こんにちは、勘矢です。
今回は美濃加納藩 永井家について調べたことをまとめました。
1. 加納藩 永井家
永井尚政の三男尚庸が1658年に河内国内で二万石を分知されたことからはじまる。その後、若年寄、京都所司代をつとめ、三万石に加増された。その子 直敬は下野烏山、播磨赤穂、信濃飯山を経て武蔵岩槻に入った。
2. 加納永井家当主
初代 永井 尚庸(なおつね)【1631~1677】
永井尚政の三男、母は内藤清成の娘。
1641年(11)に三代将軍 徳川家光に仕え、のち将軍家世子家綱の小姓となり、1652年(22)に蔵米千俵を与えられました。
1658年(28)父の隠居に伴い河内国内で二万石を分け与えられ、蔵米は収公されました。1663年(33)に大坂加番となり、1664年(34)に「本朝通鑑」編修の奉行をつとめ、1665年(35)に奏者番、さらに若年寄に進みました。
国立公文書館創立40周年記念貴重資料展Ⅰ 歴史と物語 11.本朝通鑑
二代 永井 直敬(なおひろ)【1664~1711】
永井尚庸の長男、母は太田資宗の娘。
1677年に14歳で家督相続し、1683年(20)に大坂加番、1685年(22)に奏者番となり、1687年(24)に下野烏山藩主となりました。1694年(31)に弟尚附に五百俵を分け与え、その後寺社奉行となりました。
三代 永井 尚平(なおひら)【1697~1714】
永井直敬の二男、母は永井直右の娘。
1711年に15歳で武蔵岩槻藩を相続しました。このとき弟の尚英(のち直陳)に千石の地および新墾田五百石、同じく尚方に千石を分与し、三万二千石となりました。享年18。
四代 永井 直陳(なおのぶ)【1698~1762】
永井直敬の三男、母は永井直右の娘。はじめ尚英。
1715年(18)、1724年(27)、1729年(32)、1732年(35)、1737年(40)、1743年(46)、1745年(48)、1757年(60)と8回も大坂加番をつとめました。
1720年(23)に岩槻城下にある時の鐘が傷んだため改鋳させたという。
1728年(31)に八代将軍 徳川吉宗が日光社参する際、岩槻城に宿泊しました。1739年(42)に奏者番となり、1756年(59)に美濃加納に転封となりました。1759年(62)に奏者番を辞し、1762年に65歳で隠居しました。享年65。
永井 尚俶(なおよし)【1726~1756】
永井直陳の長男、母は松平(形原)信庸の娘。父に先立ち没しました。享年31。
永井 尚志(なおゆき)【1732~1761】
永井直陳の二男、母は松平(形原)信庸の娘。兄尚俶没後に世子となるも父に先立ち没しました。享年30。
妻は出羽山形藩主 松平(大給)乗佑の娘。長女は叔父松平(大給)乗完の養女となりました。
五代 永井 尚備(なおみち)【1743~1769】
旗本 永井尚方の子、母は織田信栄の娘。
1761年(19)に伯父直陳の婿養子になり、1762年に20歳で美濃加納藩を相続しました。1765年(23)、1768年(27)に大坂加番となり、2回目の勤め中に急逝しました。享年27。
正室は永井直陳の養女(直陳の長男尚俶の娘)。
六代 永井 尚旧(なおひさ)【1768~1790】
永井尚備の子、母は永井尚俶の娘。名は直旧とも。
七代 永井 尚佐(なおすけ)【1782~1839】
永井尚備の二男太田直熹の子。はじめ直弼。
伯父尚旧の養子となり、1790年にわずか9歳で美濃加納藩を相続しました。1800年(19)、1816年(35)と大坂加番をとつめ、1819年(38)に奏者番となり、1827年(46)に西ノ丸若年寄、1832年(51)に本丸若年寄に進み、1837年(86)に大御所徳川家斉付きをつとめました。享年58。
正室は下野宇都宮藩主 戸田忠寛の娘。
八代 永井 尚典(なおのり)【1810~1885】
永井尚佐の子、母は戸田忠寛の娘。
1839年に30歳で美濃加納藩を相続しました。江戸城二ノ丸火番役、外桜田門番役などをたびたびつとめ、1861年(52)にアメリカ仮公使館となった江戸麻布の善福寺の警備役となり、ついで奏者番をつとめました。1862年に53歳で隠居しました。享年76。
九代 永井 尚服(なおこと)【1833~1885】
正室は永井尚典の娘 鋭子。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
それでは、今日はここまで。
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