探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本 中野家~中野石翁の一族~

こんにちは、勘矢です。
今回は中野石翁の一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 旗本中野家

 家伝によると中野三郎景信の後裔という。戦国時代の守房は今川氏真に仕え、のち徳川頼宣に仕えた。清房のとき、藩主徳川吉宗が将軍家相続するときに従って御家人に列し、蔵米三百俵を賜って御小姓となった。
 清房の二男 清備は蔵米三百俵を賜って分家した。その子清茂(石翁)は、養女お美代が大奥に入って将軍家斉の寵愛を受けたことからなどから加増された。家斉没後、家斉の遺言書を捏造が発覚して石翁は登城差し止め、加増地は没収された。
 

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旗本中野氏略系図
 
 

(1)旗本:中野監物家

初代 中野 清房(きよふさ)【1696~1729】
 はじめ紀州藩において徳川吉宗に仕えて小姓をつとめました。1716年(21)に吉宗が将軍家を相続するときに従って御家人に列し、蔵米三百俵を賜り、御小姓となりました。1726年(31)小金原での狩りに従い、1728年(33)の日光社参に付き従いました。享年34。
 妻は紀伊家家臣 長屋兵助の娘。
 
二代 中野 清方(きよかた)【1723~1772】
 中野清房の長男、母は長屋兵助の娘。
 1729年にわずか7歳で家督相続しました。1736年(14)に一橋宗尹の小姓となり、1746年(24)に御小納戸に列しました。1760年(38)より二ノ丸につとめたが翌年御小納戸に復した。1765年(43)に小十人頭に転じ、1771年(49)に御先弓の頭にすすみ、その後盗賊追捕の役をつとめました。享年50。
 妻は旗本 平岡正頼の養女(御代官 万年正穀の娘)。
 
三代 中野 房彦(ふさよし)【1740~1776】
 中野清方の長男。
 1759年(20)に西ノ丸の御小納戸となり、のちに西ノ丸の御小姓に転じました。翌年本丸に移り、1762年(23)に将軍世子徳川家基の附属となり、1769年(30)に西ノ丸に家基が移るとそれに従いました。
 1772年に33歳で家督相続し、1774年(35)に辞職して寄合となりました。享年37。
 妻は旗本 内藤持就の娘。
 
四代 中野 清翰(きよふで)【1760~?】
 中野清方の六男、母は平岡正頼の養女。通称越前守。
 兄房彦の養子となり、1776年に17歳で家督相続しました。翌年に西ノ丸の御小納戸となりましたが、1779年(20)に家基が没すると寄合に列し、のち御小納戸となりました。
 1802年(43)に西ノ丸の御小納戸頭取、1811年(52)に御先手弓頭となり、1816年(57)に病のため辞職して寄合となりました。
 妻は旗本 久保田政邦の娘。後妻は旗本 久保田政邦の養女(旗本 伊吹嘉植の娘、嘉植は政邦の弟)。
 
五代 中野 清延(きよのぶ)【?~?】
 中野清翰の二男、母は久保田正邦の娘。通称佐太郎、監物。
 1808年に御書院番より御小納戸となり、1827年に将軍世子徳川家定の小納戸となりました。1845年に西ノ丸の御先手鉄砲頭、1853年に本丸御先手鉄砲頭となり、1855年に辞職しました。
 
六代 中野 清風(せいふう) 【?~?】
 中野清延の子。通称卯太郎、又左衛門。
 1839年に将軍世子徳川家定の御小姓組より御小納戸に移り、1841年に家定の御小納戸となりました。1853年に本丸御小納戸となり、1858年に辞職しました。1861年に隠居ヵ。
 
七代 中野 俊左衛門 (しゅんざえもん)【?~?】
 旗本 男谷信友の子。
 1861年家督相続し、小普請入。1862年講武所奉行支配、のち剣術教授方出役。1863年に御小姓組入、のち奥詰 講武所奉行支配。1864年に奥詰御免となり御小姓組帰番。
 
 

(2)旗本:中野定之助家

初代 中野 清備(きよとも)【1728~1765】
 中野清房の二男、母は紀伊家家臣 長屋兵助の娘。
 1743年(16)に召されて西ノ丸の御小姓組となり、蔵米三百俵を賜りました。1758年(31)に御徒頭となりました。享年38。
 妻は旗本 天野忠久の娘。後妻は旗本 瀬名貞栄の娘。
 
二代 中野 清茂(きよしげ)【1765~1842】
 中野清備の長男。
 1765年にわずか1歳で家督相続しました。1783年(19)に御小納戸に列しました。1802年(38)に御小姓となり、1806年(42)に御小姓頭取、1810年(46)に御小納戸頭取となりました。1822年(58)に五百石に加増され、1827年(63)に新番頭格となりました。
 1830年に66歳で隠居し、剃髪して碩翁と称しました。大御所徳川家斉の話し相手としてしばしば江戸城に登城したといわれる。1841年(77)に家斉が没すると登城を止められ、加増地も召し上げられ、向島に逼塞しました。
 妻は旗本 矢部定賢の娘。後妻は高家 宮原義潔の娘、旗本 川田貞興の娘。
 
三代 中野 清賢(せいけん)【?~?】
 中野定之助の子。通称欣三郎、播磨守。
 父が部屋住のまま没したため、祖父中野石翁の嫡孫となりました。1825年に将軍世子徳川家定の御伽を命じられ、1830年家督相続しました。1853年に本丸御小姓、1858年に徳川家茂の御小姓、1862年小十人頭となりました。1866年に御役御免となり勤仕並寄合となりました。
 
 

2. 家斉の側室 お美代の方と溶姫

お美代の方【?~1872】
 父は下総中山法華経寺智泉院の住職日啓で、中野石翁の養女となって大奥に入り、は1810年に中臈となった。十一代将軍徳川家斉の寵愛を受け、溶姫(加賀金沢藩主 前田斉泰室)、仲姫(早世)、末姫(安芸広島藩主浅野斉粛室)を生んだ。
 大奥での権勢が高まると、養父石翁は昇進し、実父が住職をつとめる智泉院も繁栄をきわめた。さらに将軍家祈祷所として谷中感応寺を再建、父日啓が住職となった。しかし、家斉が没するとその威光は陰り、智泉院・感応寺における風紀の乱れを摘発され、日啓と兄の日尚は遠島に処された。この件でお美代にはお咎めはなかった。
 その後、溶姫が産んだ前田犬千代(のち慶寧)を将軍の跡継ぎにつけるという陰謀を企てたが失敗に終わり、監禁された。のちに溶姫の嘆願で本郷の前田邸に押込となった。
 
溶姫(ようひめ)【1813~1868】
 徳川家斉の娘、母はお美代の方。名は諧子(もとこ)。
 1827年(15)に加賀金沢藩主前田斉泰と結婚した。その際、前田家の上屋敷の南に御守殿門が造営された。現在、東大赤門として残る。1830年(18)に嫡子慶寧(よしやす)を産んだ。
 

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東大赤門
 
※旗本各家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第4巻(東洋書林
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 日本人名大辞典(講談社
 知識ゼロからの大奥入門(山本博文著/幻冬舎
 カラー版徹底図解 大奥 将軍のために用意された秘密の空間(新星出版社)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。