こんにちは、勘矢です。
1. 伊達氏のはじまり
伊達氏は藤原北家山陰流の後裔と言われ、実宗が常陸国真壁郡伊佐荘(茨城県筑西市)に住んで伊佐氏を称し、その五代の孫 朝宗が源頼朝の奥州征伐に従軍して功をあげて、陸奥国伊達郡(福島県伊達郡)を与えられて伊達氏を称し、高子岡城を本拠とし伊達郡の地頭になりました。
行朝の孫 政宗の代に、鎌倉公方足利満兼は弟満直・満貞を奥州に送り込み、それぞれ篠川御所(福島県郡山市)、稲村御所(福島県須賀川市)を拠点として、奥羽の支配を目論みましたが、政宗は室町幕府と結んでこれらの鎌倉公方側と2度にわたって戦いました。勢力を拡大し、伊達氏の中興の祖とされました。
伊達 行朝(ゆきとも)【1291~1348】
伊達基宗の子。享年58。妻は田村氏の娘。
伊達 政宗(まさむね)【1353~1405】
伊達宗遠の子。大膳大夫。享年53。
伊達 持宗(もちむね)【1393~1469】
伊達氏宗の子。享年77。
持宗以降輝宗までの当主は代々将軍の一字を拝領しました。持宗は四代将軍義持、成宗は八代将軍義成(のち義政)、尚宗は九代将軍義尚、稙宗は十代将軍義稙、晴宗は十二代将軍義晴、輝宗は十三代将軍義輝からとなります。
足利将軍、鎌倉公方などについては、こちらもご覧ください。
2. 戦国時代の伊達氏
稙宗は、三男 実元を越後上杉家へ入嗣させようとしていましたが、それに晴宗が阻止しようとして父子の対立となりました。天文の乱と呼ばれたこの乱は、周辺の大名などを巻き込みました。稙宗は相馬顕胤などの娘婿が中心勢力となり、対する晴宗は譜代家臣が中心勢力となりました。数年にわたる戦いの結果、稙宗は敗れて隠退しました。
晴宗は居城を米沢に移して、奥州探題となり権力の集中・強化を図りましたが、二男 輝宗と対立し、1564年頃に隠退しました。
輝宗は家督相続して米沢城主となり、相馬氏や蘆名氏・佐竹氏などと戦いました。隠居した翌年の1585年に二本松の畠山義継に拉致され、救出に向かった伊達勢の銃撃で義継とともに最期をとげました。
伊達 稙宗(たねむね)【1488~1565】
伊達尚宗の子。享年78。
妻は蘆名盛高の娘。
伊達 晴宗(はるむね)【1519~1577】
伊達稙宗の長男。享年59。
妻は岩城重隆の娘。
伊達 輝宗(てるむね)【1544~1585】
伊達晴宗の二男。享年42。
妻は最上義守の娘 義姫。
3. 独眼竜政宗
輝宗の長男 政宗は父に従って相馬氏との戦いで初陣しました。翌年、畠山義継が父を拉致すると、義継を父もろとも銃撃して倒しました。そして、佐竹・蘆名の連合軍と人取橋で戦い、父の仇の二本松畠山氏を滅ぼし、摺上原の戦いで蘆名義広を打ち破って会津黒川城(鶴ヶ城)に入り、奥羽中南部を制覇しました。
伊達 政宗(まさむね)【1567~1636】
伊達輝宗の子、母は最上義守の娘 義姫。享年70。
妻は田村清顕の娘 愛姫。
参考文献:
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
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