探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

近江六角氏

こんにちは、勘矢です。
今回は近江六角氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 六角氏とは

 六角氏は、宇多源氏で近江守護の佐々木信綱の三男 泰綱の屋敷が京都の六角東洞院にあったため、六角氏を称しました。弟の氏信は京極を称してともに佐々木氏の主流となり、近江国南半分の守護職を六角氏、北半分の守護職を京極氏がなって支配しました。
 その後六角氏は近江国をほぼ一国を支配する権限を保持しました。高頼は、応仁の乱の混乱に乗じて勢力拡大を図りましたが、幕府に追討されました。
 その子定頼、孫の義賢の代になると京都を追われた足利義晴足利義輝を庇護し、弱体化した幕府を支えました。
 定頼以降の三代は観音寺城を本拠とし、義賢・義治父子は、足利義昭を奉じた織田信長に攻められて滅亡しました。
 義治の弟の高定は江戸幕府の旗本となりましたが、曽孫の代で断絶しました。
 

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六角氏略系図

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観音寺城跡(奥の山)
麓の建物は左から滋賀県安土城考古博物館、安土城天主 信長の館。
 
 

2. 六角氏の主要人物

六角 泰綱(やすつな)【1213~1276】
 佐々木信綱の三男。六角氏を称し、佐々木氏の嫡流を継いで近江守護となりました。享年64。
 
六角 頼綱(よりつな)【1242~1310】
 六角泰綱の子。執権北条時頼の邸で元服し、のちに鎌倉幕府に仕え、その後近江守護となりました。享年69。
 
六角 時信(ときのぶ)【1306~1346】
 六角頼綱の末子または孫ともいわれる。孫の場合、父は頼綱の子の盛綱とされる。近江守護。足利尊氏六波羅攻めの際に降伏しました。享年41。
 
六角 氏頼(うじより)【1326~1370】
 六角時信の子。足利尊氏に従い、近江守護となりました。享年45。
 
六角 定詮(さだのり)【?~?】
 六角時信の三男。近江守護。観応の擾乱では足利直義方につき、のちに足利義詮に従いました。
 
六角 満高(みつたか)【1369~1416】
 六角氏頼の子。近江守護。飛騨国司の姉小路氏の追討に背いて一時守護職を解かれました。享年48。
 
六角 満綱(みつつな)【?~1445】
 六角満高の子。近江守護。家督を嫡男 持綱に譲るも、これに不服を持った持綱の弟時綱に攻められ自刃しました。
 
六角 久頼(ひさより)【?~1456】
 六角光綱の四男。1445年に幕府の命により還俗し、近江守護となりました。京極持清の支援を受けて兄時綱を滅ぼすも、のちに持清と対立しました。
 
六角 高頼(たかより)【?~1520】
 六角久頼の子。南近江の守護大名応仁の乱では西軍につき、東軍に付いた京極氏と戦いました。その後、公家や寺社領を横領したため、幕府の追討を受けました。
 高頼の娘は、十一代将軍 足利義澄の後妻となりました。
 
六角 定頼(さだより)【1495~1552】
 六角高頼の二男。南近江の守護大名。はじめ出家していましたが、兄が亡くなったため還俗して家督をつぎました。足利義晴の将軍擁立に関わり、のちに管領代となりました。
 定頼の娘たちは、管領家細川晴元、美濃守護の土岐頼芸、伊勢の北畠具教などに嫁ぎました。
 
六角 義賢(よしかた)【1521~1598】
 六角定頼の長男。足利義晴・義輝らを擁して三好氏と戦いました。1557年に家督を義治にゆずり、出家して承禎と号しましたが、実権は握り続けました。六角氏式目を制定しました。享年78。
 
六角 義治(よしはる)【1545~1612】
 六角義賢の長男。初名義弼。家督相続後、観音寺城騒動により家臣団の信頼を失いました。父と共に六角氏式目を制定しました。その後、足利義昭を擁した織田信長に攻められ、観音寺城を捨てて流浪し、戦国大名家 六角氏は滅亡しました。享年68。
 

3. 旗本:佐々木求馬家

初代 佐々木 高定(たかさだ)【1547~1620】
 六角義賢の二男、母は畠山佐馬助の娘。
 一族の大原高保の養子となってその家を継ぎました。1600年(54)の関ヶ原の戦い後に召されて徳川家康に仕え、仰せによって佐々木に復し、近江国内で二千石の知行を賜りました。享年74。
 
二代 佐々木 高和(たかかず)【1586~1650】
 佐々木高定の二男、母は馬淵兵部大輔の娘。
 1597年(12)に徳川家康にお目にかかり、1603年(18)に徳川家康の上洛に供奉し、後に御書院番となりました。享年65。
 妻は讃岐高松藩主 生駒一正の娘。
 
三代 佐々木 高重(たかしげ)【?~1680】
 佐々木高和の二男。
 三代将軍徳川家光に仕えて御小姓組に列し、1650年に相続しました。
 妻は陸奥二本松藩主 加藤明利の娘。
 
四代 佐々木 定賢(さだかた)【1675~1681】
 佐々木高重の長男。
 1680年にわずか6歳で相続するも翌年早世したため絶家となりました。享年7。
 
※旗本各家の家名は寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 日本名字家系事典(東京堂出版
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。