探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

永井一族

こんにちは、勘矢です。
今回は永井一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 永井氏とは

 桓武平氏で平安末期の武士長田忠致の弟親政の末裔といい、戦国時代の重元は三河国大浜郷(愛知県碧南市)の領主で、松平広忠に仕えた。1582年の本能寺の変後、堺にいた徳川家康が伊賀越えで三河国に戻ったとき、館に迎えたという。
 その子直勝は、はじめ家康の嫡男信康に近侍し、その後家康に仕えた、このとき、先祖の長田忠致源義朝を謀殺した家号であることから、家康の命で永井氏に改姓した。1590年の徳川氏関東入国の際に五千石を与えられ、1616年に上野小幡(群馬県甘楽郡甘楽町)で一万七千石となり諸侯に列した。その後、常陸笠間(茨城県笠間市)三万二千石、下総古河(茨城県古河市)七万二千石となった。
 長男尚政は1619年に父とは別に下総潤井戸(千葉県市原市)で一万五千石を与えられ立藩。その後老中となり二万四千五百石に加増された。1626年に家督相続すると父の遺領を合わせて八万九千百石となり、1633年に山城淀(京都府伏見区)十万石となった。
 三代尚征は分知したので七万三千六百石となり、1669年に丹後宮津(京都府宮津市)に転封。その子尚長は1680年に芝増上寺で行われた四代将軍 徳川家綱の法会の奉行をつとめていたとき、鳥羽藩主の内藤忠勝によって殺害され除封となった。
 

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永井氏略系図
 
 

2. 永井宗家

初代 永井 直勝(なおかつ)【1563~1625】
 長田重元の子、母は鈴木弥右衛門の娘。
 1584年(22)の小牧長久手の戦いで敵将池田恒興を討ち取りました。1590年(28)の徳川氏関東入国の際に相模・上総国内で五千石を与えられました。1592年(30)の朝鮮出兵肥前名護屋に出陣、1600年(38)の関ヶ原の戦いにも従軍し、その後近江国内で二千石を加増されました。この頃に、細川藤孝から室町時代の古式、礼儀故実ついての講義を受け、「室町家式(三巻)」をまとめて徳川家康に提出しました。
 大坂の両陣にも従軍し、その功により1616年(54)に一万石を加増されて上野小幡一万七千石で諸侯に列し、1617年(55)にも加増されて常陸笠間で三万二千石となりました。1619年(57)に広島藩主の福島正則が改易されるとき、安藤重信、本多忠政とともに城請け取りの上使役をつとめ、二万石を加増されて五万石となりました。1622年(60)に出羽山形の最上義俊が改易されるとき、本多正純とともに城請け取りの上使役をつとめ、二万石を加増され、下総古河で七万二千石となりました。享年63。
 正室は徳川家家臣 阿部正勝の娘。
 
二代 永井 尚政(なおまさ)【1587~1668】
 永井直勝の長男、母は阿部正勝の娘。
 1600年(14)の関ヶ原の戦いに父とともに出陣し、1602年(16)に常陸国内で千石を与えられました。1615年(29)の大坂夏の陣では使番として活躍し、その後、小姓組番頭に取り立てられ、1616年(30)に武蔵・近江国内で四千石を加増、1619年(33)に一万石の加増があり、上総潤井戸で一万五千石で諸侯に列しました。
 1622年(36)に老中に任じられ、その後の加増により二万四千石となりました。1623年(37)に二代将軍 徳川秀忠が世子家光に将軍職を譲って江戸城西ノ丸に移ると、井上正就、板倉重宗とともに西ノ丸の老中となりました。
 1626年に40歳で下総古河藩を相続し、弟直清に三千五百石、直貞に三千三百石、直重に三千二百石を分与し、これまでの所領と合わせて八万九千百石となりました。1632年(46)に大御所秀忠が没したので老中は解任となり、翌1633年(47)に加増されて山城淀 十万石へ転封となりました。
 1637年(51)の島原の乱に際しては京都の守護にあたり、1653年(67)に禁裏造営などの奉行をつとめました。1658年に72歳で隠居しました。享年82。
 正室は徳川家家臣 内藤清成の娘。
 
三代 永井 尚征(なおゆき)【1614~1673】
 永井尚政の長男、母は内藤清成の娘。
 1658年に45歳で山城淀藩を相続しました。このとき、弟尚庸に二万石、直右に七千石、尚春に三千二百石余、尚申に三千石を分与し、七万三千六百石となりました。1669年(56)に丹後宮津に転封となりました。享年60。
 正室長門府中藩主 毛利秀元の娘。
 
四代 永井 尚長(なおなが)【1654~1680】
 永井尚征の三男。
 1674年に21歳で丹後宮津藩を相続しました。1679年(26)に奏者番となり、1680年(27)に芝増上寺で行われた四代将軍 徳川家綱の法会の奉行をつとめていたとき、鳥羽藩主の内藤忠勝によって殺害され除封となりました。享年27。
 正室遠江浜松藩主 青山宗俊の娘(離婚)。
 

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宮津城城門(移築)
 

3. 永井尚長と内藤忠

 永井尚長と内藤忠勝は縁戚関係にある。尚長の祖母は内藤清成の娘で、祖母の従弟が内藤忠政で忠勝の父である。忠勝の祖父忠重の父は内藤忠政といい、はじめ子に恵まれなかったので清成を養子に取った。忠政が50過ぎてから生まれたのが忠重で、清成とは兄弟関係であるが年齢は親子ほど違う。忠重と永井尚政が同じ年代となる。
 永井家、内藤家はともに徳川家康の元で幕府草創期に活躍しましたが、尚長と忠勝たちは一時の激情によって先祖の遺功を無にしてしまった。
 

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永井家・内藤家の関係図
鳥羽藩内藤家について以前書いた内容は下記リンクにあります。
 
 
 

4 .永井一族

 永井家の分家についてはこれまで数回に分けて書きました。
 

(1)大和櫛羅藩 永井家(宗家名跡相続)

(2)永井直勝の子の分家

 

(3)永井尚政の子の分家

 

(4)永井直勝の弟白元の系

 

(5)永井式部少輔家

初代 永井 直重(なおしげ)【1604~1682】
 永井直勝の四男、母は阿部正勝の娘。
 1618年(15)に召されて徳川秀忠に仕え御小姓となりました。1626年(23)に父の遺領から下総国内で三千二百石を分け与えられました。世子直頼が早世したので、一代で絶えました。享年79。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 永井尚政 数寄に通じた幕府の重鎮 深谷信子 著(宮帯出版社)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。