こんにちは、勘矢です。
今回は前回(美濃加納藩 永井家 - 探検!日本の歴史)の続きで美濃加納藩の分家旗本について調べたことをまとめました。
1. 美濃加納藩の分家旗本
美濃加納藩の藩祖永井尚庸は京都所司代などをつとめ、河内国内に所領を与えられていた。その子直敬は転封を繰り返し、下野烏山藩主時代に弟 尚附に五百俵分け与えて分家させたのが永井主水家。尚附はのちに幕府から五百石を賜ったので、先の五百俵は兄に返還された。
直敬の五男 尚方は新墾田千石を分知されて分家した(永井求馬家)。その子孫が幕末に活躍した尚志である。
2. 旗本永井家
(1)旗本:永井求馬家
初代 永井 尚方(なおかた)【1701~1771】
永井直敬の五男、母は永井直右の娘。
1711年(11)に父の領地から新墾田千石を分け与えられ、寄合に列しました。1745年(45)に御小姓組に列し、1753年(53)に道奉行をつとめました。1756年(56)に宗家が武蔵岩槻から美濃加納に転封となると、尚方の知行地も美濃国内に移されました。1770年(70)に老齢につき番を辞職し、小普請となりました。享年71。
二代 永井 尚恕(なおより)【1731~1793】
永井尚方の長男、母は久留島通貞の娘。
妻は旗本 堀親敷の娘、この堀家は信濃飯田藩堀家の分家。
三代 永井 尚友(なおとも)【1766~?】
永井尚恕の長男、母は堀親敷の娘。
1788年に23歳で家督相続しました。1789年(24)に御小姓に列しました。
妻は備中生坂藩 池田家家臣 浅津能恒の娘。
四代 永井 尚徳(なおのり)【?~1862】
永井尚友の長男、母は浅津能恒の娘。
1804年に家督相続し、1810年に小姓組に入り、1827年に使番となりました。 1842年に駿府町奉行、1843年に堺奉行、1844年に大坂町奉行となりました。1849年に先手弓頭、1858年に西ノ丸留守居となり、1862年に御役御免、勤仕並寄合となりました。
五代 永井 尚志(なおゆき)【1816~1891】
三河奥殿藩主松平(大給)乗尹の二男。
1840年(25)に尚徳の婿養子となり、1847年(32)に部屋住より新規召出となり、小姓組番士として三百俵を賜りました。翌年に進物番となり、1850年(35)に甲府徽典館の学頭に任じられました。1853年(38)に御徒頭に転じ、さらに目付(海防掛)となりました。翌年長崎赴任を命じられ、目付のまま長崎海軍伝習所の監督に任じられました。
1857年(42)に第一期伝習生を率いて観光丸で帰府しました。軍艦教授所の総督になり、その後勘定奉行(勝手掛)、1858年(43)に外国奉行(2000石高)に任じられ、露・英・仏と通商条約を結びました。1859年(44)に軍艦奉行となるも安政の大獄の余波で御役御免となり、御切米三百俵も召上げられ、差控えとなりました。
1862年(47)に再び召し出されると京都町奉行となりました。同年、家督相続しました。1864年(49)に大目付となり、第一次長州戦争の処理にあたり、1865年(50)に辞職して寄合となりました。約半年後に大目付に再任され、第二次長州戦争前に詰問使として広島で長州側との応接にあたりました。
1867年(52)十五代将軍徳川慶喜に抜擢されて、若年寄格(七千石高)に任じられ、さらに若年寄に昇進しました。1868年(53)の鳥羽伏見の戦いに敗北後、紀州経由で帰府し、その後責任を問われて免職、寄合に列し、さらに逼塞となりました。
その後、榎本武揚と共に箱館戦争に参加し、旧幕府軍政権箱館奉行となりました。翌年新政府軍に降伏し、東京で投獄され、1872年(57)に赦免され、開拓使御用掛となり、1875年(60)に元老院権大書記官となるが、翌年に免職、隠退しました。享年76。
妻は永井尚徳の娘、後妻は筧助兵衛の娘。
永井家の菩提寺谷中本行寺。ここに永井尚志の墓がある。
永井 岩之丞(いわのじょう)【1845~1907】
旗本三好長済の子。初名鍵之丞。1865年に尚志の養子となる。
)に司法省に入った。享年63。
妻は元宍戸知藩事 松平頼位の娘 高。1872年に婚姻。
この三好家は以前書いた「旗本三好氏 (2) 旗本:三好吉五郎家(旗本 三好氏 - 探検!日本の歴史)」の子孫。
(2)旗本:永井主水家
(寛政年間までの当主)
初代 永井 尚附(なおます)【1662~1721】
永井尚庸の二男。
1694年(33)に兄直敬より蔵米五百俵を分け与えられ、寄合に列しました。1696年(35)に御小姓組頭となり、翌年武蔵国内で五百石を賜り、先の五百俵は兄直敬に返還されました。1712年(51)に御先鉄砲頭に移りました。享年60。
妻は公家 阿野実藤の娘。
二代 永井 尚尹(なおただ)【1698~1773】
永井尚附の二男。
1721年に24歳で家督相続し、寄合に列しました。1745年(48)に御小姓組となり、1747年(50)に西ノ丸御徒頭に転じました。1751年(54)に御徒頭となり、1761年(64)に御先鉄砲頭に移りました。。享年76。
妻は旗本 米津田賢の娘、この米津家は武蔵久喜藩の分家。
三代 永井 尚喜(なおよし)【1728~?】
永井尚尹の長男、母は米津田賢の娘。
1773年に46歳で家督相続し、小普請となりました。1786年(59)に西ノ丸の御膳奉行に列し、のち本丸に移り、1797年(70)に西ノ丸に戻りました。
妻は旗本 野村勝林の娘。
永井 尚賢(なおかた)【1770~?】
旗本 永井尚恕の二男、母は堀親敷の娘。妻は旗本 中島正勝の養女(正勝の養子になった弟正方の娘)、後妻は旗本 石丸定栄の娘。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
寛政譜以降 旗本百科事典 第4巻(東洋書林)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
永井尚志 高村直助 著(ミネルヴァ書房)
増補改訂版 日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本(中経出版)
日本人名大辞典(講談社)
徳川諸家系譜 第三(続群書類従完成会)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。