探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

盛岡藩南部家

こんにちは、勘矢です。

今回は盛岡藩南部家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 戦国時代までの南部氏

(1)南部氏のはじまり

 南部氏は甲斐国巨摩郡南部郷(山梨県南巨摩郡南部町)の発祥で、清和源氏武田氏の一族加賀美遠光の子 光行が祖という。1189年、光行は源頼朝に従い奥州藤原氏討伐で戦功をあげ、陸奥国糠部郡の地頭になったというが詳細は不詳である。光行には六子あり、二男実光の子孫が嫡流で三戸南部氏といい、三男実長の子孫は八戸南部氏という。他の4人はそれぞれが本拠とした地名から行朝は一戸、朝清は七戸、宗朝は四戸、行連は九戸をそれぞれ称した。
 
南部 光行(みつゆき)【?~1215】
 加賀美遠光の三男。陸奥南部氏の祖。
 

南部氏略系図(戦国時代まで)

(2)八戸南部氏

 南北朝時代、三戸南部氏は北朝に属し、八戸南部氏は南朝に属した。三戸南部氏の古記録は2度の居城の火災により古記録の大半を失ったらしく不明なことが多い。八戸南部氏の師行・政長兄弟は南朝方として活躍し、一族の主導権を握った。
 1457年、蠣崎蔵人の乱が起きると八戸南部の政経は田名部に侵攻して一帯を制圧し、田名部全土を所領に加えられた。その後の八戸南部氏は短命の当主が続き衰退していき、江戸時代のはじめに八戸から遠野に移され一万二千石余を知行し、遠野南部氏と呼ばれた。
 
南部 師行(もろゆき)【?~1338】
 南部政行の二男。母の兄である南部長継の養子。和泉国内で高師直軍と戦い戦死。
 
南部 政長(まさなが)【?~1360】
 南部政行の子。新田義貞の鎌倉攻めに加わり、その後、陸奥での南朝勢力の中心となった。
 
南部 信光(のぶみつ)【?~1376】
 南部信政の子。祖父政長の跡を継ぎ、八戸を拠点に南朝勢力の中心となった。
 

八戸南部氏略系図(戦国時代まで)

 

(3)三戸南部氏

 室町時代に入ると三戸南部氏は盛り返していき、1534年に晴政は閉伊郡(岩手県遠野市釜石市など)を平定し、その後南下して戸沢氏から岩手郡を奪い、さらに出羽の秋田氏と鹿角郡秋田県鹿角市)の領有をめぐって争った。晴政・晴継父子が相次いで没すると家督相続をめぐって家中対立がおこり、九戸政実・石川政信らを退けて、晴政の従弟で娘婿の信直が当主の座についた。
 

(4)南部信直

 信直は津軽郡代をつとめた石川城主石川高信の嫡男で、中興の祖といわれる。信直の相続した1582年に本能寺の変が起き、その後、豊臣秀吉の勢力が強大になっていくと、秀吉と誼を通じた。1587年に斯波氏滅亡させ勢力を拡大するが、翌年に津軽郡代で実弟の石川政信が没するとその補佐役の大浦為信が叛き、1590年の小田原の陣の際に為信は信直より先に秀吉の元に参陣して、津軽四郡の本領安堵され独立した。その3日後に信直は秀吉から本領安堵された。
 1591年に九戸政実が叛くと嫡男利直を上洛させて奥羽情勢を報告させ、さらに信直自らも上洛して秀吉に情勢を報告し、直ちに帰国した。秀吉は同年に蒲生氏郷伊達政宗に奥州一揆の鎮圧を命じていたが、さらに秀吉の甥秀次を総大将とする大軍を派兵し、九戸城は落とされ九戸方の者は完全に滅ぼされた。
 翌年、秀吉による朝鮮出兵が行われると、信直は九州名護屋に出陣したが渡海はしなかった。その後、秀吉から盛岡城築城の許可を得て築城がはじまるも、信直完成を見ぬまま1599年に没した。
 
南部 信直(のぶなお)【1546~1599】
 石川高信の嫡男。三戸城主で、九戸政実を滅ぼすとその居城を再興し、福岡城と改称した。享年54。正室南部晴政の娘。
 
 

2. 陸奥盛岡藩南部家

(1)盛岡藩の成立と藩の分裂

 1599年南部信直が没するとその嫡子利直が家督相続した。1600年会津主上杉景勝征伐では最上義光を支援するため山形城に出陣したが、その虚に乗じて和賀稗貫一揆が起こった。翌年一揆を鎮圧し、城下町を整備するなど藩政の確立につとめた。
 利直の跡は三男重直が継ぎ、領内の検地・年貢や諸税、城代や代官制など藩庁機構の確立につとめた。しかし、気性が激しく、気に入った新規の家臣を召し抱え、何の落度もない家臣を解雇し、重臣らが諫言するも耳を貸さなかった。また、幕府の法令を無視して処罰を受けた。
 重直は相続人を故意に定めずに没したため南部家は断絶になるところであったが、長い歴史を持つ家柄であり、利直の徳川家に対する忠勤があったことから断絶を免れた。幕府は重直の弟で支族七戸家を相続していた七戸隼人(のち重信)に盛岡藩八万石、同じく中里家を相続していた数馬(のち直房)に二万石を分与して八戸藩を立藩させた。
 重信は領内を三十三通の区域に分け、各通に代官を派遣して地方行政制度を確立させた。1683年の総検地の実施により新田二万石が加増され、再び十万石に復した。
 
初代 南部 利直(としなお)【1576~1632】
 南部信直の長男、母は側室 泉山氏。享年57。
 在職期間:1600年(25)~1632年(57)
 正室陸奥会津城主 蒲生氏郷の養女。
 
二代 南部 重直(しげなお)【1606~1664】
 南部利直の三男、母は蒲生氏郷養女。享年59
 在職期間:1632年(27)~1664年(59)
 
三代 南部 重信(しげのぶ)【1616~1702】
 南部利直の五男、母は側室 花輪氏。はじめ支族七戸家相続。享年87。
 在職期間:1664年(49)~1692年(77)隠居
 正室は玉山秀久の娘。
 

南部氏略系図盛岡藩
 

(2)藩財政窮乏

 四代行信は父重信が盛岡藩を相続すると嫡子となり、1692年に父の隠居により家督相続した。1694年に弟政信に新田五千石、勝信に新田三千石を分与した。その後、大凶作・大飢饉によって多くの餓死者を出し、藩財政は逼迫した。行信の嫡子実信は早世したため、七男信恩が盛岡藩を相続した。大凶作や元禄地震によって破損した江戸藩邸修理などで藩財政は極度に窮乏した。
 六代利幹は沖弥市右衛門を登用して財政再建をすすめて一応の成果を収めたが、強引な諸事断行によって家臣の恨みを買った。七代利視は若年のため藩政を家老中野吉兵衛に委託し、先代が登用した沖らを一掃したため、藩財政は破綻した。利視は親政を布き、新田開発などを行い、藩政の建て直しにつとめた。
 八代利雄の代になっても藩財政状況は変わらず、藩政は家老に委ねたままで、利雄は俳諧などの風流を楽しんでいた。利雄の嫡子利謹は廃嫡となったため、分家旗本家を相続していた信由が養子となって相続し、利正と改名した。天明の飢饉による被害は深刻で、藩財政窮乏は続いた。
 
四代 南部 行信(ゆきのぶ)【1642~1702】
 南部重信の三男、母は玉山秀久娘。享年61。
 在職期間:1692年(51)~1702年(61)
 正室長門長府藩主 毛利光広の娘。
 
南部 実信(さねのぶ)【1676~1700】
 南部行信の子、毛利光広の娘。父に先立って没した。享年25。
 
五代 南部 信恩(のぶおき)【1678~1707】
 南部行信の七男、母は側室 岩井氏。七戸城代になって二千石を領有し、兄実信没後に嫡子。享年30。
 在職期間:1702年(25)~1707年(30)
 正室長門長府藩主 毛利綱元の娘(先代正室の姪)。
 
六代 南部 利幹(としもと)【1689~1725】
 南部行信の子、母は側室 岩間氏。はじめ三戸を称し、のちに兄信恩の養子となった。享年37。
 在職期間:1708年(20)~1725年(37)
 正室阿波富田藩主 蜂須賀隆長の養女(隆長の義妹)。
 
七代 南部 利視(としみ)【1708~1752】
 南部信恩の三男、母は側室 黒澤氏。叔父利幹の養子となった。享年45。
 在職期間:1725(18)~1752(45)
 正室は播磨姫路藩主 榊原政邦の娘。
 
八代 南部 利雄(としかつ)【1725~1779】
 南部利幹の長男、母は側室 橋本氏。従兄利視の養子となった。享年55。
 在職期間:1752年(28)~1779年(55)
 正室は加賀金沢藩主 前田吉徳の養女(加賀大聖寺藩主 前田利章の娘)。
 
南部 利謹(としのり)【1746~1814】
 南部利雄の子、母は前田吉徳の養女。1774年(29)に廃嫡。享年69。
 正室筑前福岡藩主 黒田継高の娘。
 
九代 南部 利正(としまさ)【1752~1784】
 南部利視の七男、母は側室 瀬山氏。初名は信由。はじめ分家旗本家を相続。義兄利雄の養子となった。享年33。
 在職期間:1780年(29)~1784年(33)
 正室は分家旗本 南部信起の娘。
 

(3)高直しと二人の南部利用

 利正が没するとわずか3歳で利敬が相続したので、藩政は重臣らの合議制で行われた。1799年に東蝦夷地警備を命ぜられ、1804年に異国船警備ため領内沿岸に藩兵を配置するなどしたため、藩財政はさらに悪化した。1808年には高直しで二十万石とされたため、従来の2倍の負担となった。
 利敬には世継ぎがなかったため、従兄弟信丞の子駒五郎を養子とした。駒五郎は吉次郎利用と改名し、1820年家督相続したが、翌年に15歳で没してしまった。幕府は大名家の当主が17歳未満で亡くなった場合、原則として相続を認めなかった。しかし、将軍家には未だ謁見していなかったことを幸いにその死を秘匿して、従兄にあたる善太郎を身代わりに立てた。
 利用は藩主就任したばかりで将軍家にも謁見していないため無位無官であったが、かつて家臣筋であった弘前藩津軽寧親が従四位侍従に叙任されていた。これに憤慨した盛岡藩浪人 下斗米秀之進(相馬大作)は1821年に帰藩する寧親の大名行列の襲撃を企図したが未遂に終わった。この年の12月、利用は従四位下大膳大夫に叙任された。
 
十代 南部 利敬(としたか)【1782~1820】
 南部利正の二男、母は側室 田中氏。初名は信敬。享年39。
 在職期間:1784年(3)~1820年(39)
 正室は安芸広島藩主 浅野重晟の娘。
 
十一代a 南部 利用(としもち)【1807~1821】
 南部信丞の子。駒五郎、吉次郎。父の従兄弟利敬の養子となった。享年15。
 在職期間:1820年(14)~1821年(15)
 
十一代b 南部 利用(としもち)【1803~1825】
 南部信浄の子、母は三戸信居娘。善太郎。はじめ信丞の養子となり、吉次郎利用が急逝すると身代わりとなり相続。享年23。
 在職期間:1821年(19)~1825年(23)
 正室長門萩藩主 毛利斉広の娘。
 
参考:近世こもんじょ館 二人の南部利用 2 二人目の利用 養徳院殿
 

(4)幕末の混迷期

 十一代利用は1822年に八代利雄の嫡子だった利謹の子 三戸修礼を養子とし、1825年に利用が没すると修礼は利済と改名して家督相続した。利済の頃は北方警備が非常に重要なものであり、逼迫した藩財政のため、農民に過重な負担をかけていった。農民は負担に耐えかねてしばしば大規模な打ち毀しなどを起こした。1847年に大規模な農民一揆が起こり、幕府にもこのことが知られることになったので、その責任を問われて翌年隠居した。
 利済の隠居により嫡男利義が家督相続した。利義は水戸藩主の徳川斉昭らに将来を期待され、洋式砲術を修練し、軍事教練を行った。しかし、隠居の利済は依然として藩政の実権を握り、父に反抗して改革を進めた利義はわずか1年あまりで隠居させられた。その後、粗暴の行為が多いため江戸藩邸に監禁され、明治維新後に盛岡に帰った。
 利義の隠居によりその弟の利剛が家督相続したが、依然として藩政の実権は父利済が握っていたが、1853年に再度大規模な一揆が起こりその鎮圧後、幕府は利済に謹慎を命じた。
 利剛は楢山佐渡と東中務を登用して藩政改革を実施した。奥羽地方にも戊辰戦争の戦火が近づく頃、藩内は勤皇・佐幕に分裂していたが、家老の楢山佐渡により佐幕に藩論を統一して奥羽越列藩同盟に加わった。隣の久保田藩が同盟を離脱すると楢山佐渡が総大将となって久保田藩を攻撃したが、新政府の援軍が到着すると盛岡藩は敗れて降伏した。
 1868年9月利剛は領地没収のうえ隠居謹慎を命じられ、12月に嫡子利恭が十三万石に減封されて家督相続を許されたが、翌年6月に陸奥白石へ転封を命じられて白石藩知事に任ぜられた。翌7月に七十万両の献金を条件に旧領盛岡への復帰を認められ、盛岡藩知事に任ぜられた。1870年7月に知藩事を退き、他藩に先がけて廃藩となった。
 
十二代 南部 利済(としただ)【1797~1855】
 南部利謹の子。父の没後仏門に入り、その後還俗して三戸修礼。享年59。
 在職期間:1825年(29)~1848年(52)隠居
 正室は南部利敬の養女(上野高崎藩主 松平(大河内)輝延の娘)、継室は楢山隆冀の妹。
 
十三代 南部 利義(としとも)【1823~1888】
 南部利済の長男、母は楢山隆冀の妹。諱は信侯ともいう。享年66。
 在職期間:1848年(26)~1849年(27)隠居
 正室は近江彦根藩井伊直亮の養女(南部利用の娘)。
 
十四代 南部 利剛(としひさ)【1826~1896】
 南部利済の三男、母は楢山隆冀の妹。初名は謹敦。享年71。
 在職期間:1849年(24)~1868年(43)隠居
 
十五代 南部 利恭(としゆき)【1855~1903】
 南部利剛の長男、母は側室 宮氏。初名は剛毅。享年49。
 在職期間:1868年(14)~1870年(16)※1869年より藩知事
 正室は伊予宇和島藩伊達宗城の娘、継室は越後新発田藩主 溝口直溥の娘、継々室は安芸広島藩一族 浅野懋昭の娘。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 中世武士選書 35 南部信直 戦国の北奥羽を制した計略家(森嘉兵衛 著/戒光祥出版)
 現代華族譜要(日本史籍協会 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 続徳川実紀 第2篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。