こんにちは、勘矢です。
今回は栗本鋤雲とその一族について調べたことをまとめました。
1. 栗本家とは
近江源氏佐々木定綱子孫の六角次郎満信が近江国栗本郡に住み、栗本と称したことに始まる。それより十代を経た房定は豊臣秀頼に仕えて五百石を賜り、大坂冬の陣にて討死にした。その子栗本瑞廻は医をもって紀伊家に仕えた。
四代目の瑞見(昌臧、瑞仙院)は医学館で本草学をおしえ、また、虫、魚、貝などを研究、日本で最初の昆虫図説「千虫譜」など彩色写生図集をのこした。
幕末の鋤雲は喜多村家から養子入りして家業を継いだが、1855年に故あって職を逐われた。1858年に蝦夷地在住を命じられ、その後、医籍から士籍に改められ箱館奉行支配組頭となった。1865年に外国奉行となり、兵庫港開港の取消談判などの外交交渉に関わった。その後、横須賀造船所・製鉄所の建設をはじめ、フランス陸軍の伝習、仏語伝習所の開設を推進し、フランス公使レオン・ロッシュとも親交を結び、親仏派幕臣として重きをなした。
2. 栗本瑞見家
初代 栗本 直方(なおかた)【1649~1729】
二代 栗本 昌綱(まさつな)【1699~1775】
栗本直方の長男、母は小笠原徳兵衛の娘。
1728年(30)に奥医師の見習いとなり、翌1729年に31歳で家督相続し、奥医師に列しました。1731年(33)に田安宗武の附属となり、のちに辞職して寄合となりました。1738年(40)に奥医師に復し、法眼に叙せられました。 1752年(54)に西ノ丸の奥医師に列しました。享年77。
妻は医家 吉田宗仲の娘、後妻は旗本 飯田方旧の養女。
また、二男の昌高(まさたか)は、1758年に清水重好に附属され、蔵米百俵月俸十口を賜り、 三男の昌行(まさつら)は兄昌高の養子となりました。
三代 栗本 昌友(まさとも)【1736~1802?】
栗本昌綱の長男、母は宮崎氏。
1774年(39)に奥医師の見習いとなり、翌1775年に40歳で家督相続し、奥医師に列しました。その後、法眼に叙せられました。1789年(54)に辞職して寄合に列し、1793年に58歳で隠居しました。享年67?
妻は旗本 杉田忠暁の娘(忠暁の妻は吉田宗仲の養女なので昌友の従姉妹)、後妻は旗本 松平(形原)隆尚の娘。
四代 栗本 昌臧(まさよし)【1756~1834】
田村藍水の二男、母は田村氏の娘。号は丹州。
昌友の婿養子となり、1785年(30)に奥医師の見習いとなり、1789年(34)に奥医師に列し、のちに蓮光院(十代将軍 徳川家治の側室 お千保の方、家基の生母)に附られ、その後、法眼に叙せられました。1791年(36)に種姫(徳川家治の養女)の附属となり、翌年に奥医師となりました。
妻は栗本昌友の娘。はじめ昌友の最初の養子元格(河野仙寿院通頼の三男)の妻となるも死別し、昌臧と再婚。
栗本 昌大 【?~1831】
栗本昌臧の長男、母は栗本昌友の娘。元格と称す。
五代 栗本 昌當 【?~1848】
栗本昌臧の子。瑞見と称す。
六代 栗本 鋤雲(じょううん)【1822~1897】
喜多村安正(槐園)の三男、母は三木氏。通称は瀬兵衛、名は鯤(こん)、匏庵または鋤雲と号した。
1848年(27)に栗本家の養子となって家業を継いで内科医に列し、製薬局を管掌しました。1855年(34)にオランダから献上された観光丸試乗に応募したことが、御匙法印 岡櫟仙院の忌むところとなり職を追われ、1858年(37)に蝦夷地在住を命じられました。
1862年(41)に士籍となり、1863年(42)に箱館奉行支配組頭となり、北方警備のため樺太・千島の巡視にあたりました。同年末に帰府して学問所頭取(700石高)となり、1864年(43)に目付となり横浜鎖港交渉に関わりました。
1865年(44)に御先手過人、軍艦奉行並(1000石高)、外国奉行(2000石高)となって安芸守と称し、兵庫先期開港の取り消し談判や下関償金支払延期交渉などに関わりました。1866年(45)1月に御役御免、勤仕並寄合となりましたが、11月に外国奉行再勤となりました。
栗本 貞次郎(ていじろう)
堀七郎右衛門の子。
1865年に小姓組入し、1866年に大炮差図役頭取(400石高)、開成所頭取(700石高)、歩兵頭並(1000石高)となりました。
3. 医家 田村家
その子 元長も幕府より父に引き続き人参御用を勤めるべき旨を仰せ渡された。1790年に小普請組支配医師から若年寄支配番医師次席奥詰人参製方所と格式が昇った。
藍水の二男 昌臧は栗本瑞見家に養子入りした。
田村 藍水(らんすい)【1718~1776】
小普請方棟梁 大谷出雲の二男、母は作事方棟梁 甲良豊前の娘。通称は元雄で、諱は登。
15歳(1732年)で医学を志し、1837年(20)には、八代将軍 徳川吉宗の命により朝鮮人参の実を拝領して自園んに植え繁殖させたといわれる。1740年(23)に町医者の田村宗宣の婿養子となりました。
1757年(40)に門人の平賀源内とともに、湯島において江戸ではじめての薬品会(物産会)を開きました。1763年(46)に幕府に召し出され御医師並人参御用となりました。享年59。
田村 元長(げんちょう)【1739~1793】
田村藍水の長男。名は善之、号は西湖。弟に栗本昌臧(瑞仙院)。
1791年(53)に伊豆諸島で薬草を採集し、博物誌「豆州諸島物産図説」をあらわした。
田村 元雄寛似 【?~1838】
田村 元長富徳 【?~1846】
田村 元理徳則 【?~1848】
田村 元雄充保 【?~1861】
田村 長叔充民 【?~1890】
4. 喜多村安斎家
喜多村家は直信が医業をもって館林藩の神田屋敷に仕え、その養子の直明が藩主徳川綱吉の将軍就任に伴い、奥医に列し、蔵米四百俵を賜った。その後、知行地七百石に加増されたが、子の直茂のときに蔵米三百五十俵となった。
初代 喜多村 直明(なおあきら)【1629~1692】
喜多村直信の子。
はじめ館林徳川家に仕え、1680年(52)に藩主徳川綱吉が将軍家を相続するを相続するときに従い奥医師となり、蔵米四百俵を賜り、その後、法眼に叙せられて百俵を加えられました。翌年にさらに二百石を加えられ、蔵米から知行地に改められ、七百石となりました。1683年(55)に平常の勤務がよくないため奥のつとめをゆるされた。翌年、番医に列した。享年64。
二代 喜多村 直茂(なおしげ)【1664~1716】
喜多村直明の長男。
1692年に29歳で家督相続しましたが、知行地は半分とされ、さらに蔵米支給となり三百五十俵となりました。享年53。
三代 喜多村 直義(なおよし)【1686~1742】
喜多村直茂の長男。1716年に31歳で家督相続しました。享年57。
四代 喜多村 直定(なおさだ)【1708~1754】
喜多村直義の長男。1742年に35歳で家督相続しました。享年47。
五代 喜多村 直方(なおかた)【1738~?】
喜多村直定の長男。1754年に7歳で家督相続し、小普請入りしました。1769年(32)に番医となりました。
妻は村上行正の娘。
喜多村 直実(なおよし)【1757~1790】
喜多村直方の長男、母は村上行正の娘。
1782年(26)より小石川養生所の療治の見習いををつとめ、1789年(33)に同所の療治をうけたまわりました。 父に先立ち没しました。享年34。
妻は旗本 久松定賢の娘。直実の没後は金沢千秋の妻となった。
六代 喜多村 直(なおし)【1769~?】
喜多村直方の三男、母は村上行正の娘。通称安正、号は槐園。
1816年(48)に番医より寄合医となり、1831年に63歳で隠居しました。
七代 喜多村 栲窓(こうそう)【1804~1876】
喜多村槐園の子、母は三木氏。名は直寛。安正、安斎と称した。
1811年(8)に医黌入学し、1831年に28歳で家督相続しました。同年に御番医師となり、その後医学館世話役手伝いとなりました。1834年(31)に御番御免となり、寄合医師となり、1840年(37)に医学館世話役手伝いを免ぜられました。
1841年(38)に医学館の講書、1846年(43)に医学館世話役、1849年(46)に西ノ丸奥医師、法眼となりました。1857年(54)に医学館世話役を辞職し、翌年には奥医師を辞職しました。享年73。
妻は和田春長の娘。
参考文献:
寛政譜以降 旗本百科事典 第2巻、第3巻(東洋書林)
家紋・旗本八万騎 高橋賢一著(秋田書店)
日本人名大辞典(講談社)
切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩(人文社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。