探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

御三家 紀州藩 徳川家

こんばんは、勘矢です。

今日は御三家の紀州藩について書きたいと思います。

 

 

1. 浅野家の時代~徳川頼宣入封前~

 戦国時代の紀州には雑賀衆などが勢力を張っていました。豊臣秀吉による紀州征伐のあと弟の秀長が紀州を治めました。秀長の本拠地は大和郡山なので、和歌山城に城代が置かれ、桑山氏が勤めました。

 関ヶ原の戦いのあと甲斐の浅野幸長紀州を与えられました。石高は三十七万石余です。幸長の娘春姫は、尾張藩徳川義直正室となりました。幸長には男子がなかったので、弟で備中足守藩主の長晟が相続しました。長晟は徳川家康の三女振姫を正室に迎えました。安芸広島藩福島正則が改易されると広島に移りました。

 

2. 紀州徳川家の相続

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紀州藩主一覧

 黒丸は養子を表します。カッコは数え年を表します。

 2人の将軍を輩出した紀州徳川家。藩主就任時の平均年齢は26.6歳です。尾張藩より平均年齢は高いです。尾張藩は幼少で相続するケースが多かったのですが、紀州藩では13代慶福の4歳を除いて15歳以上で相続をしています。最高齢は9代治貞の48歳です。
 浅野家が広島に移ると徳川家康の十男頼宣が駿府から五十五万五千石で移ってきました。頼宣は加藤清正の娘を正室に迎えています。由比正雪の起こした慶安事件では黒幕として頼宣の名が取沙汰されたため、一時幕府から嫌疑を受けました。

 頼宣が隠居すると長男光貞が相続しました。光貞は長命で80歳で天寿を全うしました。

 光貞が隠居すると長男綱教が相続しました。正室は5代将軍綱吉の娘鶴姫です。綱吉の男子は早世してしまったので、娘婿の綱教を後継者にと考えたようですが、鶴姫と綱教が相次いで先立ったため実現には至りませんでした。

 綱教のあとを弟の越前高森藩主頼職(光貞三男)が相続しますが、急死しました。在職期間が短く、頼宣以外の歴代藩主で将軍の一字をもらえませんでした。

 そして弟の越前葛野藩主頼方(光貞四男)が相続します。綱吉の一字を賜り吉宗と改名しました。相続したときには、度重なる江戸藩邸の消失や兄綱教の鶴姫との婚姻で財政困難なところに父と兄2人が相次いで死去したことによる葬儀費用がかさんだため、非常に厳しい財政状態でありました。吉宗は率先して財政再建に取り組み、将軍就任前の頃には蓄えが出るまでになりました。7代将軍家継が危篤に陥ると、御三家筆頭の尾張徳川継友(29)、御三家年長の水戸徳川綱条(69)、家宣の弟で上野館林藩主の松平清武(54)の候補と将軍職を争うことになりましたが、年齢や血統、紀州藩主としての実績などから吉宗(33)が後見に選ばれ、将軍家を相続することになりました。

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紀州徳川家系図

 吉宗は、長男長福丸(のちの家重)と次男小五郎(のちの田安宗武)を連れて江戸城に入ったため、紀州藩は従兄弟で分家の伊予西条藩主松平頼致が相続しました。吉宗の一字を賜り宗直と改名しました。宗直のあとは長男宗将が相続しました。

 宗将のあとを次男重倫が相続しました。しかし、性質が粗暴でたびたび近臣に刀を振るうなどの行為があり、最終的に病気ということで隠居させられました。

 重倫の子は幼少のため、叔父で分家の伊予西条藩主松平頼淳が相続しました。10代将軍家治の一字を賜り治貞と改名しました。重倫の子は治貞の養子となり元服後治宝を名乗り、治貞のあとを相続しました。

 治宝は娘の豊姫に清水家当主の斉順(11代将軍家斉七男)を婿養子に迎えました。治宝は紀の川流域を中心にした大規模な一揆発生の責任を取らされ隠居しました。

 斉順が藩主になったことにより吉宗の系統が紀州藩主に返り咲きました。しかし、藩政の実権は、隠居の治宝が握っていました。嗣子がないため弟の清水家当主斉彊(家斉二十一男)を養子に入りました。斉順の死去後に側室が慶福を産みました。慶福は斉彊の養嗣子となりました。斉彊のあとを慶福が相続しました。隠居の治宝は長命で慶福の代まで存命でした。慶福は13代将軍家定の後継者に推されその養子となりました。

 慶福のあとを分家の伊予西条藩主松平頼学の七男頼久が相続し、家茂の一字を賜り茂承と改名しました。第二次長州征伐では先手総督となりました。版籍奉還後に知藩事となり廃藩置県まで任にありました。

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和歌山城

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。