探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本 勝家~海舟の一族~

こんにちは、勘矢です。
今回は勝海舟の勝家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 勝家

 勝氏は近江国勝村(滋賀県長浜市)発祥で、天正年間に時直が徳川家に仕えた。御鉄砲玉薬組の同心に加えられ、蔵米四十一俵を与えられた。命雅は御鉄砲玉薬組の同心、支配勘定などを務めたのち、1752年に旗本に取り立てられた。
 男谷平蔵の三男小吉は勝家の婿養子となり、その長男が海舟である。海舟は1860年に咸臨丸の艦長として日本人初の太平洋横断に成功した。帰国後は軍艦奉行などを歴任し、鳥羽伏見の戦い幕府軍が負けると、徳川慶喜の意を受けて新政府軍の西郷隆盛と交渉を重ね、江戸城開城を平和的に果たした。
 

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勝氏略系図
 
初代 勝 命雅(のぶまさ)【1710~1777】
 はじめ御鉄砲玉薬の同心をつとめ、表火番、支配勘定を務めたのち、1752年(43)に旗本に取り立てられ、御材木石奉行に転じ、1768年(59)に御広敷番頭に移りました。享年68。
 妻は三浦氏。
 
二代 勝 曹淓(ともみち)【1745~1783】
 勝命雅の長男、母は三浦氏。
 1776年(32)に大番となり、1777年に33歳で家督相続しました。享年39。
 妻は旗本 加治忠倫の娘。
 
三代 勝 元良(もとよし)【1767~1808】
 旗本 青木長国の三男、母は勝命雅の娘。
 曹淓の婿養子となり、1783年に17歳で家督相続しました。支配勘定などを務めた。享年42。
 妻は勝曹淓の娘。
 
四代 勝 惟寅(これとら)【1802~1850】
 男谷忠恕(平蔵)の九男。通称は小吉、左衛門太郎、号は夢酔。
 1822年(21)に勝家の婿養子となりました。一生無役(小普請組)で、猟官運動をしても職に就けず、刀剣の鑑定などで生計を立てました。1838年に37歳で隠居しました。享年49。
 妻は勝元良の娘 のぶ。
 
五代 勝 義邦(よしくに)【1823~1899】
 勝惟寅(小吉)の長男、母は勝元良の娘。通称は麟太郎、名はのちに安芳。号は海舟。
 1829年(7)に十二代将軍 徳川家慶の五男 初之丞(のち一橋慶昌【1825~1838】)の相手として江戸城奥向に出仕しました。
 1838年に16歳で家督相続し、小普請となりました。この頃から島田虎之助に剣術を学び、1845年頃(23)から永井青崖について蘭学を学び、翌年には佐久間象山の門人となりました。
 1855年(33)に蕃書翻訳御用出役となり、その後小十人組に入り、長崎へ海軍伝習を受けるために派遣され、翌年に講武所砲術師範役、ついで大番組に編入されました。1859年(37)に軍艦操練所教授方頭取となり、翌年に遣米使節随行する咸臨丸を指揮して太平洋を横断し、アメリカ社会を実見しました。
 
 帰国後に天守番之頭過人、蕃書調所頭取介、1861年(39)に講武所砲術師範役、天守番之頭格となり、1862年(40)に二ノ丸留守居格、軍艦操練所頭取となり、百俵に加増され、勤めの間は五百俵高となりました。その後、軍艦奉行並(千石高)、1864年(42)に軍艦奉行(二千石高)となり、神戸海軍操練所を開設・主宰しましたが、同年に罷免され寄合となりました。
 1866年(44)に軍艦奉行(三千石高)に再任され、長州との停戦交渉に携わりました。1868年(46)1月に陸軍総裁、2月に軍事取扱となり、3月に新政府軍の西郷隆盛と面会して江戸城総攻撃を中止させ、4月に江戸城を開城した。徳川家が駿府に移封となるとこれに従いました。
 
 1872年(50)に海軍大輔、翌年の征韓論の政変後に参議兼海軍卿となり、翌々年に免官となりました。その後は徳川家達の育成に関わり、生涯をかけて徳川慶喜の名誉回復に尽力しました。1887年(65)に伯爵となりました。享年77。
 妻は岡野孫一郎の養女 たみ(砥目氏の娘)。
 
 海舟の子 小鹿(ころく)は1892年に没していたので、勝伯爵家は慶喜の十男 精(くわし)が継いだ。
 
 

2. 勝海舟ゆかりの地 in 都内

(1)墨田区
 JR両国駅東口から南へ約5分ぐらいのところにある両国公園に勝海舟誕生の地記念碑がある。“勝海舟幕末絵巻”と題した幕末の海舟についての説明版がある。
 

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勝海舟生誕の地

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勝海舟幕末絵巻
 1831年頃、勝家は旗本岡野家の敷地内移り住んだ。小吉は岡野家のトラブルの手助けをしたという。この岡野家は、後北条氏の家臣 板部岡江雪斎の二男の子孫。両国公園から東へ約16分ぐらいのところにある“すみだふれあいセンター”あたりに岡野家の屋敷があった。“勝海舟居住の地―旗本岡野氏屋敷跡―”という案内板がある。
 

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勝海舟居住の地―旗本岡野氏屋敷跡―
(2)港区内
 東京メトロ千代田線赤坂駅6番出口から約5分のところ、本氷川坂の下側にあたる場所に勝海舟邸跡の案内板がある。海舟はここにあった屋敷に1859年から1868年まで住んだ。門下生になった坂本龍馬が訪れたのもこの地である。
 本氷川坂を上がると赤坂氷川神社がある。赤坂氷川神社の御社殿が建立する以前この地には、浅野長矩正室瑶泉院の実家である三次藩浅野家の下屋敷があった。
 

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勝海舟邸跡
 
 幕末に暮らした屋敷跡から東へ約5分ぐらいのところにある“港区立赤坂子ども中高生プラザ”あたりは、明治維新後に海舟が暮らした屋敷があった。ここには現在勝海舟坂本龍馬の師弟像が建っている。
 

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勝海舟坂本龍馬の師弟像
 
 
(3)大田区
 海舟は洗足池の隣に別邸(洗足軒)を構えた。その跡地は大田区立大森第六中学校の敷地に該当する。その北隣に2019年、勝海舟記念館が開館した。東急池上線洗足池駅から約5分である。その裏手に勝海舟夫妻のお墓がある。
 

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勝海舟別邸(洗足軒)跡

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大田区勝海舟記念館
 
 

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勝海舟夫妻のお墓
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻、第2巻、第5巻(東洋書林
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 家紋・旗本八万騎 高橋賢一著(秋田書店
 日本人名大辞典(講談社
 日本名字家系事典(東京堂出版
 諸家系譜 多門・押田・隠岐・尾島・越智・乙幡・恩田・男谷(国立公文書館デジタルアーカイブ
 中公クラシックス J48 勝海舟/勝小吉 氷川清話 夢酔独言 川崎宏 編(中央公論社電子書籍版)
 続徳川実紀 第1篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 明治維新人名辞典(吉川弘文館
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。