探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

高家 畠山氏

 

こんにちは、勘矢です。
今回は前回(管領 畠山氏 - 探検!日本の歴史)の続きで、高家 畠山氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 高家畠山氏とは

 応仁の乱で東軍に属した畠山政長の子孫は、家臣の台頭などにより没落していきました。その子孫 畠山政信は、1624年には江戸幕府に召し出され、摂津国内で三百石を与えられました。その子 基玄は1679年に奥高家とになり、下野国内で五千石を知行しました。また、政信の二男 義玄、三男 高玄も旗本となりました。
 

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高家畠山氏略系図(河内系)
 
 

2. 旗本 畠山氏

(1)高家:畠山中務大輔家

初代 畠山 政信(まさのぶ)【1591~1675】
 畠山貞政の長男、母は貴志氏。
 1615年(25)に京都にて徳川家康に拝謁し、1624年(34)に江戸に来て仕えて、摂津国内で采地三百石を賜りました。1626年(36)と1634年(44)の将軍上洛に際して、先に京都に赴きました。1664年に74歳で隠居しました。享年85。
 妻は大和竜田藩主 片桐且元の娘。
 
二代 畠山 基玄(もとはる)【1636~1710】
 畠山政信の長男。
 1664年に29歳で相続しました。1679年(44)に奥高家となり、摂津国内で三百石を加増されました。将軍の使者として、たびたび京都や日光山に赴きました。1685年(50)に下野国内で五百石を加増されました。1688年(53)に御側衆となり、千石を加増されました。翌年、金森頼時と同様に側用人をつとめることが命じられ、さらに二千九百石を加増されて、合計五千石となりました。
 1691年(56)に奏者番となるも、故あって一時拝謁を止められました。1696年(61)に奥高家に復し、翌年、肝煎となりました。1707年(72)に辞職しました。享年75。
 妻は田中満吉の娘。
 
三代 畠山 基祐(もとすけ)【1678~1742】
 分家 畠山義玄の二男、母は太田宣重の娘。
 伯父 基玄の養子となり、1710年に33歳で相続し、表高家に列しました。1730年(53)に奥高家となりました。1732年(55)に霊元法皇崩御により使者として京都に赴きました。享年65。
 妻は交代寄合 伊東祐春の娘。この伊東家は日向飫肥藩の分家。
 
四代 畠山 国祐(くにすけ)【1721~1787】
 分家 畠山高要の長男。
 父の従兄弟 基祐の養子となり、1742年に22歳で相続しました。1745年(25)に奥高家となりました。1750年(30)に桜町上皇崩御により使者として京都に赴きました。1757年(37)に肝煎となりました。1762年(42)に辞職し、1775年に55歳で隠居しました。
享年67。
 妻は高家 堀川広益の娘。子の広之より有馬を称しました。
 
五代 畠山 政如(まさすけ)【1746~1778】
 畠山国祐の長男、母は堀川広益の娘。
 1775年に30歳で相続しました。享年33。
 妻は高家 有馬広之の養女(旗本 高島広行の娘)。広之は広益の子。
 
六代 畠山 国儔(くにとも)【1759~?】
 畠山国祐の九男、母は堀川広益の娘。
 1778年に20歳で相続しました。
 妻は近江仁正寺藩主 市橋長璉の娘。
 
七代 畠山 国祥(くにあきら)【?~1811】
 畠山国儔の長男、母は市橋長璉の娘。紀伊守。
 1802年に相続しました。1807年に奥高家となりました。
 妻は三河奥殿藩主 松平(大給)乗友の娘。
 
八代 畠山 基利【?~1840】
 畠山国祥の子。左衛門、式部大輔
 1811年に相続しました。1826年に奥高家となりました。
 
九代 畠山 基徳【?~?】
 畠山基利の養子。満次郎、左衛門、民部大輔。
 1840年に相続しました。1842年に奥高家となりました。
 1850年に病にて職を解かれました。1862年に隠居しました。
 
十代 畠山 基永【?~?】
 畠山基徳の嫡子。木久麿。
 1862年に相続しました。
 
 

(2)旗本:畠山弥太郎家

(寛政年間までの当主)
初代 畠山 義玄(よしはる)【1640~1712】
 畠山政信の二男。
 1659年(20)に召されて御書院番に列しました。1661年(22)に廩米三百俵を賜りました。1685年(46)先に駿府城の守衛にあったときの落度により一時閉門となりました。1710年(71)に老年につき辞職して小普請となりました。享年73。
 妻は旗本 太田宣重の娘。
 
二代 畠山 義陟(よしなり)【1680~1748】
 畠山義玄の三男、母は太田宣重の娘。
 1709年(30)に御小姓組の番士となりました。1712年に33で相続しました。享年69。
 
三代 畠山 義典(よしのり)【1728~1796】
 畠山義陟の長男。
 1748年に21歳で相続しました。翌年、西ノ丸の御小姓組に列し、1761年(34)に本丸のつとめとなり、翌年西ノ丸に戻りました。1765年(38)に辞職し、1775年(48)に御書院番となりました。享年69。
 妻は旗本 高屋信邦の娘。
 
四代 畠山 義敷(よしのぶ)【1762~?】
 畠山義学の長男。
 伯父 義典の婿養子となり、1796年に35歳で相続しました。
 妻は畠山義典の娘。
 
 

(3)旗本:畠山帯刀家

(寛政年間までの当主)
初代 畠山 高玄(たかはる)【1641~1717】
 畠山政信の三男。
 1663年(23)に召されて御小姓組に列しました。1665年(25)に廩米三百俵を賜りました。1701年(61)に故があって一時逼塞となりました。1712年(72)に老年につき辞職し、小普請となりました。享年77。
 妻は松平下総守家臣 宮原政房の娘。
 
二代 畠山 高要(たかやす)【1693~1750】
 畠山高玄の長男、母は松平下総守家臣 宮原政房の娘。
 1709年(17)に御書院番となり、1717年に25歳で相続しました。1749年(57)に辞職しました。享年58。
 
三代 畠山 高祐(たかすけ)【1728~1770】
 畠山高要の二男。
 1750年に23歳で相続しました。1752年(25)に御書院番に列しました。享年43。
 
四代 畠山 高致(たかかず)【1753~?】
 畠山高祐の長男。
 1770年に18歳で相続しました。。1776年(24)に御小姓組の番士となりました。
 妻は旗本 伊沢方貞の娘。
 
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(国立国会図書館デジタルコレクション
 寛政譜以降 旗本百科事典 第4巻(東洋書林
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。