こんにちは、勘矢です。
今回は毛利両川のひとつ小早川家と吉敷毛利家について調べたことをまとめました。
1. 小早川氏
小早川氏は桓武平氏の流れをくみ、相模国早川荘(神奈川県足柄下郡湯河原町)を本拠にした土肥実平の子 遠平が小早川を称したことからはじまる。遠平は安芸国沼田荘(ぬた;広島県三原市)、孫の茂平のとき同国竹原荘(広島県竹原市)の地頭職を与えられ、その後沼田小早川氏と竹原小早川氏に分かれた。
戦国時代の竹原小早川興景は跡継ぎがないため、毛利元就の三男隆景を養子に迎えた。さらに本家の沼田小早川氏も相続して両家を統合し、以降兄吉川元春とともに毛利両川の一翼を担い、毛利家発展に貢献した。本能寺の変後、羽柴(豊臣)秀吉と和議を結び、それ以降秀吉に協力して豊臣五大老のひとりとなった。隆景ははじめ弟の秀包を養子にしていたが、のちに秀吉の妻高台院の甥秀秋を養子に迎えて家督を譲った。
小早川 茂平(こばやかわ・しげひら)【?~1264】
小早川景平の子。沼田荘地頭職。承久の乱後、都宇・竹原両荘の地頭職を得た。子の政景は竹原小早川氏の祖。
小早川 隆景(こばやかわ・たかかげ)【1533~1597】
毛利元就の三男。はじめ竹原小早川氏を相続し、のち沼田小早川氏も相続。享年65。
正室は沼田小早川正平の娘。
小早川 秀秋(こばやかわ・ひであき)【1582~1602】
小早川 秀包(こばやかわ・ひでかね)【1567~1601】
小早川 式部(こばやかわ・しきぶ)【?~?】
2. 吉敷毛利家
幕末の元一は加判役や城代などをつとめ、1868年に新職制によって副執政となり、翌年大参事に任ぜられた。1871年に養子親直(阿川毛利広悌の四男)に家督を譲るも3年後に離籍したので再相続した。その後、山本信一の長男 重輔を養子にして隠居。重輔は1900年に男爵を授けられた。
初代 毛利 元鎮 【1589~1670】
小早川秀包の子。母は大友義鎮の娘。享年82。
二代 毛利 元包 【1607~1676】
毛利元鎮の子、母は穂井田元清の娘。享年70。
三代 毛利 就直 【1635~1709】
右田毛利元法の二男。享年75。
正室は毛利元包の娘、継室は公家久我殿臣 春日仲義姉、継々室は春日仲義の養姉。
四代 毛利 広包 【1688~1737】
毛利就直の子、母は春日仲義の養姉。兄の広規【1657~1690】、就包【1663~1695】が相次いで没したため家督相続。享年50。
妻は益田就賢の娘、継室は福原広頼養妹。
五代 毛利 元直 【1716~1753】
毛利広包の子。享年38。
正室は阿川毛利広規の娘。
六代 毛利 就将 【1746~1797】
毛利元直の子、母は阿川毛利広規の娘。享年52。
正室は右田毛利広胖の娘。
七代 毛利 就兼 【1757~1791】
右田毛利広定の二男。享年35。
八代 毛利 房直 【1785~1803】
右田毛利就任の二男、母は梅園氏。享年19。
正室は毛利就兼の娘。
九代 毛利 包詮 【1772~1804】
毛利就将の三男。享年33。
十代 毛利 房裕 【1759~1812】
繁沢就貞の子、母は繁沢利充の娘。父就貞は毛利広規の三男で繁沢氏を継いだのち、阿川毛利家を継いだ。初名礼行。享年54。
十一代 毛利房謙 【1794~1847】
厚狭毛利就宣の四男、母は厚狭毛利就盈の娘。享年54。
正室は益田親愛の娘。
十二代 毛利 元一 【1816~1889】
毛利房謙の二男、母は益田親愛の娘。通称出雲。享年74。
正室は右田毛利房顕の娘(離婚)。
参考文献:
日本名字家系事典(東京堂出版)
日本人名大辞典(講談社)
近世防長諸家系図綜覧(防長新聞社 山口支社編)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。