探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

御三家 水戸藩 徳川家

こんにちは、勘矢です。

今日は御三家の水戸藩について書きたいと思います。

 

 

1. 武田家と頼宣家の時代~徳川頼房入封前~

 佐竹家は平安時代の頃から常陸国に土着した清和源氏の一族です。戦国期の当主佐竹義宣は、関ヶ原の戦いに中立的立場をとったため常陸の所領を没収され、出羽国に転封され久保田藩を立藩しました。
 その後、徳川家康の五男武田信吉が十五万石で下総佐倉から移ってきました。甲斐の武田氏滅亡後、穴山梅雪の子勝千代が武田の名跡を継ぐも早世し、母親が武田氏にゆかりがあることから信吉が武田の名跡を継いだので武田と名乗りました。しかし、江戸幕府が開かれた年に信吉は病弱であったため21歳で死去します。嗣子がいないため武田家は断絶となりました。
 信吉の領地は弟の頼宣(家康十男)に与えられました。石高は信吉よりも多い二十万石です。頼宣は家康のお気に入りだったのか、大御所の居城がある駿河を与えました。

 

2. 水戸徳川家の相続

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水戸藩主一覧

 黒丸は養子を表します。カッコは数え年を表します。

 頼宣が水戸を去ると、弟の頼房が常陸下妻から移ってきました。石高は二十五万石のちに加増されて二十八万石。藩主就任時の平均年齢は20.1歳と御三家の中では一番若く、40代を過ぎて藩主に就任した人はいませんでした。歴代藩主の数も御三家の中では一番少なく、実子による相続が他の御三家よりも多いです。

 頼房は生涯正室を持ちませんでしたが、側室との間に多くの子を儲けました。そして、御三家としては多くの分家があります。長男頼重の讃岐高松藩、四男頼元の陸奥守山藩、五男頼隆の常陸府中藩、七男頼雄の常陸宍戸藩です。

 頼房のあとを三男光圀が相続します。テレビドラマでおなじみの水戸黄門です。水戸黄門とは水戸藩主で権中納言という意味なので、実際には光圀のほかにも6人います。頼房、綱条、治保、斉脩、斉昭、慶篤です。本来であれば頼房長男の頼重が継ぐはずでしたが、頼重が生まれた時点で、尾張紀州共に男子がいなかったため頼重の存在は隠されていました。光圀は兄の子と自分の子を入れ替えてそれぞれの後継者としました。はじめは頼重の長男綱方を養子に迎えるも相続前に死去し、その弟の綱条(頼重次男)を養子に迎えました。

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水戸徳川家系図


 光圀が隠居すると綱条が相続しました。綱条の頃に表高が三十五万石になりました。綱条には吉孚という後継者がいましたが先立ちました。甥の讃岐高松藩主松平頼豊の長男宗尭を養子に迎え、孫娘の美代姫と結婚させています。

 宗尭のあとを長男宗翰が相続しました。母は美代姫です。宗翰のあとを長男治保が相続しました。治保のあとを長男治紀が相続しました。治紀のあとを長男斉脩が相続しました。

 ここまでの4代は長男が相続してきましたが、斉脩には嗣子がなかったため、後継者問題が起きました。保守門閥重臣は、将軍家斉の二十一男斉彊(清水家当主)を養子に迎えることを考えましたが、下級藩士は弟斉昭を推しました。斉脩の遺書により斉昭が継嗣となりました。

 斉昭が藩主になると改革を行い、藩校弘道館偕楽園なども建設しました。斉昭は子だくさんで成長した男子は他家に養子に出ています。最後将軍慶喜は斉昭の七男です。
 斉昭のあとを長男慶篤が相続しました。慶篤は江戸城明け渡しの頃に死去しました。15代将軍慶喜の名代としてパリ万博に参加し、ヨーロッパの国々を訪問中の弟昭武(斉昭十六男・清水家当主)に対して、新政府は水戸家を相続する命令を出しました。元将軍の名代がヨーロッパにいることは、新政府側としては都合が悪かったのでしょう。昭武は帰国後に水戸藩を相続し、その後、知藩事となりました。

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弘道館

それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。