探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

毛利両川 吉川家と分家阿川毛利家・大野毛利家

こんにちは、勘矢です。
今回は毛利両川のひとつ吉川家とその分家の阿川毛利家・大野毛利家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 吉川家

(1)発祥から戦国時代

 吉川氏は藤原南家の流れをくむ経義が駿河国有度郡入江荘吉川郷(静岡県静岡市清水区)に住んで吉川氏を称したことからはじまる。承久の乱後、経光は安芸国山県郡大朝荘(広島県山県郡北広島町)の地頭となり、その子経高のときに下向した。その後、国衆として発展した。
 
 戦国時代の国経ははじめ大内義興の配下にいたが、のちに尼子氏方に転じ、長男元経とともに重縁関係にある毛利氏を尼子氏にむずびつけようつとめた。元経の長男興経は尼子氏の配下にあって毛利氏と対立したが、のちに内訌によって隠居させられ、毛利元就の二男元春が継ぐことになった。
 元春は弟小早川隆景とともに毛利両川といわれ、毛利氏の発展につくした。豊臣秀吉の九州攻めに従軍した際に豊前小倉城で病死した。その子元長も九州攻めの際に日向都於郡で病死した。家督は元春の三男広家が継ぎ、文禄・慶長の役に従軍した。
 
 吉川経光の三男経茂は石見国邇摩郡津淵村(島根県大田市温泉津町)の地頭となって下向し、石見吉川氏となった。戦国時代の経家は毛利氏に属し、羽柴秀吉鳥取城攻めに際して、五カ月間の籠城の末に自刃した。
 
吉川 経基(きっかわ・つねもと)【1428~1520】
 吉川之経の長男。享年93。
 娘は出雲の尼子経久の妻。
 
吉川 国経(きっかわ・くにつね)【1443~1531】
 吉川経基の長男。享年89。
 娘は毛利元就の妻 妙玖。
 
吉川 元経(きっかわ・もとつね)【1459~1522】
 吉川国経の長男。享年64。
 妻は毛利元就の妹。
 
吉川 興経(きっかわ・おきつね)【1508~1550】
 吉川元経の長男。享年43。
 
吉川 元春(きっかわ・もとはる)【1530~1586】
 毛利元就の二男、母は吉川国経の娘妙玖。享年57。
 妻は熊谷信直の娘。
 
吉川 元長(きっかわ・もとなが)【1548~1587】
 吉川元春の長男、母は熊谷信直の娘。享年40。
 
吉川 経家(きっかわ・つねいえ)【1547~1581】
 吉川経安の子。享年35。
 

吉川氏略系図(戦国時代まで)
 
 

(2)周防岩国領主

 広家は関ヶ原の戦いで東軍と通じて毛利存続のために奔走した。毛利家は周防・長門を与えられ、吉川家は毛利家より周防岩国で三万石(のち公称六万石)を与えられた。諸侯に列せられなかったが、幕府から特別の待遇を与えられた。
 三代広嘉のときに有名な錦帯橋を架橋した。六代経永のころ、家老が家格昇格運動のため幕府大奥に金品を贈って働きかけたが、汚職事件として摘発されて多額の負債が残った。
 
初代 吉川 広家(きっかわ・ひろいえ)【1561~1625】
 吉川元春の三男、母は熊谷信直の娘。享年65。
 在職期間:1600年(40)~1614年(54)隠居
 正室豊臣秀吉の養女(宇喜多直家の娘)。
 
二代 吉川 広正(きっかわ・ひろまさ)【1601~1666】
 吉川広家の子。享年66。
 在職期間:1614年(14)~1663年(63)隠居
 正室毛利輝元の娘。
 
三代 吉川 広嘉(きっかわ・ひろよし)【1621~1679】
 吉川広正の長男、母は毛利輝元の娘。享年59。
 在職期間:1663年(43)~1674年(54)隠居
 正室は公家 鷲尾隆量の娘。
 
四代 吉川 広紀(きっかわ・ひろのり)【1658~1696】
 吉川広嘉の子。享年39。
 在職期間:1674年(17)~1696年(39)隠居
 正室は旗本 石川義当の娘。
 
五代 吉川 広逵(きっかわ・ひろみち)【1695~1715】
 吉川広紀の子。享年21。
 在職期間:1696年(2)~1715年(21)
 
六代 吉川 経永(きっかわ・つねなが)【1714~1764】
 吉川広逵の子。享年51。
 在職期間:1715年(2)~1764年(51)
 正室高家 中条信実の娘。
 
 
 七代経倫は周防徳山藩毛利家から養子入りし、以降幕末まで毛利隆元の血統となる。八代経忠は財政改革に着手した。
 十二代経幹は疎遠であった宗藩毛利氏との融和協調を図り、宗家を援けて国事周旋にも参与した。1863年に宗藩世子定広に代わって上洛して御所守衛の任に着いたが、八月十八日の政変によって攘夷派の三条実美ら七卿を擁して帰国した。幕府による長州征討が行われた際、毛利家存続のため恭順を主張し、幕府にいったんは認められたものの、長州再征が起こると芸州口で幕府軍を撃破した。
 
七代 吉川 経倫(きっかわ・つねとも)【1746~1803】
 周防徳山藩主 毛利広豊の五男。享年58。
 在職期間:1764年(19)~1792年(47)隠居
 正室は播磨小野藩主 一柳末栄の娘。
 
八代 吉川 経忠(きっかわ・つねただ)【1766~1803】
 吉川経倫の子。享年38。
 在職期間:1792年(27)~1803年(38)
 正室丹波柏原藩主 織田信憑の娘。
 
九代 吉川 経賢(きっかわ・つねかた)【1791~1806】
 吉川経忠の長男。享年16。
 在職期間:1803年(13)~1806年(16)
 
十代 吉川 経礼(きっかわ・つねひろ)【1793~1836】
 吉川経忠の二男。享年44。
 在職期間:1807年(15)~1836年(44)
 正室は豊後日出藩主 木下俊懋の娘、継室は周防徳山藩主 毛利就馴の娘。
 
十一代 吉川 経章(きっかわ・つねあきら)【1794~1843】
 吉川経忠の三男。享年50。
 在職期間:1837年(44)~1843年(50)
 正室は家臣 長井元簡の娘。
 
十二代 吉川 経幹(きっかわ・つねまさ)【1829~1867】
 吉川経章の子、母は家臣 長井元簡娘。享年39。
 在職期間:1844年(16)~1867年(39)
 正室は備中足守藩主 木下利愛の娘。
 

吉川氏略系図(江戸時代)
 

(3)周防岩国藩

 経幹は第二次幕長戦の最中の1867年3月に没し、その死を知った毛利敬親によって喪を秘され、翌年3月に敬親の推挙によって吉川家は諸侯に列することを許され岩国藩主となった。その後隠居を届け出て、1869年3月に喪を発表した。その子経健のときに版籍奉還して岩国藩知事となり、廃藩置県を迎えた。
 
初代 吉川 経幹(きっかわ・つねまさ)【1829~1867】
 在職期間:1868年(形式上)
 
二代 吉川 経健(きっかわ・つねたけ)【1855~1909】
 吉川経幹の長男、母は側室 井上円治娘。享年55。
 在職期間:1868年(14)~1871年(17) 
 正室長門清末藩主 毛利元純の娘、継室は堤功長の娘、千家尊澄の娘、加藤泰秋の娘。
 
 
 

2. 阿川毛利家

 吉川元春の二男元氏は繁沢氏を称し、1613年にその子元景のときに毛利に改称した。長門国豊浦郡阿川(山口県下関市豊北町大字阿川)で六千石を領有した。のちに七千三百九十一石余。
 幕末の親彦は1855年に国元加判役に任ぜられ、その後江戸近海防禦惣奉行として江戸に行った。1863年に子の寛に家督を譲った。翌年、藩世子定広が上京するときの前衛軍惣奉行となって出軍するも禁門の変により帰国。その後、下関警備のため奇兵隊総督として厚狭郡吉田へ出張、さらに政事方をつとめた。1866年の第二次幕長戦では豊前口で戦い、翌年に寛が病弱のため、再度家督を継いだ。
 
 
初代 繁沢 元氏 【1556~1631】
 吉川元春の二男、母は熊谷信直の娘。享年76。
 正室は仁保隆在の娘。
 
二代 毛利 元景 【1575~1631】
 繁沢元氏の長男、母は仁保隆在の娘。1613年に毛利の称号を賜る。享年57。
 正室は小早川秀包の娘。
 
三代 毛利 就方 【1609~1692】
 毛利元景の二男、母は小早川秀包の娘。享年84。
 正室は右田毛利元俱の娘。
 
四代 毛利 就泰 【1627~1689】
 毛利元景の子。初名元嘉。享年63。
 正室は右田毛利元任の娘。
 
五代 毛利 就芝 【1669~1695】
 毛利就泰の子、母は右田毛利元任の娘。享年27。
 正室は粟屋就尚の娘。
 
六代 毛利 広規 【1693~1742】
 毛利就芝の長男、母は粟屋就尚の娘。1719年に朝鮮通信使の接待役をつとめた。号は譲翁。享年50。
 正室は吉敷毛利就包の娘。
 
七代 毛利 広漢 【1722~1759】
 毛利広規の長男。享年38。
 正室は厚狭毛利元連の娘。
 
八代 毛利 就楨 【1745~1801】
 毛利広漢の長男、母は厚狭毛利元連の娘。享年57。
 正室は宍戸広周の娘(未婚)、継室は右田毛利広胖の養女、継々室は公家 堤代長の娘。
 
九代 毛利 信任 【1760~1781】
 柳沢就章の二男、母は柳沢元詮の娘。父就章は六代広規の子。享年22。
 
十代 毛利 昌祉 【1767~1782】
 児玉就行の二男。享年16。
 
十一代 毛利 就貞 【1730~1804】
 毛利広漢の三男。はじめ繁沢利充の養子、昌祉に子がないため阿川毛利家を相続。享年75。
 
十二代 毛利 房嘉 【1787~1807】
 厚狭毛利就宣の二男。享年21。
 正室は益田親賢の娘。
 
十三代 毛利 凞徳 【1806~1838】
 毛利房嘉の長男、母は 益田親賢の娘。享年33。
 正室は厚狭毛利房衆の娘(離縁)。
 
十四代 毛利 親彦 【1830~1873】
 毛利凞徳の長男、母は毛利(厚狭)房衆の娘。通称伊勢。1863年隠居、1867年再度家督相続。享年44。
 正室は大野毛利凞頼の娘、継室は繁沢詮式の養女。
 
十五代 毛利 寛 【1845~?】
 毛利親彦の長男、母は大野毛利凞頼の娘。1867年隠居。
 

阿川毛利氏・大野毛利氏略系図
 
 

3. 大野毛利家

 吉川広家の二男就頼は、はじめ吉見氏の名跡を相続していたがのちに毛利氏に改姓した。周防国熊毛郡(山口県熊毛郡平生町)にて八千六百十八石余。
 幕末の凞頼は1835年に国元加判役となり、萩羽賀台の大操練の惣奉行などをつとめた。1855年に江戸加判役兼相州浦賀警備惣奉行となった。1864年禁門の変のあと、自刃した三家老、益田右衛門介福原越後国司信濃の首を広島に持参して幕使の実検を受けた。1866年の第二次幕長戦では大島口に出兵した。
 
 
初代 毛利 就頼 【1607~1676】
 吉川広家の三男、吉見家相続。1618年吉川広正分与三千石。享年70。
 正室は吉見広頼の娘。
 
二代 毛利 就詮 【1631~1714】
 毛利就頼の二男、母は吉見広頼の娘。享年84。
 正室は吉川広正の娘(1674年離縁)。
 
三代 毛利 元直 【1706~1714】
 毛利綱広の五男 元重の子。享年9。
 
四代 毛利 元雅 【1702~1736】
 山内広直の二男。はじめ益田広明の養子。享年35。
 正室は益田就賢の娘。
 
五代 毛利 広円 【1729~1770】
 毛利元雅の長男、母は益田就賢の娘。享年42。
 正室清末藩主 毛利政苗の娘。
 
六代 毛利 就言 【1754~1776】
 毛利広円の長男、母は毛利政苗の娘。享年23。
 正室は右田毛利広胖の娘。
 
七代 毛利 親頼 【1775~1835】
 毛利就言の長男。享年61。
 正室は益田就祥の娘(離縁)、継室は綾小路俊資の娘、継々室毛利親著の娘。
 
八代 毛利 凞頼 【1803~1871】
 毛利親頼の長男、母は綾小路俊資の娘。通称隠岐。1870年隠居。享年69。
 正室堅田就正の孫娘。
 
九代 毛利 就詮 【1832~1893】
 毛利凞頼の二男、母は堅田就正の孫娘。通称将監。享年62。
 正室は綾小路有長の娘。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 明治維新人名辞典(吉川弘文館
 近世防長諸家系図綜覧(防長新聞社 山口支社編)
 稿本もりのしげり(時山弥八 編 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 日本人名大辞典(講談社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。