられました。その後、大番頭・大坂城在番をつとめ、1633年(46)に上総・安房・近江国内で四千石を加増されました。
1637年(50)に正之から保科家伝来の感状・朱印状・宝物などを譲渡され、正貞が保科宗家の家督相続人であることを承認されました。1639年(52)に但馬出石藩主 小出吉英の三男正英を養子に迎えました。
1648年(61)に大坂定番となり、摂津国内で一万石を加増されて諸侯に列し、飯野村に陣屋を構えて飯野藩を立藩しました。1660年(73)に老年により辞職しました。享年74。
二代 保科 正景(まさかげ)【1616~1700】
保科正貞の嫡男、母は側室 上原氏。
正景は父正貞が諸国流浪中に行方不明となり、父は小出吉英の三男正英を養子に迎えていました。その後、実家に戻り、1648年(33)に三代将軍徳川家光に拝謁しました。
1661年に46歳で上総飯野藩を相続し、二千石を正英に分知したため、一万五千石を領しました。1665年(50)と1671年(56)に大坂加番、1677年(62)から大坂定番つとめ、五千石を加増されて二万石となりました。1686年に71歳で隠居しました。享年85。
三代 保科 正賢(まさかた)【1665~1714】
保科正景の三男、母は松平忠国の娘。はじめ正祥(まさよし)。
1686年に22歳で上総飯野藩を相続しました。1688年(24)に大坂加番、1690年(26)に奥詰をつとめ、1699年(35)に再度大坂加番をつとめました。享年50。
四代 保科 正殷(まさたか)【1694~1738】
保科正賢の嫡男、母は森長俊の養女。
1715年に22歳で上総飯野藩を相続し、病弱のため1718年に25歳で隠居しました。享年45。
五代 保科 正寿(まさひさ)【1704~1739】
保科正賢の三案、母は側室 高木氏。はじめ正昭(まさあき)。
兄正殷の養子となり、1718年に15歳で上総飯野藩を相続しました。1723年(20)、1728年(25)、1730年(27)に大坂加番をつとめました。1737(34)から大坂定番をつとめ、1739(36)に大坂在勤中に没しました。享年36。
六代 保科 正富(まさとみ)【1732~1797】
保科正寿の二男、母は津軽信寿の娘。
1739年にわずか8歳で上総飯野藩を相続しました。1752年(21)、1762年(31)、1766年(35)に大坂加番をつとめました。1770年に39歳で隠居し、正宜(まさよし)と改名しました。享年66。
七代 保科 正率(まさのり)【1752~1815】
保科正富の嫡男、母は永井直期の娘。
1770年に19歳で上総飯野を相続しました。1771年(20)、1781年(30)、1790年(39)に大坂加番をつとめ、1791年(40)から1801年(50)まで大坂定番をつとめました。1802年に51歳で隠居しました。享年64。
八代 保科 正徳(まさよし)【1775~1844】
保科正率の嫡男、母は黒田長邦の娘。
1802年に28歳で上総飯野を相続しました。1803年(29)に大坂加番をつとめました。1811年(37)幕府の海防政策により所領の一部が移されました。また、相模国沿岸防備にあたる会津藩主松平容衆が幼少のため、正徳が後見役をつとめました。1817年に43歳で隠居しました。享年70。
九代 保科 正丕(まさもと)【1801~1848】
保科正徳の嫡男。
1817年に17歳で上総飯野を相続しました。1823年(23)に大坂加番をつとめ、1845年(45)に領内に異国船見張番所を設けました。翌年、アメリカのビッドルが通商を求めて江戸湾に来航したとき、浦賀奉行の命により浦賀付近に出兵しました。1847年(47)に二度目の大坂加番をつとめました。1848(48)享年48。
十代 保科 正益(まさあり)【1833~1888】
保科正丕の三男。
1848年に16歳で上総飯野を相続しました。1854年(22)のペリー来航時は藩内の異国船見張番所へ兵を出して警備にあたらせました。1856年(24)と1862年(30)に大坂加番、1863年(31)から大坂定番をつとめました。1866年(34)に若年寄に昇進し、第二次長州征伐では石州口の総督として出陣しました。翌年、病気を理由に辞職しました。
1868年(36)に戊辰戦争が起こると、同族の会津藩主松平容保が新政府に徹底抗戦したため、恭順の態度を示すために入洛を請願したが許されず、京都にて謹慎を命じられました。1869年(37)に版籍奉還して飯野藩知事に任じられ、1871年(39)に廃藩置県を迎えました。享年56。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
日本人名大辞典(講談社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。