探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

大岡越前とその一族

こんばんは、勘矢です。

今回は大岡一族について調べたことをまとめました。

 

 

1. 大岡氏とは

 大岡氏は五摂家のひとつ九条家の流れをくみ、子孫が三河国碧海郡大岡郷(愛知県安城市)に移ってきて、大岡氏を称したといわれます。その後、助勝が松平家に仕え、松平広忠の一字をもらい忠勝と名乗り、以降「忠」の字を通字とした。
 忠政には忠行、忠世、忠吉の三子あり、大きく3つの系統に分かれました。一族同士で養子のやりとりすることが多くありました。寛政重修所家譜によると、寛政年間までに大名2家と旗本9家(うち2家は断絶)がありました。
 忠世の家系からは町奉行として有名な大岡忠相を輩出し、三河西大平藩主になりました。忠吉の家系の分家から家重の側近になった大岡忠光を輩出し、武蔵岩槻藩主になりました。
 寛政重修所家譜をベースに作成した略系図がこちらになります。旗本は寛政年間まで、大名は廃藩までを記載しました。着色の名前は、同一人物を表します。

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大岡氏 略系図

 

2. 大岡忠相徳川吉宗の関係

 忠相は山田奉行在任中に紀州藩領と天領の争論に対し、紀州藩に不利な裁定を下しました。そのときの紀州藩徳川吉宗は、御三家の威光を恐れない気骨のある男という印象を持ったようです。その後、吉宗が将軍に就任すると、忠相を町奉行に抜擢します。
 忠相の母方を調べてみると高祖母が徳川家康の生母お大の方になります。お大の方と再婚相手の久松俊勝の間に生まれた多却姫(家康の異父妹)が保科正直に嫁ぎ、その息子が後北条氏に養子に入った氏重、その娘が忠相の母になります。忠相と吉宗は8等親になります。

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徳川家と大岡家の関係図

 

3. 大岡一族の歴代当主

(1)大岡伝蔵家

相模・武蔵内 1400石余
※寛政年間までの当主  
 
家祖:大岡 忠勝(ただかつ)【生没年不詳】
 
初代:大岡 忠政(ただまさ)【1548~1629】
 大岡忠勝の三男。
 相模国高座郡堤村を与えられ、浄見寺をひらきました。享年82。
 妻は駿河三枚橋城主 松平康親の養女、実は石川康正の娘(数正の姉妹にあたる)。
 
二代:大岡 忠行(ただゆき)【1576~1615】
 大岡忠政の二男、母は松平康親の養女。
 大坂夏の陣にて戦死。享年40。
 妻は筒井正吉の娘。
 
三代:大岡 忠種(ただたね)【1611~1684】
 一族大岡忠世の長男。
 伯父忠行の養子となり、5歳で相続しました。1682年に72歳で隠居しました。享年74。
 妻は旗本 浅井元吉の娘。
 
四代:大岡 忠方(ただかた)【1641~1688】
 大岡忠種の長男、母は浅井元吉の娘。
 1682年に42歳で相続しました。享年48。
 妻は旗本 服部貞常の娘。
 
五代:大岡 忠種(ただたね)【1669~1697】
 大岡忠方長男、母は服部貞常の娘。祖父と同じ名を名乗る。
 1688年に20歳で相続しました。享年29。
 妻は旗本 戸田直武の娘。
 
六代:大岡 忠恒(ただつね)【1684~1761】
 一族大岡忠高の六男で、母は北条氏重の娘。
 1697年に14歳で相続しました。享年78。
 妻は旗本 鈴木重舊の娘。
 
七代:大岡 忠居(ただおき)【1731~1784】
 大岡忠恒の長男氏。
 1761年に31歳で相続しました。享年54。
 妻は旗本 田付景林の娘。
 
八代:大岡 忠慎(ただちか)【1756~?】
 大岡忠居の長男、母は田付景林の娘。
 1784年に29歳で相続しました。
 

(2)大岡五左衛門家

初代:大岡 忠英(ただふさ)【1650~1696】
 大岡忠種の二男。
 大岡伝蔵家から分家(廩米500俵)しました。上役の高力忠弘を殺害し、その家臣に害されました。享年47。
 妻は旗本 高田政信の娘。
 

(3)大岡越前家(三河西大平藩)

相模内 1920石→(忠相)相模・武蔵等 5920石→大名 1万石
 
初代:大岡 忠世(ただよ)【1576~1640】
 大岡忠政の三男、母は松平康親の養女。
 父から大曲村を分けられました。享年65。
 
二代:大岡 忠真(ただざね)【1637~1700】
 大岡忠世の二男。
 1642年に6歳で相続。駿府定番などをつとめた。享年64。
 妻は旗本 伏見為則の娘、後妻は一族 大岡忠章の娘、後妻は旗本 小澤重長の娘。
 
三代/大名 初代:大岡 忠相(ただすけ)【1677~1751】
 一族 大岡忠高の四男、母は北条氏重の娘。
 10歳のときに忠真の養子になりました。1700年に24歳で相続。山田奉行などを経て江戸町奉行となりました。また、町奉行に加え関東地方御用掛を兼任し、武蔵野新田開発にも関わりました。
 1736年に60歳で寺社奉行となり、足高を加えて1万石格となりました。72歳の1748年に奏者番を兼任し、足高分の4080石を領地として三河国に与えられ1万石となり、三河西大平に居所を構えました。享年75。
 正室大岡忠真の娘。
 
二代:大岡 忠宜(ただよし)【1709~1766】
 大岡忠相の二男、母は市川氏。
 1752年に44歳で三河西大平藩を相続しました。享年58。
 正室は豊後府内藩主 松平(能見)近禎の養女(分家松平近苗の娘)。
 
三代:大岡 忠恒(ただつね)【1751~1786】
 大岡忠宜の二男、母は小瀬氏。
 1766年に16歳で三河西大平藩を相続しました。1784年に34歳で隠居。享年36。
 
四代:大岡 忠与(ただとも)【1758~1786】
 播磨安志藩主 小笠原長逵の四男で、母は小林氏。
 1783年に26歳で忠恒の養子になりました。翌1784年に27歳で三河西大平藩を相続しました。享年29。
 正室は大岡忠恒の養女(大岡忠宜の娘)。
 
五代:大岡 忠移(ただより)【1784~1837】
 大岡忠恒の子。
 兄の養子となり、1786年にわずか3歳で三河西大平藩を相続しました。1828年に45歳で隠居しました。享年54。
 正室は下総結城藩主 水野勝起の娘、後室は伊勢長島藩主 増山正賢の娘。
 
六代:大岡 忠愛(ただよし)【1807~1857】
 大岡忠移の嫡男、母は増山正賢の娘。
 1828年に22歳で三河西大平藩を相続しました。奏者番をつとめました。享年51。
 正室は伊勢桑名藩主 松平忠翼の娘。
 
七代:大岡 忠敬(ただたか)【1828~1887】
 大岡忠移の五男。
 兄の養子となり、1857年に30歳で三河西大平藩を相続しました。1869年(42歳)に知藩事となり、1871年 (44歳)に廃藩となりました。享年60。
 正室は安藤広勤の伯母。
 

(4)大岡亀之丞家

相模・山城・上野・下野・大和内 2300石余
※寛政年間までの当主
 
初代:大岡 忠吉(ただよし)【1587~1656】
 大岡忠政四男。
 1603年の17歳のとき、相模国鎌倉郡に領地を与えられました。大坂の陣に従軍しました。1633年(47歳)のとき東福門院の附属となり、山城国相楽郡に加増されました。享年70。
 妻は紀州藩臣 加納久利の娘。
 
二代:大岡 忠章(ただあき)【1610~1657】
 大岡忠吉の長男、母は加納久利の娘。
 1656年47歳で相続しました。享年48。
 妻は旗本 神尾元勝の娘。
 
三代:大岡 忠高(ただたか)【1635~1701】
 大岡忠章の長男、母は神尾元勝の娘。享年67。
 妻は遠江掛川藩主 北条氏重の娘。
 
四代:大岡 忠品(ただしな)【1667~1710】
 大岡忠高の長男で、母は北条氏重の娘。
 小姓組の番士となりました。1693年(27歳)に勘気を被り八丈島に流されました。3年後に赦免され、1701年に35歳で相続しました。享年44。
 
五代:大岡 忠陳(ただのぶ)【1695~1726】
 大岡忠品の長男。
 1710年に16歳で相続しました。享年32。
 妻は旗本 佐野勝由の娘、のち離婚。後妻は旗本 成瀬正起の娘。
 
六代:大岡 忠斟(ただます)【1715~1736】
 大岡忠陳の長男、母は成瀬正起の娘。
 1728年に14歳で相続しました。享年22。
 
七代:大岡 忠移(ただより)【1720~1764】
 大岡忠陳の二男、母は成瀬正起の娘。
 兄の養子となり1736年に17歳で相続しました。山田奉行や長崎奉行をつとめました。享年45。
 妻は旗本 曲淵英允の娘。
 
八代:大岡 忠順(ただとも)【1736~1778】
 一族大岡忠恒の二男。
 1764年に29歳で相続しました。享年43。
 妻は旗本 曲淵英政の娘(先代正室の姪)。
 
九代:大岡 忠卿(ただのり)【1771~?】
 大岡忠順の長男で、曲淵英政の娘。
 1778年にわずか8歳で相続しました。
 妻は旗本 駒木根政永の娘。
 

(5)大岡土佐守家

武蔵・上野内 2000石
※寛政年間までの当主
 
初代:三浦 吉明(よしあき)【1613~1660】
 大岡忠吉の二男、母は加納久利の娘。
 1627年の15歳のとき、小姓組となり廩米のちに采地400石を賜りました。享年48。
 妻は松平清直の娘。
 
二代:大岡 政春(まさはる)【1646~1721】
 戸田政次の三男、母は大岡忠吉の娘。
 1660年に15歳で相続しました。三浦から大岡に復しました。数回の加増により2000石となりました。1718年に73歳で隠居しました。享年76。
 妻は旗本 米津重勝の養女(竹村嘉広の娘)。
 
三代:大岡 忠征(ただゆき)【1700~1753】
 大岡政春の三男。
 1718年に19歳で相続しました。享年54。
 妻は紀州藩臣 安藤正尊の養女。
 
四代:大岡 忠近(ただちか)【1725~1777】
 大岡忠征の長男、母は安藤正尊の養女。
 1754年に29歳で相続しました。享年53。
 妻は旗本 島津久芬の養女。後妻は旗本 戸田光輝の娘。
 
五代:大岡 忠美(ただみ)【1761~?】
 大岡忠近の長男。
 1777年に17歳で相続しました。
 妻は旗本 大久保教和の養女(大久保忠方三男忠章娘)
 

(6)大岡惣兵衛家

初代:大岡 忠宗(ただむね)【1622~1653】
 大岡忠吉の三男、母は加納久利娘。
 1650年の29歳のとき、廩米300俵を賜りました。享年32。
 
二代:大岡 忠信(ただのぶ)【?~1677】
 一族 大岡忠章の三男、母は神尾元勝娘。
 1653年に相続しました。養子嗣子なく断絶しました。
 

(7)大岡主膳正家(武蔵岩槻藩

山城内 300石→(忠光)武蔵・相模等 5000石→大名 2万石→(忠固)2万3000石
 
初代:大岡 忠房(ただふさ)【1624~1688】
 大岡忠吉の四男、母は加納久利の娘。
 1634年(11歳)に将軍家光にお目見えし、はじめ廩米300俵のちに300石を賜りました。享年65。
 
二代:大岡 忠儀(ただのり)【1662~1702】
 大岡忠房の長男。
 1689年に28歳で相続しました。享年41。
 妻は旗本 朝比奈泰景の娘。
 
三代:大岡 忠利(ただとし)【1683~1743】
 大岡忠儀の長男、母は朝比奈泰景の娘。
 1703年に21歳で相続しました。享年61。
 妻は旗本 天野重忠の養女。
 
四代/大名 初代:大岡 忠光(ただみつ)【1709~1760】
 大岡忠利の長男で、母は天野重忠の養女。
 1724年(16歳)に家重の小姓になり、翌年廩米300俵を賜りました。その後、加増を重ねて1751年(43歳)に1万石となり、上総勝浦藩主となりました。その後、若年寄側用人と昇進し、48歳の1756年に武蔵岩槻に加増のうえ移され2万石を領しました。享年52。
 妻は旗本 大井政長の娘。
 
二代:大岡 忠喜(ただよし)【1738~1806】
 大岡忠光の長男。
 1760年に23歳で相続しました。奏者番をつとめました。1782年に45歳で隠居しました。享年69。
 正室は大名 井上正経の養女(旗本 本多忠強の娘)。継室は遠江相良藩田沼意次の養女(旗本 新見正則の娘)。
 
三代:大岡 忠要(ただとし)【1766~1786】
 大岡忠喜の長男。
 1783年に18歳で相続しました。奏者番をつとめました。享年21。
 
四代:大岡 忠烈(ただやす)【1767~1844】
 大岡忠喜の二男。
 兄の養子となり、1786に20歳で相続しました。1797年に31歳で隠居しました。享年78。
 
五代:大岡 忠正(ただまさ)【1781~1816】
 伊勢東阿倉川藩主 加納久周の三男、母は加納久堅の養女。
 1796年に忠烈の養子となり、翌1797年に17歳で相続しました。奏者番をつとめました。享年36。
 正室肥前唐津藩主 水野忠鼎の娘。
 
六代:大岡 忠固(ただかた)【1793~1852】
 伊勢東阿倉川藩主 加納久周の五男。
 1816年に24歳で兄の養子となり相続しました。奏者番・西丸若年寄をつとめ、3000石を加増されました。享年60。
 正室は山城淀藩主 稲葉正諶の娘。
 
七代:大岡 忠恕(ただゆき)【1822~1880】
 大岡忠固の二男。
 1852年に31歳で相続しました。1866年に45歳で隠居しました。享年59。
 正室は旗本 横田春松の娘。
 
八代:大岡 忠貫(ただつら)【1847~1920】
 大岡忠恕の長男。
 1866年に20歳で相続しました。1869年(23歳)に知藩事となり、1871年(25歳)で廃藩となりました。享年74。
 正室は下総古河藩主 土井利則の娘(離縁)、下野高徳藩主 戸田忠至の娘(離縁)縁。
 

(8)大岡久蔵家

山城・常陸内 700石
※寛政年間までの当主  
 
初代:大岡 忠久(ただひさ)【1636~1713】
 大岡忠章の二男、母は神尾元勝の娘。
 1657年(22歳)に300石を分知され、のちに加増され700石となりました。享年78。
 妻は旗本 須田盛信の娘。後妻は旗本 水上正勝の娘。
 
二代:大岡 忠代(ただよ)【1679~1716】
 大岡忠久の長男、母は水上正勝の娘。
 1713年に35歳で相続しました。享年38。
 妻は旗本 武蔵秀一の娘(離婚)。
 
三代:大岡 忠明(ただあき)【1712~1731】
 大岡忠代の長男。
 1716年にわずか5歳で相続しました。享年20。
 
四代:大岡 忠為(ただため)【1715~1788】
 一族 大岡忠脩の三男。
 1731年に17歳で相続しました。享年74。
 妻は松平安芸守家臣 加川宗温の娘。後妻は浅岡胤直の娘(離婚)。
 
五代:大岡 忠次(ただつぐ)【1745~?】
 大岡忠為の長男。
 1788年に44歳で相続しました。
 妻は旗本大久保忠昌の娘。
 

(9)大岡鐐太郎家

※寛政年間までの当主
 
初代:大岡 忠通(ただみち)【1651~1709】
 大岡忠章の四男、母は神尾元勝の娘。
 1680年(30歳)のとき廩米200を賜りました。享年59。
 妻は旗本 佐橋佳明の娘。
 
二代:大岡 忠方(ただかた)【1694~1741】
 大岡忠通の二男、母は佐橋佳明の娘。
 1709年に16歳で相続しました。享年48。
 
三代:大岡 忠主(ただぬし)【1726~1792】
 一族 大岡忠利の二男。
 1741年に16歳で相続しました。1781年に56歳で隠居しました。享年67。
 妻は旗本 服部常晴の娘。
 
四代:大岡 忠植(ただうへ)【1755~?】
 大岡忠主の長男、母は服部常晴の娘。
 1781年に27歳で相続しました。1798年に44歳で隠居しました。
 妻は旗本 京極高庭の娘(離婚)。後妻は旗本 筒井忠昌の養女(筒井忠雄の娘、離婚)。
 
五代:大岡 忠貞(たださだ)【1781~?】
 大岡忠植の長男。
 1798年に18歳で相続しました。
 

(10)大岡久之丞家

※寛政年間までの当主
 
初代:大岡 忠豊(ただとよ)【1662~1711】
 大岡忠章の五男、母は神尾元勝の娘。
 1682年(21歳)に召されて右筆となり、翌年に廩米200俵を賜りました。享年50。
 
二代:大岡 忠平(ただひら)【1691~1715】
 一族 大岡忠儀の三男、母は朝比奈泰景の娘。
 1711年に21歳で相続しました。享年25。
 妻は大岡忠豊の娘。
 
三代:大岡 忠脩(ただなが)【1694~1747】
 一族 大岡忠久の三男、母は水上正勝の娘。
 1715年に22歳で相続しました。1744年に51歳で隠居。享年54。
 妻は松平安芸守家臣 加川宗温の娘。
 
四代:大岡 忠敬(ただたか)【1719~1782】
 大岡忠脩の二男、母は加川宗温の娘。
 1744年に26歳で相続しました。1765年に47歳で隠居しました。享年64。
 
五代:大岡 忠英(ただふさ)【1745~1778】
 一族 大岡忠久の四男。
 1765年に21歳で相続しました。享年34。
 
六代:大岡 忠辰(ただとき)【1760~?】
 旗本 矢部定経の五男。
 1778年に19歳で相続しました。
 妻は大岡忠英の養女(忠敬の娘)。
 

(11)大岡栄太郎家

大和内 500石
※寛政年間までの当主  
 
初代:大岡 忠厚(ただあつ)【1681~1708】
 大岡忠高の五男、母は北条氏重の娘。
 1701年(21歳)に500石を分知されました。享年28。
 
二代:大岡 忠寛【1704~1749】
 一族 大岡忠高の三男忠顕の子。
 1708年にわずか5歳で相続しました。享年46。
 妻は大岡政春の養女(大岡忠極の娘)、後妻は森山義倫の娘。
 
三代:大岡 忠武(ただたけ)【1732~1781】
 大岡忠寛の長男、母は森山義倫の娘。
 1749年に18歳で相続しました。享年50。
 妻は旗本 木造俊永の娘。
 
四代:大岡 忠正(ただまさ)【1756~1792】
 旗本 小栗徳政の四男、母は松平忠陣の娘。
 1781年に26歳で相続しました。享年37。
 妻は大岡忠武の娘。
 
五代:大岡 忠禄(ただよし)【1776~?】
 大岡忠正の長男、母は大岡忠武の娘。
 1792年に17歳で相続しました。
 

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大岡家菩提寺 浄見寺
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
主要参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧コンパクト版(新人物往来社
 特別展 大岡越前守忠相と豊川(豊川市桜ケ丘ミュージアム
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。