探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

御三家 尾張藩 徳川家

こんばんは、勘矢です。

今日は御三家の筆頭尾張藩について書きたいと思います。

 

 

1.清州藩~徳川義直入国以前~

 尾張国は現在の愛知県西部にあたる地域で、織田信長豊臣秀吉の出身地として有名です。清州は尾張の守護がいた尾張の中心地です。本能寺の変のあと、尾張は信長の次男信雄が治めました。小田原攻めのあと、秀吉から領地替えを告げられますが、それを断ったため改易となり、秀吉の家臣福島正則が治めることになりました。

 関ヶ原の戦いで戦功をあげた正則は安芸広島へ移り、代わって徳川家康の四男松平忠吉が武蔵忍より移ってきました。十万石から五十二万石への大幅な加増をされました。これは、忠吉が徳川四天王井伊直政と共に先陣を切って戦い、戦功をあげたことと、、徳川一門に交通の要衝をまかせるにふさわしと期待を込めたのだと思います。ちなみに、忠吉の正室井伊直政の娘です。また、忠吉が松平を名乗っているのは、十八松平の一つ東条松平家を継いでいるためです。十八松平とは、家康以前に分家した松平一族をさします。

 忠吉が嗣子なく死去すると、弟の徳川義直(家康九男)が甲府から移ってきました。石高は四十七万石余です。しかし、義直はまだ8歳のため大御所家康と共に駿府城に居り、付家老の平岩親吉が代わりに治めていました。その後、名古屋城が築城されると、清州の町ごと名古屋城下へ移りました。後世、清州越しといわれました。

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清州藩主一覧

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清州城 模擬天守

2.尾張藩徳川家

 清州から名古屋に居城を移したあと、何回か加増されて、石高は最終的に約六十二万石になりました。廃藩置県までに17代続きました。中期以降のほとんどの藩主が養子による相続になります。9代目までは藩祖義直の血筋を受け継いでいますが、10~14代目は紀州系、15代目以降は水戸系の血筋となります。就任時の平均年齢は22.3です。最高齢は慶勝が知藩事になった47歳、ついで3代綱誠の42歳となります。元服の年齢が15歳前後ですが、それより若い年齢で藩主になっているのが7人います。

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尾張藩主一覧

 黒丸は養子、カッコは数え年を表します。

 初代義直のあとを長男の光友が継ぎます。光友は3代将軍家光の長女千代姫を正室に迎えました。光友が隠居すると嫡男綱誠が継ぎます。母親は千代姫です。

 綱誠のあとを九男吉通が継ぎます。吉通は6代将軍家宣から将軍家の後継者として望まれたことがありましたが、側近の新井白石がこれを退けました。吉通のあとを嫡男五郎太が継ぎますが、数か月後に早世します。普通の大名家であればこれで断絶となったかもしれませんが、御三家の特例で3代綱誠の十一男通顕(五郎太からみると叔父)が継ぐことを許されました。7代将軍家継の一字を賜り継友と改名しました。

 継友は8代将軍をめぐって紀州藩主の徳川吉宗と争いますが、将軍職になることはできませんでした。継友のあとは弟で分家の陸奥梁川藩主の通春を養子に迎えました。

 通春は8代将軍吉宗の一字を賜り宗春と改名します。宗春は吉宗の享保の改革を批判し、抵抗するような政策を実行します。その後、幕府より隠居謹慎を命じられ、それから25年後に死去しましたが、その死後も罪は許されず墓石に金網をかけられました。

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尾張徳川家系図

 宗春のあとを従兄弟で分家の美濃高須藩主松平義淳が尾張藩の相続を許され、吉宗の一字を賜り宗勝と改名しました。宗勝のあとを次男宗睦が継ぎました。宗睦の長男治休、次男治興は父に先立ち、甥の美濃高須藩主松平義柄を養子に迎え、治行と改名して後継者としましたが、これにも先立たれてしまいました。治行には五郎太という子がいましたが早世し、宗睦の弟勝長の子勇丸を養子にするも早世し、義直の血筋の後継者がいなくなりました。そこで11代将軍家斉の子敬之助を養子に迎えるも早世し、一橋家の斉朝を(家斉の弟一橋治国長男)養子に迎えてようやく宗睦の後継者問題は終止符を打ちました。斉朝の正室は家斉の娘淑姫を迎えました。斉朝を選んだ理由は母方をたどる4代吉通につながるからと考えます。

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斉朝の関係図

 しかし、斉朝も跡継ぎがいなかったため、従兄弟の斉温(家斉十九男)を養子に迎えましたが、12年の在職中に一度も尾張の地を踏むことがありませんでした。尾張藩内では分家の美濃高須藩松平義建の次男秀之助(のちの慶勝)を推す意見がありましたが、幕府の命で斉温の兄で田安家当主の斉荘(家斉十一男)が相続することになりました。このとき、宗春の罪は許され、墓石の金網は取り外されました。斉荘のあとを従兄弟の慶藏(田安斉匡七男)が相続しました。4代続けて吉宗の子孫が尾張藩を継ぎました。

 幕府は、慶藏のあとについて兄の田安慶頼に相続させることを目論んでいましたが、藩内では分家高須藩の義恕(秀之助)を推す声が強く、幕府もこれ以上のごり押しは難しいとみて、義恕の相続を認めました。12代将軍家慶の一字を賜り慶恕のちに慶勝と改名しました。日米修好通商条約が結ばれると、慶勝は水戸藩徳川斉昭などと共に不時登城を行い面詰するも失敗し、隠居・急度慎を命じられました。慶勝の母は斉昭の姉妹なので、最後の将軍慶喜とは従兄弟となります。

 慶勝の隠居により、弟で美濃高須藩主の松平義比が相続することになり、14代将軍家茂の一字を賜り茂徳と名を改めました。桜田門外の変のあと兄慶勝が赦免されると、再び藩政に関わるようになり、茂徳の地位は微妙なものとなり、兄慶勝の三男義宜に家督を譲って隠居しました。一橋慶喜が将軍になると一橋家を相続しました。

 義宜は幼少で相続したため、父慶勝が後見役となりました。慶勝は第一次長州征伐に総督となるなど幕末の政局に関わっています。義宜は明治維新後に知藩事となるも病気のために免職となりました。変わって慶勝が知藩事に任命されました。

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名古屋城

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。