探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

備中岡田藩伊東氏とその分家

こんにちは、勘矢です。
今回は備中岡田藩伊東氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 備中岡田藩伊東氏

 伊東祐清の子孫長久は、尾張織田信長に仕えて赤母衣衆となった。近江国小谷城攻めのときに羽柴秀吉の麾下となり、小牧長久手の戦い・佐々成政攻めに従軍した。その子 長実も秀吉に仕え、黄母衣衆に加えられた。1590年の山中城攻めで功名をあげ、備中川辺で一万石を与えられた。
 大坂の陣では豊臣方として戦い、落城の際に子の長昌とともに高野山に逃れたが、関ヶ原の戦いの際の功によって赦されて出仕を命じられた。備中・美濃・摂津・河内国内で一万三百四十余石を与えられ、備中岡田に陣屋を構えた。
以降、転封もなく長としのときに廃藩置県を迎えました。
 伊東長次の三男 長重は別に蔵米二百俵を与えられ、長法のときに百俵を加増され三百俵となった。
 

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備中岡田藩伊東氏略系図
 

2. 備中岡田藩伊東家

初代 伊東 長実(ながざね)【1560~1629】
 伊東長久の嫡男、母は側室 川崎氏。
 1615年(56)に備中などで一万三百四十余石を与えられ、岡田に陣屋を構えました。享年70。
 正室は神子田半左衛門の娘。
 
二代 伊東 長昌(ながまさ)【1593~1640】
 伊東長実の二男、母は神子田半左衛門の娘。
 1608年(16)に大御所 徳川家康に仕え、1615年(23)に兄長直が没すると公命により豊臣秀頼に属しました。大坂夏の陣後、父とともに家康に仕えました。1629年に37歳で備中岡田藩を相続しました。享年48。
 正室京都所司代 板倉勝重の養女(中島重次の娘)。
 
三代 伊東 長治(ながはる)【1628~1658】
 伊東長昌の嫡男、母は板倉勝重の養女。
 1640年に13歳で備中岡田藩を相続しました。享年31。
 正室は上総佐貫藩主 松平(能見)勝隆の養女(勝隆の兄松重則の娘)。
 
四代 伊東 長貞(ながさだ)【1643~1693】
 伊東長治の長男、母は松平(能見)勝隆の養女。
 1658年に16歳で備中岡田藩を相続しました。1677年(35)から近江水口城を守備し、1692年(50)に駿府加番となり、その地で没しました。享年51。
 正室は旗本 大久保教勝の娘。
 
五代 伊東 長救(ながひら)【1662~1745】
 伊東長貞の長男、母は大久保教勝の娘。
 1693年に32歳で備中岡田藩を相続しました。翌年に奥詰衆、御小姓となるも数カ月で辞職しました。享保の初めごろに新本義民騒動が起きました。1723年に62歳で隠居しました。享年84。
 正室は豊後日出藩主 木下俊長の娘。
 
六代 伊東 長丘(ながおか)【1697~1782】
 伊東長救の長男、母は側室 堀田氏。
 1723年に27歳で備中岡田藩を相続しました。1763年に67歳で隠居しました。享年86。
 正室駿河松長藩主 大久保教寛の娘、継室は信濃飯山藩主 本多助芳の娘。
 
七代 伊東 長詮(ながとし)【1736~1778】
 伊東長丘の三男、母は大久保教寛の娘。
 1763年に28歳で備中岡田藩を相続しました。1770年(35)の旱魃で領民が苦しんだとき、自ら粗衣粗食し邸内の稲荷社に降雨を祈り、領民へ救恤米を授けました。享年43。
 正室肥前福江藩主 五島盛道の娘。
 
八代 伊東 長寛(ながとも)【1764~1850】
 伊東長詮の長男、母は五島盛道の娘。
 1778年に15歳で備中岡田藩を相続しました。1785年(22)に駿府加番をつとめました。1791年(28)に藩財政の建て直しを行いました。1795年(32)に藩校敬学館を創設しました。享年87。
 正室肥前福江藩主 五島盛運の養女(盛運の兄盛義の娘)。また、長寛の正室は母の姪にあたる。
 継室は播磨赤穂藩主 森忠興の娘。
 
九代 伊東 長裕(ながやす)【1816~1860】
 伊東長寛の五男 長禎の長男。
 長寛の十一男 長之の養子となりましたが、長之が病弱のため廃嫡となったので、1844年(29)に嫡孫となりました。1850年に35歳で備中岡田藩を相続しました。享年45。
 正室は伊勢菰野藩主 土方雄興の娘。
 
十代 伊東 長とし(ながとし)【1844~1900】

 伊東長寛の十五男 長生の子、母は側室 乾氏。

 長裕の養子となり、1860年に17歳で備中岡田藩を相続しました。1868年(25)に岡山藩のすすめで新政府に帰順し、朝敵になった備中松山藩板倉勝静の居城備中松山城を攻撃に従軍しました。1869年(26)に版籍奉還して岡田藩知事となり、1871年(28)に廃藩置県を迎えました。享年57。
 正室は公家 葉室長順の娘、継室は大橋重助の娘。
 
 「とし」の漢字は、卒の異体字「卆」に十の左下に小さく「百」、十の右下に小さく「千」を置いた字[]である。
 

3. 旗本:伊東忠左衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 伊東 長重(ながしげ)【1596~1622】
 伊東長次の三男、母は神子田半左衛門の娘。
 二代将軍 徳川秀忠に仕え、蔵米二百俵を賜りました。享年27。
 
二代 伊東 長法(ながのり)【?~1677】
 堀田盛正の二男、母は伊東長次の娘。長次の養子になった長行と長法は同一人物される。
 長重の養子となり、某年に家督相続しました。1633年に御小姓組に列し、1660年に百俵を加えられて三百俵となりました。1670年に辞職し、小普請となりました。
 
三代 伊東 包次(かねつぐ)【?~1704】
 伊東長法の長男。
 1677年に家督相続しました。1691年に桐間の番士となり、翌年に御書院番に列しました。1701年より進物役をつとめました。
 妻は旗本 竹尾元清の娘。
 
四代 伊東 包法(かねのり)【1703~1763】
 伊東包次の長男、母は竹尾元清の娘。
 1704年にわずか2歳で家督相続しました。1737年(35)に西ノ丸の御書院番となり、翌年辞職しました。享年61。
 妻は斎藤忠矩の娘(離婚)、後妻は松平筑後守家臣 青柳玄良の娘。
 
五代 伊東 包種(かねたね)【1735~?】
 伊東包法の長男、母は青柳玄良の娘。
 1763年に29歳で家督相続しました。1766年(32)に西ノ丸の御小姓組に列し、その後本丸でも勤仕し、1788年(54)に辞職しました。1789年に55歳で隠居しました。
 妻は武蔵忍藩 阿部家家臣 井上弥三郎の娘。
 
六代 伊東 長栄(ながよし)【1766~?】
 旗本松平(大給)近明の二男、母は村井氏。
 包種の養子となり、1789年に24歳で家督相続しました。1796年(31)に御小姓組の番士となり、その後西ノ丸に移りました。1817年(52)に西ノ丸御小姓組の与頭となり、1826年(61)に御役御免となりました。
 妻は旗本 大平俊恒の娘。
 
※旗本家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻(東洋書林
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。