探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

武蔵岡部藩 安部家

こんにちは、勘矢です。
今回は武蔵岡部藩安部家とその一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 安部氏とは

 安部氏は信濃国(長野県)諏訪郡の出身で、清和源氏満快流、諏訪氏、滋野氏などの説があるが詳しいことは不明。諏訪から駿河国安部谷(静岡県静岡市)に移って安部氏を称しました。安部は安倍とも書き、読みは「あべ」とも「あんべ」ともいう。
 元真ははじめ今川義元・氏真父子に属していましたが、のちに徳川家康に仕えました。元真の子信勝は、1590年に家康が関東に移封されると、武蔵国榛沢郡(埼玉県)・下野国梁田郡(栃木県)で五千二百五十石を与えられました。信勝は1600年に大坂で没しました。
 嫡男信盛は1648年に大坂定番となり、加増されて一万九千二百五十石となって諸侯に列しました。その子信之は加増され二万二百五十石となりました。信峯は赤穂事件で従兄弟の浅野長矩連座して一時出仕を止められました。
 幕末の信発は1868年に三河国半原(愛知県新城市)に移り半原藩と称し、廃藩置県を迎えました。
 

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安部氏略系図
 
 

2. 武蔵岡部藩主一覧

初代 安部 信盛(のぶもり)【1584~1673】
 安部信勝の嫡男、母は水野忠重の娘。
 1600年(17)に家督を相続し、上杉征伐時に本多正信に属して下野国小山まで出陣しました。1605年(22)に徳川秀忠が将軍宣下で上洛する際に供奉し、のちに御書院番となりました。1614年(31)小姓組番頭をつとめ、大坂の両陣に従軍しました。1616年(33)に御徒頭、書院番頭を兼任しました。1620年(37)に二代将軍秀忠の娘和子が入内したときに供奉しました。1623年(40)に大番頭に転任しました。
 1636年(53)に三河国内で四千石を加増され、九千二百五十石を領しました。1648年(65)に大坂定番になりました。このとき摂津国内で一万石を加増され、翌1649年(66)に岡部藩を立藩しました。1662年に79歳で隠居しました。享年90。
 正室徳川家康の養女(信濃高遠城主 保科正直の娘・徳川家康の姪)。
 
二代 安部 信之(のぶゆき)【1604~1683】
 安部信盛の嫡男、母は保科正直の娘。
 1634年(31)に三代将軍徳川家光の上洛に従いました。1662年に59歳で武蔵岡部藩を相続しました。このとき弟信秀と信直にそれぞれ千石を分与したので、一万七千二百五十石となりました。1665年(62)に駿府加番、1668年(65)に大坂定番となり、三河国内で三千石を加増されて二万二百五十石となりました。1677年(74)に大坂定番を辞任しました。翌1678年に75歳で隠居しました。享年80。
 正室は大和高取藩主 植村家政の娘、継室は旗本 長谷川正尚の娘。
 
三代 安部 信友(のぶとも)【1638~1701】
 安部信之の嫡男、母は植村家政の娘。
 1678年に41歳で武蔵岡部藩を相続しました。このとき弟信厚に新墾田千石を分与しました。1682年(45)に大番頭となり二千石を加増されて二万二千二百五十石となりました。1686年(49)に大坂定番となり、1701年(64)に大坂で没しました。享年64。
 正室は志摩鳥羽藩主 内藤忠政の娘。
 
鳥羽藩内藤家についてはこちらをご覧ください。
四代 安部 信峯(のぶみね)【1659~1706】
 安部信友の長男、母は内藤忠政の娘。
 1701年(43)に父が没した直後に播磨赤穂藩浅野長矩が刃傷事件を起こし、信峯は従兄であったので連座して出仕を差し止められました。その後ゆるされて武蔵岡部藩を相続しました。このとき弟信方に二千石を分与し、二万二百五十石となりました。享年48。
 正室は日向高鍋藩主 秋月種信の娘。
 
赤穂藩浅野家についてはこちらをご覧ください。
 
五代 安部 信賢(のぶかた)【1685~1723】
 安部信峯の嫡男、母は秋月種信の娘。
 1706年に22歳で武蔵岡部藩を相続しました。このとき弟の信政に新墾田千石を分与しました。1710年(26)に相模川の河川普請を命ぜられ、普請終了後、信賢と家臣らがそれぞれ褒賞を受けました。享年39。
 正室は旗本 青山秘成の養女(遠江浜松藩主 青山忠重の娘)。
 
六代 安部 信平(のぶひら)【1710~1750】
 安部信賢の長男、母は青山秘成の養女。
 1723年に14歳で武蔵岡部藩を相続しました。1737年(28)と1741年(32)に大坂加番をつとめました。享年41。
 
七代 安部 信允(のぶちか)【1728~1798】
 一族で旗本 安部信興の二男、母は八木高輔の娘。
 1750年に23歳で武蔵岡部藩を相続しました。1753年(26)と1763年(36)に大坂加番、1771年(44)から1781年まで大坂定番をつとめました。1782年に55歳で隠居しました。享年71。
 正室は越前丸岡藩主 有馬一準の娘。
 
丸岡藩有馬家についてはこちらをご覧ください。
 
八代 安部 信亨(のぶみち)【1758~1822】
 安部信允の嫡男、母は有馬一準の娘。
 1782年に25歳で武蔵岡部藩を相続しました。1786年(29)に大坂加番、1795年(38)から1804年(47)まで大坂定番をつとめました。1806に49歳で隠居しました。享年65。
 正室は近江大溝藩主 分部光庸の娘。
 
九代 安部 信操(のぶもち)【1790~1825】
 安部信亨の三男。
 1806年に17歳で武蔵岡部藩を相続しました。江戸城の和田倉門・半蔵門などの番役をつとめ、1813年(24)に大坂加番をつとめました。その後も江戸城一橋門・馬場先門などの番役をつとめました。享年36。
 正室は美作勝山藩主 三浦前次の娘、継室は近江大溝藩主 分部光実の娘。
 
十代 安部 信任(のぶより)【1809~1828】
 安部信操の嫡男、母は三浦前次の娘。
 1825年に17歳で武蔵岡部藩を相続しました。1827年(19)に大坂加番をつとめました。享年20。
 正室丹波亀山藩主 松平(形原)信志の娘、継室は丹後宮津藩主 松平(本庄)宗発の娘。
 
十一代 安部 信古(のぶひさ)【1815~1842】
 安部信操の二男。
 1828年に14歳で武蔵岡部藩を相続しました。1832年(18)と1842年(28)に大坂加番をつとめました。2回目は就任して間もなく没しました。享年28。
 正室尾張藩付家老 竹腰正定の娘。
 
十二代 安部 信宝(のぶたか)【1839~1863】
 安部信古の子。
 1842年にわずか4歳で武蔵岡部藩を相続しました。1846年(8)から1853年(15)まで高島流砲術家の高島秋帆が岡部藩に預けられました。1858年(20)に大坂加番となり、1863年(25)に二条加番となりましたが、在番中に没しました。享年25。
正室は播磨姫路藩主 酒井忠学の娘 房。
 
十三代 安部 信発(のぶおき)【1845~1895】
 武蔵金沢藩主 米倉昌寿の九男。
 1863年に19歳で武蔵岡部藩を相続しました。1865年(21)から1868年(24)まで江戸城鍛冶橋門・日比谷門などの警備役、江戸市中の警邏などをつとめました。
 1868年(24)名古屋において東海道先方総督柳原前光・橋本実梁に恭順の証書を提出しました。その後、三河国八名郡半原村への移転を差出し、許されて三河半原藩が成立しました。1869(25)に半原知藩事に任ぜられ、1871年(27)に廃藩置県を迎えました。享年51。
 正室は安部信宝の養女(安部信方の娘)艶。
 

3. 安部家の婚姻関係

(1)安部家と徳川家

 安部信勝は徳川家康の叔父水野忠重の娘(家康の従妹)を妻に迎えました。
 信勝の子信盛は家康の養女を正室に迎えました。家康の養女は信濃高遠城主保科正直の娘で、母は家康の異母妹でした。
 信盛の子のうち正室の男子は信之、信孝、貞信、信秀でした。信之は岡部藩を相続し、信孝は御書院の番士や御小姓組の組頭をつとめましたが、嗣子なく没しました。貞信は廩米三百俵を賜り分家し、信秀ははじめ廩米三百俵を賜るものちに兄より千石を与えられ(廩米は収公)分家しました。
 

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安部家と徳川家の関係図
 

(2)安部信宝の婿養子信発

 安部信宝は子がなかったので、一族安部信方の娘を養女にし、遠縁の武蔵金沢藩主米倉昌寿の九男信発を婿に迎えました。
米倉家と安部家の関係を辿ると、信発の父昌寿の正室は越前鯖江藩主間部詮煕の娘でした。詮煕の叔父間部方元の妻の従姉妹が旗本安部信正に嫁いでいました。信正の曽祖父が安部宗家より分家しました。

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安部信発の関係図
 
 
 

3. 岡部散歩~高島秋帆幽囚の地・源勝院・岡部神社~

 JR高崎線岡部駅から徒歩20分ぐらいの所に岡部陣屋跡があります。江戸後期の高島流砲術家を創始した高島秋帆が幽囚された場所に石碑と案内板があります。陣屋があったあたりは住宅や畑になっています。中山道に面する立地です。
 

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JR岡部駅前の案内板(拡大)
 

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高島秋帆幽囚の地~岡部陣屋跡~
 
 陣屋跡から徒歩10分ぐらいのところに菩提寺の源勝院があり、初代藩主信盛から十二代藩主信宝までの墓所が左から順に並んでいます。陣屋とは中山道を挟んだ向かい側にエリアにあります。
 1590年に岡部領を与えられた信勝が亡父元真を追福のため、人見村(深谷市)昌福寺八世賢達和尚を招き、源勝院を開基しました。信勝は大坂で亡くなったため、大坂の鳳林寺に葬られました。
 

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源勝院
 
 また、その隣には岡部神社があります。岡部藩主安部氏は代々祈願所としました。
 

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岡部神社
 
 

4. 大坂城の警備ー大坂定番・大坂加番ー

 岡部藩主岡部家のほとんどの藩主は大坂定番もしくは大坂加番をつとめました。
 大坂夏の陣の後に再建された大坂城には大坂城代が置かれました。その下に定番、大番、加番、目付が置かれました。定番は小大名、大番は旗本、加番は小大名、目付は旗本が交代でつとめました。
 大坂定番は老中支配の役職で、大坂城警備のため、京橋口・玉造口の警備にあたり、一万石から二万石クラスの譜代大名から2名選ばれました。定番には定められた任期はありませんでした。
 大坂加番は定番または大番に加勢して城の警備にあたり、山里加番(一加番)、中小屋加番(二加番)、青屋口加番(三加番)、雁木坂加番(四加番)の4名でした。加番は1年交代と定められていました。
 

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大坂城 六番櫓
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
 -特別展-大名と藩 天下泰平の立役者たち(埼玉県立 歴史と民俗の博物館)
 大坂加番 仰せ付けられ候(勝山城博物館)
 数字と図表で読み解く 徳川幕府の実力と統治のしくみ(新人物往来社
 大阪府中之島図書館 大坂城代・定番・町奉行・加番一覧
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。