探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本 小栗氏(源氏)~小栗上野介とその一族

こんにちは、勘矢です。
今回は小栗上野介の一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 清和源氏系小栗氏

 清和源氏義家流の小栗氏は元々松平一族で、戦国時代の吉忠が母方の小栗を称したことからはじまる。徳川家康に仕え、諸所の戦いで功をあげた。また、小牧の陣でも戦功をあげ、家康より具足、羽織を賜った。小田原の陣では病により参戦できなかったが、家康より采配を賜り、陣の後に没した。
 その子忠政も家康に従って各地で力闘し、つねに一番槍の功をたて、家康から又一の名を与えられたという。嫡流は二千五百石の知行地を与えられた。
 幕末の忠順(上野介)は、日米修好通商条約批准書交換の使節監察として渡米した。その後、外国・勘定・軍艦などの各奉行をつとめ、財政改革、軍制改革を行った。大政奉還に反対し、戊辰戦争では徳川慶喜に徹底抗戦をすすめた。最期は知行地の上野群馬郡で新政府軍に捕らえられて処刑された。
 
 分家は数家ある。忠政の二男 信由からはじまる小栗仁右衛門家は七百石余を知行した。信由は柳生流門下で「鞠身(きくしん)」といわれる秘術で知られる小栗流和(やわら)術の祖。旗本をはじめ多くの門人を抱えた。
 ほかに忠政の三男 信友からはじまる小栗又蔵家は五百石余、信友の四男 信盛からはじまる小栗又左衛門家は六百石、忠政の四男 忠次からはじまる小栗小十郎家は五百石などがある。
 

源氏系 旗本小栗氏略系図 1
 
 

2. 旗本小栗一族

(1)旗本:小栗又一家

初代 小栗 忠政(ただまさ)【1555~1616】
 小栗吉忠の長男、母は松平石見守の娘。
 1567年に徳川家康に仕えて御小姓をつとめ、1570年(16)の姉川の戦いで大功をあげて槍を賜りました。1572年(18)に御使番、のち大番頭、さらに鉄砲頭となりました。1578年(24)の田中城攻めで軍令違反を咎められて勘気を蒙り、大須賀康高の許に寓居しました。高天神城攻めで功を立て、1581年(27)に高天神城落城後に康高のとりなしで勘気を許されて御使番となりました。1584年(30)の長久手の戦いでも功をたて鎧を賜りました。
 1600年(46)の関ヶ原の戦いのでは島津家の騎馬武者を討ち取り、1614年(60)の大坂の冬の陣では御使番斥候役、翌年の夏の陣でも御使番軍監などを承り、この戦いで城中からの発砲で左股を打たれた。
 これより前に上野・武蔵・下総国内にて二千五百五十石を賜りました。享年62。
 妻は三河三奉行 天野康景の娘、後妻は常陸土浦藩主 松平(藤井)信一の娘。
 
二代 小栗 政信(まさのぶ)【1582~1658】
 小栗忠政の長男、母は天野康景の娘。
 1600年(19)の関ヶ原の戦いのとき、中山道を進む徳川秀忠に供奉しました。大坂の両陣にも供奉し、夏の陣では甲首を得ました。
 1616年に35歳で家督相続して二千石を知行し、弟信由に五百五十石を分け与えました。1625年(44)に御徒頭に移り、1633年(52)に甲斐国内で五百石を加えられ、二千五百石となりました。
 1649年(68)の放鷹のときに番所にいなかったことにより勘気を蒙り、父子ともに閉門となりました。1651年(70)にゆるされ、1652年(71)に旧職に復しました。1655年(74)に老齢により辞職しました。享年77。
 妻は渡邊監物の娘。
 
小栗 信勝(のぶかつ)【1607~1654】
 小栗政信の長男、母は渡邊監物の娘。
 1644年(38)に御小姓組の番士となりました。1649年(43)に父の事で連座して閉門となり、1651年(45)にゆるされました。1652年(46)に旧職に復しました。父に先立ち没しました。享年48。
 
小栗 信房(のぶふさ)【1610~1651】
 小栗政信の二男、母は渡邊監物の娘。
 1637年(28)に御小姓組に列し、のち徳川綱吉の附属となり、知行地四百石を賜りました。享年42。
 
三代 小栗 政重(まさしげ)【1641~1712】
 小栗信勝の長男。
 1658年に18歳で祖父の家督を相続し、小普請となりました。1682年(42)に御小姓組に列しました。また、上野国内の知行地を下野国内に移され、甲斐国内の知行を上野国内に移されました。享年72。
 妻は旗本 内藤政次の娘。この内藤家はのちに信濃岩村田藩主となった。
 
四代 小栗 信盈(のぶみつ)【1691~1763】
 小栗政重の長男、母は内藤政次の娘。
 1709年(19)に御書院番となり、1713年に23歳で家督相続しました。1719年(29)に辞職し、1735年に45歳で隠居しました。享年73。
 妻は旗本 高山利勝の娘。
 
五代 小栗 喜政(よしまさ)【1713~1744】
 小栗信盈の長男、母は高山利勝の娘。
 1735年に23歳で家督相続し、御書院番の番士に列しました。享年32。
 妻は旗本 千葉季珍の娘。喜政没後は、旗本 中川忠易の後妻となった。
 
六代 小栗 信顕(のぶあき)【1728~1804】
 小栗信盈の三男、母は高山利勝の娘。
 1744年に17歳で家督相続しました。翌年に西ノ丸の御書院番となりました。1755年(28)に故あって出仕を止められ小普請とされました。1788年(61)に再度西ノ丸の御書院番となり、1789年(62)に本丸に移り、1797年(70)に老齢により辞職しました。享年77。
 
小栗 忠顕(ただあき)【?~1800】
 小栗信顕の二男。妻は旗本 土屋匡直の娘。
 
七代 小栗 忠清(ただきよ)【1792~1813】
 小栗忠顕の長男、母は土屋匡直の娘。
 1804年に13歳で祖父より家督相続。享年22。
 
八代 小栗 忠高(ただたか)【1798~1855】
 中川忠英の四男。忠英の母は、五代喜政の妻千葉季珍の娘。
 忠清の婿養子となり、1813年に16歳で家督相続し、1826年(29)に御小姓の番士。
 1843年(46)に御小姓組より使番となり、その後西ノ丸の目付となりました。1845年(48)に留守居番、1847年(50)に持筒頭となり、1854年(57)に新潟奉行をつとめ、その地で没しました。享年58。
 妻は小栗忠清の娘 国子。
 

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小栗家・中川家 関係図
 
九代 小栗 忠順(ただまさ)【1827~1868】
 小栗忠高の子、母は小栗忠清の娘。
 1855年に29歳で家督相続し、1857年(31)に書院番進物番出役から使番となり、1859年(33)に目付外国掛、となり、日米修好通商条約を批准交換するため遣米使節を命じられ、諸大夫となりました。
 1860年(34)1月に出発し、9月に帰国しました。11月に外国奉行となり、遣米使節として尽力したことにより200石を加増され2700石となりました。1861年(35)対馬にロシア軍艦が停泊した際、対馬に赴き退去を要求するも目的を達せられず、その後、病のため免職されて寄合となりました。 
 
 1862年(36)3月に寄合より書院番頭、6月に勘定奉行勝手方となり、陸軍の軍制改革に参画しました。閏8月に町奉行となり、数日のち当分の内勘定奉行勝手掛兼帯し、12月に歩兵奉行と勘定奉行を兼帯しました。1863年(37)4月に免職されて寄合となり、7月に陸軍奉行並となるも半月ほどで免職されて勤仕並寄合となりました。
 1864年(38)8月に勘定奉行勝手方に再々任され、、12月に軍艦奉行並となるも、1865年(39)2月に免職されて寄合となりました。5月に勘定奉行勝手方に再々再任され、フランスから240万ドルを借款して横須賀に製鉄所・造船所・修船場の軍事施設の建設を開始しました。
 
 1866年(40)にはさらに600万ドルの借款をして陸軍の軍制改革に着手し、三井や鴻池などの江戸・大坂の巨商を通じて国内市場経済を掌握しようとした。8月に海軍奉行並を兼帯兼帯し、1867年(41)12月に陸軍奉行並を兼帯しましたが、江戸に戻った徳川慶喜へ強硬な主戦論を主張したため、1868年(42)1月に免職させられ、勤仕並寄合となり、2月に知行地の上州権田村に土着しましたが、閏4月に新政府軍に逮捕され烏川のほとりで斬刑に処せられた。享年42。
 妻は播磨林田藩主 建部政醇の娘 道子。
 

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小栗家江戸屋敷跡(千代田区神田駿河台1丁目)
 
 

(2)旗本:小栗仁右衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 小栗 信由(のぶよし)【1589~1661】
 小栗忠政の二男、母は天野康景の娘。名は正信とも。
 徳川家康に仕えて御小姓となり、のちに御膳番をつとめました。大坂の両陣に供奉しました。
 1616年(28)に父の領地より五百五十石を分け与えられました。その後、徳川秀忠に仕えて御小姓組の番士となりました。1633年(45)に上総国内で二百石を加増されて七百五十石となりました。享年73。
 妻は上野総社藩 秋元家家臣 大沼靱負の娘。
 
二代 小栗 信政(のぶまさ)【1626~1671】
 小栗信由の長男。
 1636年(11)に御小姓組の番士に列し、のちに御書院番となりました。1661年に36歳で家督相続しました。享年46。
 妻は旗本 小長谷政平の娘。
 
三代 小栗 信行(のぶゆき)【1669~1725】
 小栗信政の長男。
 1671年にわずか3歳で家督相続しました。1690年(22)に御書院番に列しました。享年57。
 妻は御手鷹師頭 阿部重勝の娘。
 
四代 小栗 信倚(のぶより)【1698~1774】
 小栗信行の長男。
 1725年に28歳で家督相続しました。1730年(33)に御書院番に列し、1767年に70歳で隠居しました。享年77。
 妻は松平(深溝)忠豊の養女(忠豊の兄高久の娘)。
 
五代 小栗 信霽(のぶはる)【1725~?】
 小栗信倚の長男、母は松平忠豊の養女。
 1767年に43歳で家督相続し、西ノ丸の御書院番となり、のちに進物役をつとめました。1790年(66)に本丸に勤士し、1794年に70歳で隠居しました。
 妻は旗本 三島政申の娘。
 
六代 小栗 信崇(のぶたか)【1758~?】
 小栗信霽の二男、母は三島政申の娘。
 1794年に37歳で家督相続しました。1797年(40)に御小姓組の番士となりました。
 妻は水戸家 家臣山口忠晴の娘、後妻は旗本 伊丹康朶の娘。
 

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源氏系 旗本小栗氏略系図 2
 
 

(3)旗本:小栗安五郎家

(寛政年間までの当主)
小栗 信則(のぶのり)【1635~1671】
 小栗信由の二男。
 1651年(17)に召されて徳川綱吉の附属となり、神田屋敷において書院番をつとめました。享年37。
 妻は日向高鍋藩秋月家家臣 浜田孫左衛門の娘。
 
初代 小栗 信忠(のぶただ)【1660~1689】
 小栗信則の長男、母は浜田孫左衛門の娘。
 はじめ神田屋敷において書院番をつとめ、1680年(21)に綱吉の子徳松に従って西ノ丸に入り、蔵米二百俵を賜り、その後小普請となりました。享年30。
 妻は旗本 上田元房の娘。
 
二代 小栗 信次(のぶつぐ)【1682~1754】
 小栗信忠の長男、母は上田元房の娘。
 1689年にわずか8歳で家督相続しました。1703年(22)に大番となり、翌年辞職しました。享年73。
 妻は疋田勘左衛門の娘。
 
三代 小栗 信近(のぶちか)【1717~1792】
 小栗信次の長男、母は飯田氏。
 1754年に38歳で家督相続しました。1761年(45)に大番となり、1786年(70)に老齢により辞職しました。1789年に73歳で隠居しました。享年76。
 妻は大島義従の娘。
 
四代 小栗 信安(のぶやす)【1751~?】
 小栗信近の長男、母は大島義従の娘。
 1789年に39歳で家督相続しました。1793年(43)に大番に列し、1798年(48)に新番に移りました。
 妻は旗本 松平(大給)近晴の娘。
 
小栗 信種(のぶたね)
 医家 天野敬登の三男、母は大八木高豊の娘。
 信安の婿養子となりました。
 妻は小栗信康の養女(旗本 松平(大給)近兼の娘)
 
 

(4)旗本:小栗小十郎家

(寛政年間までの当主)
初代 小栗 忠次(ただつぐ)【1597~1680】
 小栗忠政の四男、母は天野康景の娘。
 1617年(21)に召されて二代将軍 徳川秀忠に仕えて御小姓組の番士となり、常陸国内で四百石を賜りました。その後大番に列しました。享年84。
 妻は旗本 前田定良の娘。
 
二代 小栗 忠珍(ただよし)【1637~1725】
 小栗忠次の長男、母は前田定良の娘。
 1653年(17)に大番に列しました。1680年に44歳で家督相続し、1687年(51)に御天守番頭、1702年(66)に御先手弓頭となり、百石を加えられて五百石となりました。1722年(86)に老齢により辞職して寄合に列し、1723年に87歳で隠居し、隠居料として蔵米四百俵を賜りました。享年89。
 妻は旗本 須田盛正の娘。
 
三代 小栗 忠親(ただちか)【1656~1746】
 小栗忠珍の長男、母は須田盛正の娘。
 1683年(28)に大番となり、蔵米二百俵を賜りました。1697年(42)に御蔵奉行、翌年に大番組頭に転じ、さらに翌年二百俵を加増されました。
 1723年に68歳で家督相続し、これまでの蔵米四百俵は父の隠居料に当てられました。1725年(70)に西ノ丸御裏門番頭にうつり、1737年(82)に老齢により辞職して寄合に列しました。享年91。
 妻は旗本 日下宗春の娘。
 
小栗 忠位(ただくら)【?~1729】
 小栗忠親の長男、母は日下宗春の娘。
 1705年に御小姓組の番士となりましたが、父に先立ち没しました。
 妻は小笠原彦九郎の娘。
 
四代 小栗 供忠(ともただ)【1719~1762】
 宗家小栗信盛の二男、母は高山利勝の娘。
 忠親の婿養子となり、1732年(14)に八代将軍 徳川吉宗に初お目見えし、1735年(17)に御小姓組の番士となりました。1746年に28歳で家督相続し、1753年(35)に番を辞職し、1757年に39歳で隠居しました。享年44。
 妻は小栗忠親の養女(小栗忠位の娘)。
 
五代 小栗 忠道(ただみち)【1739~1796】
 小栗供忠の長男、母は小栗忠親の養女。
 1757年に19歳で家督相続し、1764年(26)に大番となり、1775年(37)に辞職しました。1780年(42)に常陸国内の知行地を武蔵国内に移されました。1784年に46歳で隠居しました。享年58。
 妻は宗家 小栗喜政の娘。
 
六代 小栗 忠挙(ただたか)【1763~?】
 小栗忠道の長男、母は小栗喜政の娘。
 1784年に22歳で家督相続しました。
 妻は旗本 天野康寿の娘(離婚)。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻(東洋書林
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 家紋・旗本八万騎 高橋賢一著(秋田書店
 日本人名大辞典(講談社
 千葉いまむかし No.7 (千葉市編集委員会
 維新前後の政争と小栗上野の死 蜷川新 著(日本書院 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 明治維新人名辞典(吉川弘文館
 群馬県史 第2巻(群馬県教育会 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。