探検!日本の歴史

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能登守護 畠山氏とその子孫 高家畠山家と上杉家

こんにちは、勘矢です。
今回は前々回の管領畠山家(管領 畠山氏 - 探検!日本の歴史)から分かれた能登畠山氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 能登畠山氏とは

 管領畠山基国の長男 満家は三代将軍 足利義満に疎まれたため、基国が没すると二男の満則(満慶)が宗家を継ぎました。その後、兄満家に家督を譲り、自らは能登一国の守護に任じられました。
 応仁の乱で義統は西軍に属し、のちに能登に下向して七尾城を築城し、ここを拠点にしました。
 義総の頃は政治的に安定していましたが、その後の義続・義綱父子が重臣によって追放されると、義綱の子義慶が擁立されました。1577年に越後の上杉謙信能登侵攻により滅亡しました。
 
 義綱の弟 義春は、1553年に越後上杉氏の人質となり、その後上杉謙信の養子となり上杉を称しました。その後、上杉景勝豊臣秀吉に仕え、摂津・河内において千五百石を知行しました。その後、徳川家康に仕えて旗本となり、畠山に復しました。
 その子 義真は加増されて三千二十石となりました。1663年に義里が奥高家に列せられました。その後の多くの当主が奥高家をつとめました。
 
 また、義春の二男 長員は上杉氏を継ぎ、1601年に徳川家康に仕えて旗本となり、下総・常陸において千四百九十石余を知行しました。1648年に長貞が奥高家に列せられました。
 

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能登畠山氏略系図
 
 

2. 能登畠山家当主一覧

畠山 満則(満慶)(みつのり)【1372~1432】
 畠山基国の二男。兄が三代将軍 足利義満に疎まれたため家督を継ぎ、河内・紀伊能登越中の守護となりました。義満が没すると兄に家督を譲り、能登一国の守護となりました。享年61。
 
畠山 義統(よしむね)【?~1497】
 畠山義有の子。父義有が早くに亡くなったため、祖父の跡を継ぎ、能登守護となりました。八代将軍 足利義政相伴衆もつとめました。応仁の乱では西軍につきました。1477年に能登に下向しました。
 
畠山 義総(よしふさ)【1491~1545】
 畠山慶致の子。一向一揆を鎮圧し、領国を安定させました。また、文芸を愛好していたので、文化が栄えました。享年55。
 
畠山 義綱(よしつな)【?~1593】
 畠山義続の長男。重臣の対立や反乱によって1566年に追放されました。
 
畠山 義慶(よしのり)【1556~1574】
 畠山義綱の長男。父が追放されたので、幼少で七尾城主となるが、実権は重臣たちが握りました。のちに重臣たちに毒殺されました。享年19。
 
畠山 義隆(よしたか)【?~1576】
 畠山義綱の子。兄の後を継ぐも2年後に病死しました。
 
畠山 春王丸【1572~1577】
 畠山義隆の子。上杉謙信に攻められ籠城中に病死しました。享年6。
 
 

3. 高家畠山家(畠山飛騨守家)

初代 畠山 義春(よしはる)【?~1643】
 畠山義続の二男。
 上杉謙信の人質となり、のちに上条上杉家を継ぎました。謙信の没後、景勝と不和となり越後を去りました。
 その後、豊臣秀吉に仕えて河内国内で五百石を賜り、のちに加増があり千五百石となりました。
 関ヶ原の戦いでは徳川家康に従い、その後畠山に復しました。
 妻は長尾政景の娘(上杉景勝の妹)。
 
二代 畠山 義真(よしざね)【1579~1674】
 畠山義春の三男、母は長尾政景の娘。
 1601年(23)に徳川家康に拝謁し、1617年(39)に大和国内で千五百石を加えられ、旧地及び私墾田を合わせて三千百二十石余を賜りました。1626年(48)の上洛のとき、御参内の供奉に列しました。1659年に81歳で隠居しました。享年96。
 
三代 畠山 義里(よしさと)【1621~1691】
 畠山義真の二男。
 1659年に39歳で相続しました。1663年(43)に奥高家となりました。度々使者として京都に赴きました。1683年(63)に肝煎となり、1686年(66)に辞職しました。享年71。
 妻は旗本 松平(大給)真次の娘。
 
四代 畠山 義寧(よしやす)【1663~1746】
 畠山義里の長男、母は松平真次の娘。
 1678年(16)に表高家に列し、1681年(19)に御小姓となりました。
 1686年に24で相続しました。1688年(26)に表高家となり拝謁をとめられました。1699年(37)に奥高家となり、度々使者として京都に赴きました。1729年(67)に辞職し、1733年に71歳で隠居しました。享年84。
 妻は上野七日市藩主 前田利意の娘。
 
五代 畠山 義躬(よしかた)【1688~1740】
 畠山義寧の長男。
 1733年に46歳で相続しました。享年53。
 妻は旗本 津軽政兕の娘。この津軽家は弘前藩の分家。
 
六代 畠山 義紀(よしとし)【1720~?】
 出羽米沢藩主 上杉吉憲の三男、母は山本氏。
 1740年に21歳で相続しました。1745年(26)に奥高家となり、度々使者として京都に赴きました。1762年(43)に肝煎となりました。1767年(48)に辞職し、1769年に50歳で隠居しました。
 妻は畠山義躬の娘。
 
七代 畠山 義福(よしとも)【1750~?】
 高家 畠山国祐の二男、母は堀川広益の娘。
 1769年に20歳で相続しました。表高家1802年に隠居しました。
 妻は常陸土浦藩主 土屋篤直の養女(旗本 戸田氏純の娘、氏純は篤直の弟)。
 
八代 畠山 義一(よしかず)【1775~1810】
 畠山義福の長男、母は土屋篤直の養女。修理。
 1802に相続しました。表高家。享年36。
 
九代 畠山 義宣【?~1852】
 畠山義福の子。庸蔵、長門守。
 1810年に相続しました。1814年に奥高家となりました。1842年に高家肝煎となりました。
 
十代 畠山 義勇【?~?】
 畠山義宣の子。庸蔵、飛騨守。
 1852年に相続しました。表高家1860年に奥高家となりました。
 

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高家畠山氏略系図能登系)
 
 

4. 高家上杉家(上杉音次郎家)

初代 上杉 長員(ながかず)【1582~1623】
 畠山義春の二男、母は長尾政景の娘。
 1601年(20)に徳川家康に拝謁し、のちに下総・常陸国内で千四百九十石余の知行地を賜りました。1604年(23)に徳川秀忠の仕えました。享年42。
 妻は旗本 大友義乗の娘。
 
二代 上杉 長政(ながまさ)【?~1628】
 上杉長員の長男。1623年に相続しました。
 
三代 上杉 長貞(ながさだ)【1623~1662】
 上杉長員の二男、母は大友義乗の娘。
 1628年にわずか6歳で兄の跡を相続しました。1648年(26)に奥高家となりました。度々、使者として京都に赴きました。1662年(40)に新院御所落成後、使者として京都に赴きました。しかし、内侍の宣旨を紛失したため自刃しました。享年40。
 妻は旗本 近藤用義の娘。この近藤家は2017年の大河ドラマおんな城主 直虎」に登場した近藤康用の子孫です。
 
四代 上杉 長之(ながゆき)【1644~1684】
 上杉長貞の長男、母は近藤用義の娘。
 1662年に19歳で相続しました。1665年(22)に奥高家となりました。度々、使者として京都に赴きました1683年(40)に辞職しました。享年41。
 妻は旗本 畠山義里の娘。
 
五代 上杉 長宗(ながむね)【1661~1685】
 上杉長之の長男、母は畠山義里の娘。
 1684年に24歳で相続し、奥高家となりました。享年25。
 
六代 上杉 義陳(よしつら)【1664~1705】
 上杉長之の二男、母は畠山義里の娘。
 1685年に22歳で兄の跡を相続し、寄合に列しました。享年42。
 妻は旗本 曾我助興の娘。寛政譜の曾我助興の項には上杉義陳の妻については記載なし。
 
七代 上杉 知義(ともよし)【1699~1752】
 高家 畠山義寧の三男、母は前田利意の娘。
 1705年にわずか7歳で従兄弟義陳の跡を相続し、寄合に列しました。1710年(12)に表高家に列し、1741年に43歳で隠居しました。享年54。
 妻は旗本 桑山基稠の娘。
 
八代 上杉 義枝(よしえだ)【1720~1742】
 伊予吉田藩主 伊達村豊の三男、母は瀧氏。
 1741年に22歳で相続し、表高家に列しました。享年23。
 妻は上杉知義の娘。
 
伊予吉田藩 伊達家についてはこちらをご覧ください。
 
九代 上杉 義寿(よしなが)【1742~1784】
 上杉義枝の長男、母は上杉知義の娘。
 1742年にわずか1歳で相続しました。1767年(26)に奥高家となりました。1769年(28)に辞職しました。享年43。
 妻は伊予吉田藩主 伊達村信の娘。
 
十代 上杉 義長(よしなが)【1773~?】
 上杉義寿の長男。中務大輔。
 1784年に12歳で相続しました。表高家。1809年(37)に高家となりました。
 1814年(42)に病にて辞職しました。1824年に52歳で隠居しました。
 妻は旗本 久世広民の娘。
 
十一代 上杉 義達【?~?】
 上杉義長の子。喜次郎、左近。
 1824年に相続しました。表高家。1842年に隠居しました。
 
十二代 上杉 義正【?~?】
 上杉義達の子。豊三郎。
 1842年に相続しました。1854年に隠居しました。
 
十三代 上杉 義礼【?~1861】
 上杉義正の子。悳丸、徳丸。
 1854年に相続しました。表高家
 
十四代 上杉 義光【?~?】
 上杉義礼の急養子。兵部、義為。
 1861年に相続しました。表高家
 
十五代 上杉 義順【?~?】
 近江山上藩 稲垣氏の厄介 稲垣次郎の長男。喜十郎。
 1865年に相続しました。
 

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高家上杉氏略系図
参考文献:
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション
 寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻、第4巻(東洋書林
 千葉いまむかし No.7(千葉市編集委員会
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。