探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

松平大和守家の歴代当主

こんにちは、勘矢です。
今回も映画「引っ越し大名!」に登場する大名 松平家についてしらべたことをまとめました。
 
 

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姫路城
 

1. 松平大和守家当主一覧

初代 松平 直基(なおもと)【1604~1648】
 結城秀康の五男、母は側室 三好長虎娘。1614年(11歳)に結城晴朝の隠居料五千石を相続し、1624年(21歳)に越前勝山に三万石を与えられ諸侯に列しました。1626年(23歳)に結城から松平に姓を改めました。1635年(32歳)に二万石を加増され越前大野(五万石)へ移り、1644年(41歳)に十万石を加増され出羽山形(十五万石)に移りました。さらに1648年(45歳)のとき播磨姫路(十五万石)に移りました。享年45。正室福井藩家老 本多富正の娘 布連。
 
2代 松平 直矩(なおのり)【1642~1695】
 松平直基の長男、母は本多富正の娘。1648年に7歳で播磨姫路藩を相続しました。翌年、越後村上に移されました。1667年(26歳)に再び播磨姫路へ移りましたが、越後騒動に連座して閉門となり、1682年(41歳)に八万石を減封され豊後日田(七万石)となりました。1686年(45歳)に加増の上、先代が領知した出羽山形に移りました。1692年(51歳)に五万石を加増され、元の石高の十五万石で陸奥白河に移りました。享年54。正室は出雲松江藩松平直政の娘 駒姫。継室は公家 東園基賢の娘 丁。
 
3代 松平 基知(もとちか)【1679~1729】
 松平直矩の二男、東園基賢の娘。1695年に17歳で陸奥白河藩を相続しました。享年51。正室筑後久留米藩主 有馬頼元の娘。継室は公家 東園基雅の養女(公家 桜井兼供の娘)。
 
4代 松平 明矩(あきのり)【1713~1748】
 分家松平知清の長男、母は側室 本多氏。初名義知(よしちか)。1721年に9歳で陸奥白河新田藩を相続しました。本家の基知に世子がなかったため養嗣子となり、白河新田藩は廃藩となりました。1729年に17歳で陸奥白河藩を相続しました。1741年(29歳)に59年ぶりに播磨姫路に戻りました。享年36。正室豊前小倉藩主 小笠原忠基の娘。
 
5代 松平 朝矩(とものり)【1738~1768】
 松平明矩の長男、母は側室 成田氏。1748年に11歳で播磨姫路藩を相続しました。しかし幼少のため翌年、上野前橋藩に移りました。三度目の姫路藩政は8年で終わりました。1767年(30歳)に居城の前橋城が利根川の水害による被害を受けたため、武蔵川越に移りました。享年31。正室は土佐高知藩主 山内豊敷の娘 敏姫、継室は公家 藤井兼矩の娘 土。
 
6代 松平 直恒(なおつね)【1762~1810】
 松平朝矩の二男、母は藤井兼矩の娘。1768年に7歳で武蔵川越藩を相続しました。享年49。正室は公家 桜井兼文の娘 悦、継室は伊予宇和島藩主 伊達村候の娘 富。
 
7代 松平 直温(なおのぶ)【1795~1816】
 松平直恒の二男、母は側室 八嶋氏。1810年に16歳で武蔵川越藩を相続しました。享年22。正室は安芸広島藩主 浅野斉賢の娘 美代姫。
 
8代 松平 斉典(なりつね)【1797~1850】
 松平直恒の三男、母は側室 菊池氏。1816年に20歳で武蔵川越藩を相続しました。1820年(24歳)に川越藩領のうち一万五千石を相模国三浦郡替え地され、相模国沿岸の警備役を課せられた。十一代将軍家斉の子 斉省を養子に迎え、のちに二万石を加増され十七万石となりました。はじめは矩典(のりつね)と名乗っていたが、家斉の子を迎えた後に家斉の一字を賜って斉典と改名しました。享年54。正室対馬府中藩主 宗義功の娘 貞(1809年離縁)。
 
9代 松平 典則(つねのり)【1836~1883】
 松平斉典の四男、母は側室 矢部氏。1850年に15歳で武蔵川越藩を相続しました。先代以来の相模国沿岸警備を継続しました。1853年(18歳)のペリー来航時には、藩兵をもって警備にあたり、その後、品川沖一の台場の警備に移りました。1854年(19歳)のペリー再来航時にも藩兵を派遣して警備にあたったが、同年に眼疾により政務困難のため、隠居しました。享年48。
 
10代 松平 直侯(なおよし)【1839~1861】
 常陸水戸藩徳川斉昭の八男、母は山野辺正息の娘。1854年に16歳で武蔵川越藩を相続しました。先代からの品川沖一の台場の警備を引き続きつとめましたが、1861年(23歳)に病のため隠居しました。享年23。正室肥前佐賀藩鍋島直正の娘 貢。
 
11代 松平 直克(なおかつ)【1840~1897】
 筑後久留米藩主 有馬頼徳の五男。1861年に22歳で武蔵川越藩を相続しました。先代からの品川沖一の台場の警備を引き続きつとめ、十四代将軍家茂の上洛中に江戸留守の警備を命じられました。翌年(23歳)、政事総裁職を命じられ、品川台場の警備を免じられました。1864年(25歳)政事総裁職を罷免され、再び品川沖二・五台場の警備を命ぜられました。1867年(28歳)、再び上野前橋に戻りました。翌年の戊辰戦争に藩兵を出し、会津藩と交戦しました。1869年(30歳)、版籍奉還し、前橋藩知事に任ぜられ、約半年後に隠居しました。享年58。正室は松平直侯の養女(松平可寛の娘) 幸。
 
12代 松平 直方(なおかた)【1858~1907】
 越中富山藩主 前田利声の二男。1869年に12歳で上野前橋藩を相続し、前橋藩知事に任ぜられました。1871年(14歳)、廃藩置県を迎えました。享年50。正室伊予吉田藩主 伊達宗孝の娘 鎨子(1889年離縁)
 
 

2. 陸奥白河新田藩主

初代 松平 知清(ちかきよ)【1682~1721】
 松平直矩の四男。1712年(31歳)、兄で陸奥白河藩主 松平基知から新墾田一万石を分与されて、陸奥白河新田藩主となりました。享年40。
 
2代 松平 義知(よしちか)【1713~1748】
→前項4代 松平 明矩(あきのり)を参照
 
 

3. 松平大和守家 幕末の婚姻関係

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松平大和守家 幕末の婚姻関係図
 
(1) 八代 松平斉典の養子
 八代 松平斉典は亡き兄 直温の娘を養女にし、その婿に十一代将軍徳川家斉の二十四男斉省を迎えました。
 
(2) 九代 松平典則の養子
 九代 松平典則は、水戸藩徳川斉昭の八男直侯を養子に迎え、義兄斉省の姉盛姫が嫁いだ鍋島家の娘を直侯の正室としました。
 
(3) 十代 松平直侯の養子
 十代 松平直侯は、先々代斉典の弟可寛の娘幸を養女にし、その婿として筑後久留米藩主 有馬頼徳の五男直克を迎えました。斉省の叔父一橋斉敦の娘 幹は有馬頼徳の正室となっています。
 
(4) 十一代 松平直克の養子
 十一代 松平直克は、加賀前田家の分家富山藩の前田家から直方を養子に迎えました。直克の正室 幸の従兄弟松平斉省の姉妹溶姫が嫁いだ前田斉泰の子が富山藩主前田利声の養子となり、その義兄弟が直方になります。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。