こんばんは、勘矢です。
1. 騎西藤まつり
加須市騎西にある玉敷公園には樹齢400年以上の大きな藤があり、見ごろを迎えています。
藤というと紫色をイメージしますが、ここには白い藤もありました。はじめてみました。
2. 騎西城
玉敷神社の近くには騎西城̪跡があり、三層三重の模擬天守があります。これは郷土史料展示室となっていて、年に2回春と秋のみ特別公開されます。
騎西は私市とも書きます。いつ頃築城されたかはわかりませんが、文献では1455年に登場します。郷土史料展示室の資料によると戦国期の城主として、上杉憲信、小田顕家、朝興、成田泰喬の名が挙げられています。騎西は古河公方と関東管領の争いや上杉謙信と北条氏の争いなどで舞台となりました。
江戸初期の絵図によると、騎西城は沼や湿地に囲まれていました。城の南に武家屋敷や町人地がありました。寺社は9寺3社あり、ほとんどが現在と同じ位置にあります。
現在は土塁の一部が残っており、市指定史跡となっています。一部は復元整備されています。
3. 騎西藩(私市藩)
徳川家康が関東に移ってくると、騎西は松平(松井)康重に与えられ、石高は2万石でした。康重は家康のご落胤説があります。関ケ原の翌年に常陸笠間に移ると、代わって大久保忠常が2万石で入りました。忠常は徳川秀忠の側近大久保忠隣の嫡男です。忠隣は相模小田原を領しているので、親子で別々の領地を与えられました。忠常は忠隣に先立ち、嫡男の忠職が相続しました。
祖父忠隣が失脚したとき、幕府は大久保家代々の功績と忠職の祖母が亀姫(家康長女)であることも考慮してか、忠職を騎西の領地はそのままで蟄居するように命じられました。そして大久保宗家を相続することを許されました。
蟄居は11年余りに及びました。その後、祖母亀姫に所縁がある美濃加納に移ることになり、騎西城は廃城となりました。この移動は美濃加納を領地していた松平忠隆が嗣子なく死去したことによるもので、忠職と忠隆は従兄弟となります。
カッコは数え年を表します。
それでは、今日はここまで。
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