こんにちは、勘矢です。
1. 能登畠山氏とは
義綱の弟 義春は、1553年に越後上杉氏の人質となり、その後上杉謙信の養子となり上杉を称しました。その後、上杉景勝、豊臣秀吉に仕え、摂津・河内において千五百石を知行しました。その後、徳川家康に仕えて旗本となり、畠山に復しました。
2. 能登畠山家当主一覧
畠山 満則(満慶)(みつのり)【1372~1432】
畠山 義統(よしむね)【?~1497】
畠山 義総(よしふさ)【1491~1545】
畠山慶致の子。一向一揆を鎮圧し、領国を安定させました。また、文芸を愛好していたので、文化が栄えました。享年55。
畠山 義綱(よしつな)【?~1593】
畠山 義慶(よしのり)【1556~1574】
畠山 義隆(よしたか)【?~1576】
畠山義綱の子。兄の後を継ぐも2年後に病死しました。
畠山 春王丸【1572~1577】
畠山義隆の子。上杉謙信に攻められ籠城中に病死しました。享年6。
3. 高家畠山家(畠山飛騨守家)
初代 畠山 義春(よしはる)【?~1643】
畠山義続の二男。
上杉謙信の人質となり、のちに上条上杉家を継ぎました。謙信の没後、景勝と不和となり越後を去りました。
二代 畠山 義真(よしざね)【1579~1674】
畠山義春の三男、母は長尾政景の娘。
1601年(23)に徳川家康に拝謁し、1617年(39)に大和国内で千五百石を加えられ、旧地及び私墾田を合わせて三千百二十石余を賜りました。1626年(48)の上洛のとき、御参内の供奉に列しました。1659年に81歳で隠居しました。享年96。
三代 畠山 義里(よしさと)【1621~1691】
畠山義真の二男。
1659年に39歳で相続しました。1663年(43)に奥高家となりました。度々使者として京都に赴きました。1683年(63)に肝煎となり、1686年(66)に辞職しました。享年71。
妻は旗本 松平(大給)真次の娘。
四代 畠山 義寧(よしやす)【1663~1746】
畠山義里の長男、母は松平真次の娘。
1678年(16)に表高家に列し、1681年(19)に御小姓となりました。
1686年に24で相続しました。1688年(26)に表高家となり拝謁をとめられました。1699年(37)に奥高家となり、度々使者として京都に赴きました。1729年(67)に辞職し、1733年に71歳で隠居しました。享年84。
妻は上野七日市藩主 前田利意の娘。
五代 畠山 義躬(よしかた)【1688~1740】
畠山義寧の長男。
1733年に46歳で相続しました。享年53。
六代 畠山 義紀(よしとし)【1720~?】
出羽米沢藩主 上杉吉憲の三男、母は山本氏。
1740年に21歳で相続しました。1745年(26)に奥高家となり、度々使者として京都に赴きました。1762年(43)に肝煎となりました。1767年(48)に辞職し、1769年に50歳で隠居しました。
妻は畠山義躬の娘。
七代 畠山 義福(よしとも)【1750~?】
高家 畠山国祐の二男、母は堀川広益の娘。
八代 畠山 義一(よしかず)【1775~1810】
畠山義福の長男、母は土屋篤直の養女。修理。
1802に相続しました。表高家。享年36。
九代 畠山 義宣【?~1852】
畠山義福の子。庸蔵、長門守。
十代 畠山 義勇【?~?】
畠山義宣の子。庸蔵、飛騨守。
4. 高家上杉家(上杉音次郎家)
初代 上杉 長員(ながかず)【1582~1623】
畠山義春の二男、母は長尾政景の娘。
妻は旗本 大友義乗の娘。
二代 上杉 長政(ながまさ)【?~1628】
上杉長員の長男。1623年に相続しました。
三代 上杉 長貞(ながさだ)【1623~1662】
上杉長員の二男、母は大友義乗の娘。
1628年にわずか6歳で兄の跡を相続しました。1648年(26)に奥高家となりました。度々、使者として京都に赴きました。1662年(40)に新院御所落成後、使者として京都に赴きました。しかし、内侍の宣旨を紛失したため自刃しました。享年40。
四代 上杉 長之(ながゆき)【1644~1684】
上杉長貞の長男、母は近藤用義の娘。
1662年に19歳で相続しました。1665年(22)に奥高家となりました。度々、使者として京都に赴きました1683年(40)に辞職しました。享年41。
妻は旗本 畠山義里の娘。
五代 上杉 長宗(ながむね)【1661~1685】
上杉長之の長男、母は畠山義里の娘。
1684年に24歳で相続し、奥高家となりました。享年25。
六代 上杉 義陳(よしつら)【1664~1705】
上杉長之の二男、母は畠山義里の娘。
1685年に22歳で兄の跡を相続し、寄合に列しました。享年42。
妻は旗本 曾我助興の娘。寛政譜の曾我助興の項には上杉義陳の妻については記載なし。
七代 上杉 知義(ともよし)【1699~1752】
高家 畠山義寧の三男、母は前田利意の娘。
1705年にわずか7歳で従兄弟義陳の跡を相続し、寄合に列しました。1710年(12)に表高家に列し、1741年に43歳で隠居しました。享年54。
妻は旗本 桑山基稠の娘。
八代 上杉 義枝(よしえだ)【1720~1742】
伊予吉田藩主 伊達村豊の三男、母は瀧氏。
1741年に22歳で相続し、表高家に列しました。享年23。
妻は上杉知義の娘。
伊予吉田藩 伊達家についてはこちらをご覧ください。
九代 上杉 義寿(よしなが)【1742~1784】
上杉義枝の長男、母は上杉知義の娘。
1742年にわずか1歳で相続しました。1767年(26)に奥高家となりました。1769年(28)に辞職しました。享年43。
妻は伊予吉田藩主 伊達村信の娘。
十代 上杉 義長(よしなが)【1773~?】
上杉義寿の長男。中務大輔。
1814年(42)に病にて辞職しました。1824年に52歳で隠居しました。
妻は旗本 久世広民の娘。
十一代 上杉 義達【?~?】
上杉義長の子。喜次郎、左近。
1824年に相続しました。表高家。1842年に隠居しました。
十二代 上杉 義正【?~?】
上杉義達の子。豊三郎。
1842年に相続しました。1854年に隠居しました。
十三代 上杉 義礼【?~1861】
上杉義正の子。悳丸、徳丸。
十四代 上杉 義光【?~?】
上杉義礼の急養子。兵部、義為。
十五代 上杉 義順【?~?】
近江山上藩 稲垣氏の厄介 稲垣次郎の長男。喜十郎。
1865年に相続しました。
参考文献:
名門・名家大辞典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻、第4巻(東洋書林)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。